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椋神社と龍勢会館とようばけ ・・・ロケットは神事だろうか

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椋神社と龍勢会館

菊水寺を出て、水潜寺に行く途中に、椋神社と龍勢会館はあります。菊水寺の近くには赤平川が流れていて、化石の露頭の”ようばけ”も近くです。”ようばけ”の後は、水潜寺に行く前に、椋神社と龍勢会館に寄ります。

          ・・椋(ムク)神社

椋(ムク)神社の成立とその後の出来事を、”由来書”を読みながら追っかけていくと、かなり面白い事実と出会います。

まず、由来書・・椋神社

日本武尊東夷ノ逆徒ヲ征伐トシテ・・此所二著御アリ。・・軍神事勝長狭神(即猿田彦大神ナリ)二神慮ヲ請ヒテ之二進ト欲シ、暫ク此所二停止シ鉾ヲ杖トシテ相休焉コ時アリ・・・光ヲ放ツ。其光耀ノ飛止ル所、・・井邊ノ椋本二現出スル也。示日吾則猿田彦大神ナリ。,・・日本武尊喜日是則大神庇護ヲ垂ルナリ。故二之ヲ謝テ神祠ヲ造立シ永ク鎭座ト爲サシムル焉。則チ井椋宮是也。・・亦当社ノ西二當り櫻ノ大樹アリ、之ヲ奥ノ院ト云。井椋塚アリ。・・亦日本武尊鉾ヲ以テ神体ト爲シ猿田彦大神ヲ祠り給フナリ。・・から

意訳から・・・日本武尊が東北に東征する途中で、この地に着き、猿田彦の神への必勝祈願をし、鉾を杖として休息した。すると、鉾が光り出して飛び出して着地した。その着地の地点が井戸のあたりの椋本という場所だった。この出来事は猿田彦大神の仕業と思われた。日本武尊が東征に勝利したのは、猿田彦大神のお陰と思い、感謝してここに神社を建立した。名前は井椋宮という。ここから西に桜の大木があるが、そこを”奥の院”という。井椋塚もある。・・・この神社は、日本武尊の鉾を神体とし、猿田彦大神を祠るものとする。

神社のご神体と神名は理解出来たが、神社名が、まだ繋がらない。

別書に、景行天皇の時、日本武尊東夷征伐のとき、伊久良に御鉾を立て猿田彦大神を祀ったという。更に別書に、江戸時代は「井椋大明神」「井椋五社明神」とあり、椋(ムク)神社という同名社が秩父郡市内に5社を数え、井椋(いくら)五所大明神と号しており「いくらじんじゃ」が本来の呼称である、とある。・・これで謎が解けた。

どうも、椋(ムク)神社の呼称は、地元の簡略した通称で、江戸末期から明治にかけて定着したものと推定される。この地の名は、伊久良とか井椋とか書かれ、読みは”いくら”であるようだ。文字からは、この地が穀倉地域を想像させる。

   神社の眷属は山犬(狼)・・  本殿の方にも狛犬の眷属があるが・・・

社伝に曰く・・・

朱雀天皇天慶5年藤原秀郷当社に春日四所の神を合祀す。日本武尊5代の裔丹治家義5代の孫武信神領数十町を寄附す是を供田と云う。即ち六段田是なり

其後、畠山重忠太刀一口を獻ず。今遺存して神宝となす。

・・・・・藤原秀郷の名前が出てきました。別名俵藤太です。幼名は”まさかり担いだ金太郎”です。

俵藤太による平将門討伐のおり、俵藤太が当社に詣で、祈願したことにより将門一門を討つことがかない、俵藤太によって春日四神を合祭され井椋五社明神と称されるようになったという・・・

八幡宮、老朽化の保護で建屋の中に安置されている。由来書の中の軍神の意味からすると、こちらが本来の様な気がするのだが・・・

それにしても、猿田彦といい、八幡といい、軍神となれば、渡来人の秦氏の関連を思い浮かべてしまう。

       ・・八幡宮の彫刻

 

