水仙 in 権現堂堤 ・・
権現堂堤・
権現堂堤は、県下有数の桜の名所で、約三千本の桜は、壮大で、かつ優美である。その時期に咲く菜の花の黄色は、桜のピンクと色相の対比を醸しだし、幽玄なさまを演出する。
初夏の六月初めの頃、堤の一面に紫陽花が咲き競う・・
夏の彼岸を迎える頃・・・この堤は曼珠沙華に覆われる。この赤も見事・・・
さて、一月後半・・・この土手に、”水仙”が咲き乱れていた・・・
・・・今日は、水仙の見学
権現堂公園 in 幸手
権現堂川と権現堂堤の歴史・
権現堂川と権現堂堤の歴史はやや複雑。この歴史には、関東郡代頭・伊奈熊蔵忠次が関わる。.
利根川の本流の変遷・・
・江戸幕府開幕前・・利根川の本流は、会の川・浅間川から古利根川の流路が本流だった。
・新川通の開削で拡幅が行われ権現堂川が利根川の本流となった。・・元和7年(1621年)。
・赤堀川が開削され、利根川の一部が赤堀川から常陸川に流れる。今の銚子で太平洋に繋がる流れの原型が、ここから始まっています。・・承応3年(1654年)
・栗橋から権現堂川・江戸川を経由し江戸へと至る水路(=中川)が完成する。
・逆川が開削され、関宿から江戸川への水運の大動脈が開かれる・・寛文5年(1665年)
役目を終えた、権現堂川の水運は、ここに衰退する。
かっての利根川が本流だった痕跡の川は、中川として、今も存在します。経路には、古利根川がところどころ存在します。
権現堂の歴史は、かって利根川東遷のかなり重要な一部であったようです。そして、代用水と水運の役目を果たした「中川」の、堤防として権現堂堤は現在に到っています。
・・権現堂川ではなく、中川。分水して代用水かつ水運の川だった。
この川向こうは、茨城県になる・・
・・かっての氾濫原の水害の悲劇の逸話・・巡礼の碑・巡礼の絵が・・
住所;幸手市内国府間