入間川と入間様
写真:入間川・加治付近
「入間様」という奇妙な物言いは、実は狂言の中にある。
正直申せば、歌舞伎も狂言も浄瑠璃も・・・その他の古典芸能については、言葉を知っていても、興味もなければ知識もない、無知文盲の輩を自覚している。従ってテレビにその類が写れば、自然とチャンネルを変えるか消すかする方に手が動くというありさま。
こんな自分が、狂言・「入間川」をたまたま読み、「入間様」に、突然興味を抱いた。「入間様」は、”いるまさま”ではなく、”いるまよう”と読む。
狂言・「入間川」 ・・
シテ 大名:山本東次郎、アド 入間の何某:山本則俊、小アド 太郎冠者:山本則秀
左側が大名の山本東次郎氏・重要無形文化財保持者(人間国宝に)
前知識:・・予備知識として、入間川の名に伴い、、その当時、「入間様(いるまよう)」といって、言葉遊びが流行っていたことを頭に入れておく。・・この”入間様”というのは、全く逆の意味を言う”逆さ言葉”のことだという。例えば、楽しい時に「楽しくない」、怒っていないときに「怒っている」、泣いているときに「笑っている」、そんな言葉のキャッチボール遊びを下敷きにして、この狂言は始まります。
あらすじ・・
そこで登場するは、ちょうどあたりを通りがかった「入間の何某」。
大名は、地元の何某に渡り瀬を尋ねます。
「入間の何某」は・・「このあたりは川底が深いから、もうすこしむこうで川を渡りなさい。」親切にも、渡り瀬を教えるのですが、大名は、まるで無視して、太郎冠者や何某の止めるのも聞かず、目前の川瀬を渡りはじめます。・・案の定、深みの石に足を取られて、濡れ鼠になる大名。途端に、大名は激昂して、入間の何某に向かい刀に手を掛けます。
「大名」は・・「入間の何某と名乗るなら、当然、入間様を使うはず。入間の者が、ここは深いというならば、浅瀬の筈。大名をまんまと騙して濡れ鼠にさせた罪は重い。手打ちにしてくれるわ!」
さて、入間の何某はピンチ! どのように切り抜けるのでしょうか?
件の入間の何某は、これに騒がず、「なら、どうする?」と問えば、
「大名」は、・・「弓矢八幡、成敗いたす」と誓わせ、
「入間の何某」・・「やら心安や」と述べます。
つまり、「成敗いたす」は、入間様にしたがって意味を考えると「成敗しない」と言うこと。
大名が入間言葉を持ち出したのを逆手にとって「成敗する」と誓わせたので逆に成敗できないだろうという理屈です。
ここから逆さ言葉を使っての応酬になります。
命を助ける、助けない。忝ない、忝なくもない。物を与えても、祝着にもござらぬ・・・などなど、やり取りが続いて、大名は様々な物を男に与えます。
そこで入間の何某が、頂き物を持って帰ろうとすると、大名が引き留め「入間様を除けて真実を言え」と持ちかけ、男が「身に余ってかたじけのうござる」と言ったのをタネにして、与えた物を取り返し退場する。
読み終わってその時は、なんで入間川が”逆さ言葉”なのか、なんで逆の意味が”入間様”なのか、皆目見当がつかなかった。
だが、物語自体は、洒脱で面白い。本当にあった話とも作り話とも取れるが、娯楽としては、秀逸のもののように思えた。中世・鎌倉・室町・戦国の題材だろう。その頃は防御のため、川に橋を架けなかったそうだ。しかし大名が登場するのは、秀吉以降の時代になり、そこは辻褄が合わないが、狂言の文化は江戸時代に花が咲くから、地頭とか豪族を大名に書き換えたのだろう。とりあえず、訝しげなところをそのままにして、暫く忘れていた。
最近、見つけた埼玉南部の古墳群地図を眺めていた。
考古学の趣味は、あまり熱くはないが、多少持っている。地図を見ながらあれこれ考えるのは楽しい。
写真・旧入間川(毛無川)水系
大宮、浦和、鳩ヶ谷、川口、さらに都・足立区にある古墳群は、弥生時代に集中し、合計すると500を超えるのだろうと推定される。あるいはもっと多いのかも知れない。
古代の食料採取は、海辺や川辺が容易であったのだろう、このことは貝塚から発見される貝殻を中心とする様々な骨から想像することができる。飲料水と川魚も、重要な生活の糧であったのだろう。
古墳群を見ると、植水、側ケ谷戸、大久保、土合、白幡、新郷、谷塚、伊與などの地名の下に古墳群の文字が付いている。その側に旧入間川が流れているのだ。旧入間川は、鳩ヶ谷辺りから毛無川に名前が変わっている。入間川の水路は、伊奈郡代の荒川の西遷で、荒川に変わったが、それからずいぶん前の古代・弥生時代の話である。縄文時代を加えないのは、関東平野の海岸線の南下が弥生時代の寒冷期と重なるという結論が出ているからだ。古墳群のある所は縄文期は全て海の底。
毛無川・入間川の流域 ・・こういう文書も見つけました。
毛長川は川口市の安行慈林に端を発し、鳩ヶ谷市境を下り、川口市江戸袋付近から草加市にかけて、東京都足立区との境をなして東へ流れ、綾瀬川に注ぐ小河川ですが、かつてこの川筋を入間川が流れていた頃はかなりの大河でした。足立区の伊興遺跡付近では当時川幅400m程度の河道があった事が分かっております。
古墳時代の入間川は利根川水系の主流であり、川越市付近から、さいたま市の旧大宮市西部、旧浦和市の大久保、文蔵地区を通って川口市の芝、鳩ヶ谷市の辻、里地区に至り、三ツ和を経た後に現在の毛長川に沿って流れ、足立区の千住付近で東京湾に注いでいたと考えられています。
旧入間川は両岸に自然堤防を発達させ、これら低地部に沖積平野を形成して行き、古墳時代になると足立区北部迄はほぼ陸地化したと考えられております。
草加市西地総田、東地総田、足立区舎人、伊興、花畑等の遺跡は弥生時代終末期~古墳時代初期にかけてほぼ時を同じくして出現しており、古墳時代に入って、低地部の陸地化に伴い、人々がこの自然堤防上に生活圏を拡大していった様子を伺い知る事ができます。
写真・旧入間川・東遷前
確認の意味で、伊奈郡代の荒川東遷前の河川図を眺めてみました。
河川は、関東平野奥地の各山岳部より、扇の要のように江戸に向かって絞り込まれていく様子が見て取れます。これでは雨期に、江戸周辺で、洪水が起こるのは必然です。利根川と荒川を分離する事業は、希代の大事業です。この関東平野の河川図に、その絵を描き実行した人は偉業です。伊奈関東郡代に尊敬を禁じ得ません。
この河川図を見ていて、一つだけ異形の水路をとっている川を見つけました。概ねの川は、水源から多少の蛇行を繰り返しながらほぼ東京湾に向かって流れ注いでいますが、入間川だけ、右上に流れ、やがて右下に流れています。
これだと、・・・
青梅から大宮氷川神社に向かうと、ほぼ東から西へ一直線に向かうとすれば、最初に入間川を渡るときは、水流は”右から左”へ流れ、氷川神社近くの入間川を渡るときは、流れは”左から右”に流れています。同じ川の、”逆さの流れ”です。その頃、そんな道があったかどうかは知りません。
ああ・・これが「入間様(いるまよう)」なんだ。
入間川・出丸橋付近