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勝呂廃寺跡と古代寺院の時代

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勝呂廃寺跡と古代寺院の時代 ・・・

廃寺は、仏教関連用語の一つ。「廃止された仏教寺院」を指す。

勝呂廃寺 ・・・
勝呂廃寺は、坂戸の石井の舌状台地北端部には将軍山・御殿山など意味ありげな地名がみられ、勝呂廃寺はその付近にあります。
地名が暗示するのは、なにやら武力を持った裕福な豪族が、この付近に住居を構え、寺院を管理していたのではないか、と言うことです。
建立が飛鳥時代(600年代後半)と言うことは比定されていますが、廃寺になった年代や理由は謎につつまれています。勝呂廃寺が建立された時期は、兎に角仏教が伝来してから初期の頃というのは疑いのない事実のようです。

この仏教伝来から初期の頃の、各地につくられて廃寺になった寺は、どのような目的があり、どのような影響をもたらしたか、気になる所です。
初期の寺院の歴史を簡単に辿ると、・・・
 ・587:法興寺(飛鳥寺)建立
 ・607:法隆寺建立
 ・574-622:聖徳太子:生没
 ・551?-626:蘇我馬子:生没
 ・644:善光寺建立
 ・774-835:空海:生没
 ・
 
日本の仏教伝来期の背景は・・
*飛鳥寺は奈良県高市郡明日香村にある寺院である。蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。
・この寺は、仏教伝来の原初の寺で、仏教派の拠点だったともいわれ、仏教導入時の渡来人の巣窟でもあったようだ。やがて、在来の土着文化の神社派の物部氏と対立するようになる。
*法隆寺は聖徳太子の建立と言われる。聖徳太子は進取の気運が高く、大陸・随の文化の取得に勤めて翻訳し、位階制度や法律などをつくる。随の文献に精通していた所を見ると大陸からの渡来人の一族の可能性は極めてたかい。
*蘇我氏と聖徳太子(厩戸皇子)は同盟して物部氏と反目・戦いに至る・・600年前後。
この勢力争いは、仏教派と神社派の宗教争いの側面もあった。しかして、仏教派の蘇我馬子・聖徳太子連合が勝利し、次の局面に入る。
*善光寺は、仏教普及の先駆け。善光寺は、建立こそ七世紀中盤だが、インドで作ったとされる日本最古の仏像を有しているので、最古の範疇で構わない。
*七世紀中盤以降は、仏教の全国普及展開と渡来文化の伝搬、全国への覇権確立であった。


・・勝呂廃寺もこの頃上記の目的で建立されたものと思われる。
・・地方の住居様式は、弥生時代からの様式がまだ残り、基本的には竪穴住居、屋根は「萱」などの草を屋根に敷き詰めたものだったと想像できる。この為、大陸の建築様式の瓦葺きの屋根を持った寺院の異様は、畏敬の念の衝撃をもって各地に伝えられたこととと想像できる。布教に役だったかどうかは不明だが、渡来文化の伝搬と覇権確立には貢献したと思って良い。

こうして、瓦の重要性が特筆でき、良質の粘土と燃料と技術のある所で”瓦”が生産された。勝呂廃寺の瓦は、鳩山町の赤沼窒で生産されたと言われている。直線距離で2Km以内か・・鳩山町・農村公園内。
なお、勝呂廃寺などの初期の仏閣も大陸文化なら、瓦職人の渡来人が主であったであったようだ。

