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古墨田川

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古墨田川

彷徨して、思わぬ地名に出会うとき、その地名の歴史を尋ねることは好きである。
由来を探って見ると、そこに積もった歴史の悲哀を感じ、その土地も好きになる。
”古墨田川”は、岩槻と春日部を流れるやく5Km弱の短い川であるのだが、川の名前がいかにも歴史がありそうで、どうやら探求の誘いに負けてしまった。

春日部は、昔”粕壁”と書き、関東の大河、利根川と荒川の合流地点の、いわば”氾濫原”で、高台の一部を除けば、人が住めるようになったのは、伊奈忠次、忠治の、利根川・荒川の東遷・西遷の治水事業の以降のようである。今一つの特色は、日光東照宮を建立の折、寄せ集められた”腕利きの大工”が、東照宮完成の暁にそこそこの給金を貰い帰途に就いたとき、粕壁の地に至って、ここが気に入って住み着き、桐を材料とする産業を興したという。昨今、ニュースを賑わした”大塚家具”も元を糺せば、東照宮帰りの”桐箪笥”職人だったという。
氾濫原は、桐の木の育成に都合がいいのかも知れないが、そこは詳しくない。

「今は昔、・・・」
この書き出しは、”昔話・むかしばなし”の常である。

 ・古利根川と古墨田川の合流地点(春日部市)・

古墨田川は、”ふるすみだがわ”と読まれる。今の読み方である。荒川と利根川は合流した以降の下流の大河が本来の墨田川ということ。岩槻の”平野”辺りを発祥として豊春を通り、春日部で大落古利根川に落合する河川のことである。
大落古利根川は”おおおとしふるとねがわ”と読ませる。この川は中川の支流で、流域の農業排水路を兼ね、下流で葛西用水路に通じるため、”大落・おおおとし”の名前が付いたと思われる。
江戸時代、関東代官頭・伊奈忠次、および関東郡代・伊奈忠治、忠克など三代にわたる利根川の東遷の大事業以後の、現代に続く河川の風景である。

では、伊奈氏の利根川の東遷以前の風景はどんなであっただろうか?

 ・在原業平像・

今は昔、・・・
在原業平なる歌人がいた。生没が、天長二年(825)-元慶四年(880)とあるから、平安初期の人物であろう。彼は、自叙伝の物語「伊勢物語」を書いている。
ここで、優れた歌人であった業平の和歌を記述してみると ・・


 ○ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは ・・小倉百人一首
 ○世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
 ○名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
                              いずれも『古今和歌集』

 ・春日部八幡神社参道・都鳥の碑・

さて、「名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 ・・・」は、墨田川の岸辺で、かもめ(=都鳥)を眺めて作った和歌だとされている。
この墨田川の岸辺は、墨田区に”業平橋”があり、付近に”言問橋”までご丁寧にあるので、つい先頃まで、あの辺りが、在原業平”ゆかりの地であると思い込んでいた。

 ・都・墨田区の業平橋・

埼玉県道二号線という道路がある。本当はもっと長いが、大宮、岩槻を通り春日部に繋がる、変哲もない番号県道であるのだが、実は余りの交通量の多さに”バイパス”に本家を奪われた、旧国道十六号の格下げの現在名である。地元では、旧道十六号の方が馴染み深い。ちなみに国道十六号は、交通量の多さで日本有数の路線になっている。
この県道二号線が、岩槻から春日部に入って直ぐ、古墨田川を渡る橋も”業平橋”という。

 ・春日部の業平橋・

ここに、在原業平ゆかりの”業平橋”の二つ目が出てきてしまった。
学者に言わせると、「在原業平ゆかりの”業平橋”」はどうもこちらの方が本当らしい。平安時代初期には、東京の墨田区は海中か、せいぜい浜辺であり、迫り上がって川口近辺まで海が広がっていたのではないかという。

 ・古墨田川風景

今は昔 ・・・
その頃、荒川は今の”元荒川”の流域を流れ、利根川は今の”古利根川”の流域を流れ、渡良瀬川を合流しない利根川の水量は、荒川の水量に及ばずに乏しく、利根川の方が荒川に合流していたのではないだろうか、と言う説である。このとき、古墨田川は、利根川の水流を荒川へ運んで繋いだと言われている。今とは、川の流れが”逆さ”になっていたという。
平安時代の古書を尋ねると、それらしき記述が見受けられるというのだが、・・・。それに、この付近は、それを可能とする海抜の低地であることは確かだが ・・・。

 


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