その後の歴史・・

元亀年中武田信玄秩父氏と戦い社頭を焼く神殿古器神宝旧記悉く皆焼失す。

天正3年鉢形城主秩父新太郎氏邦神殿を再建す同氏獻上する処の祭具木魚二本今猶存在す。

・・・・・秩父新太郎氏邦は北条氏邦のこと、鉢形城主

・攸 芦田伊勢守 藤原守房、芦田若狭守 藤原守光、芦田長門守 藤原重斉 干時宝永五壬子天二月吉日

・・・・・芦田と藤原の名を多く見ます。神社を支えた別当でしょうか。かっては官製神社の名残かも知れません。

遠くに、櫓が見えます。龍勢というロケットの発射台です。昔の逸話と今のロケットの組み合わせです。コントラストの妙を覚えます。龍勢は”神事”でしょうか・・・

                 ・・説明板

 

ここは、明治に起こった”秩父困民党の乱”の集結地です。

          ・・”秩父困民党の乱”の集結地 案内柱と案内板

詳しくは、こちらを参照下さい・・・「比企の丘から」より 

http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/9fb424cf9ffafe0aede64130ece2c874

さらに興味のある方は、『秩父困民党群像』井出孫六をお奨めします。

 

龍勢会館

ここは道の駅です。駐車スペースはあまり大きくはありません。農産物直売所や食堂も兼ね備えています。が、どこか他の道の駅と雰囲気がことなります。

       ・・このアニメの名所でもあるようです。客層も若者が目立つようです。

この「道の駅」の一角に井上伝蔵の住居跡があります。建て替えされたもので、困民党時代のものではありません。井上伝蔵の伝記的な単行本は読んだ記憶があります。この本をもとに?、映画が作られました。タイトルは”草の乱”です。

 ”草の乱”・・・・・

    草の乱・・井上伝蔵の住居  ・・草の乱、ポスター

井上伝蔵 下吉田村(現吉田町)出身。

草の乱・あらすじ・・・・・地域の名望家として広く養蚕農民を助け、絹布の問屋商人として「丸井の旦那」の愛称をもつ。人望が厚いばかりでなく、当時全国的に流行していた自由民権運動に触発されて自由党に入党し、東京の党本部と秩父の入党者とのパイプ役となる。明治17年に至ってデフレ政策が秩父の農民の生活を圧迫し、ついに蜂起するに至っては困民党軍の会計長として幹部に迎えられ活躍する。事件後、幹部が次々と捕縛・自首する中で伝蔵は実家の近所の土蔵に2年間隠れ住み、そののち北海道に移住。伊藤房次郎と名を変えて妻子をもうけ、1918(大正7)年のその死の直前、家族に自分の正体を明かし、来歴を隠さず語った事で世の中に衝撃が走る・・・

生糸の商家「丸井商店」を営む井上伝蔵、農民の高岸善吉、落合寅市、坂本宗作などが不当な高利の取り締まりを求めて役所などへ誓願運動を始めた。各地で集会を開き、賛同者を募り、さらに加藤織平を副総理、大宮郷の顔役の田代栄助を総理として迎え入れ「困民党」を組織した。そして、警察署への誓願や高利貸しとの交渉をねばり強く行うが、ことごとくはねつけられる。そのうちに高利貸しが裁判官に賄賂を贈っていることが明るみに出て、丸井商店の土蔵に集まった困民党幹部たちは「もはや願いをかなえるには政府を打倒するしかない」と、命をかけた武装蜂起を決意する−

 

ようばけ

*”ようばけ”・・・・・面白い名前です。最初は、妖怪お化け、かなと軽く思っていましたが、”陽の当たる岸壁”の意味のようです。川岸が赤平川の浸食で削り取られて、剥げてしまった跡地、”剥げ”が”ばけ”に変化した、と考えると”ようばけ”の意味が納得できます。・・・当たっているのかどうでしょうか・・

地表が剥げて見えるのが”ようばけ”です。古代地層が露出している”さま”を露頭と言います。ここの化石は貝殻など海の生物、この山間の里は大昔海だった・・・           

 

       赤平川とようばけ・・・

おがの化石館・・・休日に行ってしまいました。残念

 






 

 

 

 



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