坂戸ではないが、この付近で”将軍”と名がつく遺跡を時々見かける。前から気になっていたのだが、いつの時代の、何という”将軍”なのだろうか、と。

*例えば、野本将軍塚古墳 ・・・東松山市下野本612
 -- 前方後円墳なので、弥生時代後期か大和王朝・古墳時代なのであろうか。
稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)の辛亥年(471年)の紀年銘となっている所から500年前後か。そうすると”将軍”は、『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の一人・ 武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)か。ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解があるが、その平定ルートは、四世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なる。・・”武渟川別”は、大彦命の子。阿倍朝臣等の祖と伝えられる。”武渟川別”は、東海道平定の際比企地方に来訪したと言われる。また『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命(=武渟川別・同一人物)が合流した場所が会津であるとされている・・会津の地名由来説話。”武渟川別”は、晩年比企に再訪し、比企に定住して没したという伝承が残る。いずれも「古事記」「日本書紀」の内容だが、将軍塚古墳が現存しているので「作り話」としてしまうことができない。

*例えば、将軍沢/将軍神社 --将軍沢にある日吉神社の境内には将軍神社。日吉神社の参道に建つ将軍神社は征夷大将軍坂上田村麻呂を祀ったもの・・延暦十五年(796)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を指揮する官職をすべてあわせ、加えて翌年には征夷大将軍に任じられた。延暦二十年(801)に遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じた。この二回の東征の途中のどちらかに比企地方に宿泊したというらしい。
・・場所は、笛吹峠から嵐山町へ向かう大蔵手前の集落。将軍沢の”沢”に拘ると、山の小川をイメージするが、どうも集落名らしい。
・・伝承として残るのは、「東松山市の岩殿周辺で人々を苦しめていた悪龍を坂上田村麻呂が退治した」話。
・・坂上田村麻呂が生きた時代は、奈良時代 - 平安時代前期で、生:天平二年(758)-没:弘仁二年(811)と考証されています。
・・この悪龍退治に池の近くの巌殿正法寺は、「寺伝によれば、養老二(718)年に沙門逸海がこの地で修行をしていた際、霊夢に僧侶に化した観音様が現れたため、逸海は千手観音像を刻み、四十八峰、九十九谷といわれた岩殿山の山腹の崖を削り、その岩窟に安置して、そのかたわらに正法庵をむすんだのが開山とされ」、悪龍退治はこの頃の伝承と言われています。

この話は眉唾物で、龍という想像上の動物も創作であり、時代考証もかなりいい加減です。巌殿正法寺自体、その頃(718)に存在していたとは思えません。
勝呂廃寺を含め、比企郡周辺に散在する初期古代寺院は、ほぼ600年期から700年前期にかけて作られたであろうことが歴史考証されています。
比企周辺の古代寺院(廃寺)は、・・
 ・寺谷廃寺(滑川町)
 ・馬騎の内廃寺(寄居町)
 ・西別府廃寺(熊谷市)
 ・勝呂廃寺(坂戸市)
 ・小用廃寺(鳩山町)
などがありますが、その立地場所を確認すると、田園の中と河川の沿岸に立地され、ほぼ平地にあるようです。これは、古代寺院が建立された目的が、仏教の全国普及展開と渡来文化の伝搬、全国への覇権確立であり、さらに農耕の新技術の伝搬も目的であったのかも知れません。従って人が住む場所や目立つ場所が選ばれたのだと理解出来ます。瓦屋根の偉容を誇るにも民衆が見てくれなければ目的は果たせません。
山岳仏教が、修行をかねてはやってくるのは、空海や最澄の時代以降で、高野山や比叡山の密教の寺が山中に立地してくる時代とは、少なくとも50~100年差がありそうです。巌殿正法寺の建立時期(718)と時代が合いませんし、正法寺が古代寺院であったという噂も聴きません。伝承の創作は、時に時代を簡単に飛び越えてしまいます。
坂上田村麻呂が比企に来たのは事実としても、武渟川別命・将軍の事跡と重なっている可能性も考えられます。
なお、比企周辺の古代寺院の廃寺になった理由は、火事や老朽化などではなく、洪水による流失・損壊と見た方が合理的です。
いずれにしても、これだけ古墳時代、飛鳥時代、奈良時代の遺跡や伝承が残っていると言うことは、この比企周辺の地は、朝廷の橋頭堡的存在であり、かなり先進的な地域であったことは疑いの余地はなさそうです。

 


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