高遠から、白山トンネルを潜り、しばらく行くとダムが見えてくる。・・・ここが美和ダム
そして、これが美和湖・・・
上流で、モーターボートとラフティングをやっているのが見える。ラフティングは急流でやるスポーツだから、初心者への手ほどきも知れない。
三峰川のダムやダム湖なのに、なぜ美和ダムなのだろうか、訝しがって地元の人に尋ねると、湖底に沈んだ集落が美和というのだそうだ。このダムは砂防ダムが主たる目的だという。つまり、三峰川は、地層帯の合わせ目、中央構造線の真上を流れ、土砂崩れや谷を削った土砂が河床を積み上げ、河床が積み上がれば氾濫が起こりやすくなる。その悲劇の歴史を繰り返して、ようやく砂防ダムにたどり着いたという。さらに、三峰川から分流して、東春近に流したおかげで、畑作ばかりの東春近に水田が出来たという。もともと、自然を破壊してコンクリートのダムを作るのは好きではないが、地元の悲劇を知れば、納得しないわけにはいかない。
その美和湖のほとりにある、道の駅
・・道の駅 南アルプス村長谷 と言うのだそうだ。大きくないが、まとまっていて小綺麗。
”パン屋さん”が人気、アルプス村の名から、勝手にイメージするのは”チロル”風・・・
さて、次は溝口へ
常福地本堂・・
南北朝時代、南朝の宗良親王を守って倒れた、上野(群馬・太田)の新田一族の無名戦士の墓とも言われています。南朝が不利の時、続々とこの地に秘匿して、再起を待ったとも言われています。何割かは、この地に住み着いたとも、大徳王寺の戦いで北朝側に敗れたとも言われています。
大徳王寺城 城跡
赤い屋根が常福寺になります。
南北朝時代の終わり頃、大徳王寺の戦いがあったことは、何冊かの古書で確認されていましたが、場所の特定が出来ませんでした。 昭和15年になって、常福寺の屋根裏から、宗良親王の関係する仏像や他が発見され、常福寺の裏山(=御山)が、大徳王寺跡だろうと推測されるようになりました。この時の南朝側は、北条時行と諏訪頼継だったようで、宗良親王は戦いに参加していません。
その後、この地を訪れた親王は、襲われてこの近くで死んだと言われています。
宗良親王のはか・・・
合掌