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漆器 日本的なるもの

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漆器 日本的なるもの

轆轤・漆器皿 in 市立博物館

この色の漆器は珍しい。
絵は松と思われるが、独特な朱の上に描き、透明な漆の膜で、絵を保護しているのか!

食器としての漆器
木の椀は汁を入れると水気が木に染みてしまった。木の椀は、材料が豊富で、軽くて加工しやすい。誰かが、水漏れではないが染みるのを防げれば、実用に耐えるのではないかと思った。・・・古代中国の着想と工夫である。
漆の木に傷を付け、漆の樹液を取り出して椀に塗ってみた。塗っては乾かし、塗り重ねてみたら、漆の膜は水染み、水漏れを防いだ。・・・これが漆の機能である。
そして、この技術が中国から日本へやって来た。時代は、農耕文化や仏教の伝来とほぼ同時期と言われる。正倉院に、漆器が宝物として存在するからだが・・。

紐で軸棒を回転させている絵がある。これが轆轤(ロクロ)。


平安時代に、「木地師」といわれる浮遊の民が生まれた。轆轤を使って、椀や盆などの円形の食器を作る職業集団である。山岳に良木を求めて渡り歩くので、浮遊の民と呼ばれた。集団は大規模ではなく、おそらく5から20の家族の単位であったらしい。
浮遊の民は、浮遊の旅が保証されていたようだ。これは、・・・山中の木を切り,漆その他の塗料を加飾しない木地のままの食器類を作ることを生業とした職人。木地師・木地挽ともよばれ,ろくろを用いることから轆轤師ともいう。
近江国小椋谷の蛭谷・君ヶ畑を本貫地とし,惟喬親王を祖神とするという伝説をもつ集団で、十六花弁の菊紋を付けた通行証を持っていたため、良木を求める旅が可能であったとされる。
惟喬親王を支えた藤原氏家系の二人の兄弟は、小椋、大蔵を名乗った。木地師の多くは、小椋、大蔵、小倉を苗字に持つと言われるのは、その末裔とされるからだ。

木地師の作業風景

芸術としての漆器
やがて時が経つと、権力者たちは、実用の椀に装飾を求めるようになっていった。京の近くや、朝倉氏や、江戸時代には加賀藩や会津藩などが、椀つくりの職人を保護するようになった。この時代になると、木地師の中から漆塗りの職人は分化して、京や庇護者の近くで定住するものが現れる。木地師は、食器に適する良木を伐採し尽くすので、次を求めねばならないが、漆塗り師の必要な漆の木は、幹に傷を付けるだけで伐採をしないので移動の必要はない。

漆塗り師は、定住することにより、漆塗りの技術を飛躍的に発展させた。
まず色であるが、鉄粉を混ぜることにより黒漆が発明された。”漆黒”の誕生である。そのあと顔料を漆に混ぜることにより次々と漆の色が開発された。朱の色は辰砂が原料である。丹党とか丹生とかの名は辰砂の生産地に関係していると言われる。辰砂の朱は、濃淡様々の色合いを出すと言われる。今では白漆と言われるのも開発されています。

さらに発展形は、蒔絵と呼ばれるもの。
蒔絵 ・・蒔絵(まきえ)は、漆工芸技法の一つである。
漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法である。金銀の薄板を定着させる「平文または、平脱」や漆器表面に溝を彫って金銀箔を埋め込む「沈金」、夜光貝、アワビ貝などを文様の形に切り透かしたものを貼ったり埋め込んだりする「螺鈿」などとともに、漆器の代表的加飾技法の一つ。
蒔絵、平文/平脱、沈金、螺鈿などはもはや芸術の極みの領域である。

明治維新になると、日本の漆器に西洋人たちは魅せられて、かなり多くのものが海外に渡った。漆黒の黒や朱椀の朱は西洋にはなかった色で、その深みの色相は魅惑的であった。海外に渡った多くの漆器類は、今は無いという。日本と湿度の違う西洋では、その当時漆器を保全できず、多くの漆器の漆の膜は乾燥で剥がれ、ゴミと化したのだ。無残である。

・・次回は、木地師でもあった”円空”の木彫りの仏像 ・・


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