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”あきるる野”に、”伊奈”がある。

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”あきるる野”に、”伊奈”がある。

 ・・・ 
武蔵五日市(現あきる野市)と東京を結ぶ道を「五日市街道」と云う。
近世以前には「伊奈道」と呼ばれていたらしい。
この道が知られるようになったのは徳川家康が江戸入城からで、江戸城整備に欠かせない石工の職人をここ伊奈村から呼び寄せたことから始まる。

 ・・・ 
あきる野市は、なぜに”あきる野”と名付けられたか不思議であるが、
地籍:五日市1081に鎮座する「阿伎留神社」に由来し名付けられたものだろう。

阿伎留神社

この神社は、熊野神社系? 八咫烏が祀ってあるという


また、地籍:伊奈1573に「岩走神社」というのもある。

    

岩走神社


この地籍の‘伊奈‘と岩走神社には、
”信州伊那谷の石工達が移り住んでこの神社を開いた”という伝承が残る。
この伝承の”伊那谷の石工達が移り住ん」だ時期を平安期としているのは、
自分の貧弱な知識からして矛盾を感じるが、
おそらく、硬質の石材を求めて渡り歩く石工の集団があり、
平安時代に伊奈の石工の一部がここに定住し、家康の江戸入府にともない、縁戚をたよった高遠の石工がさらに移り住んだと言うことだろう。江戸城石垣の奉行が保科正直であり、伊奈道が石材と石工の往来の道と言うことは、この裏付けと言うことになるのではないだろうか。

昔の、伊奈村、伊奈街道
 ・・・ 武蔵五日市と東京を結ぶ道を「五日市街道」と云うが、近世以前には「伊奈道」と呼ばれていた。
この道は、徳川家康が江戸入府で、江戸城石垣に欠かせない石工の職人を保科正直に命じ、高遠から石工を呼び寄せ、ここ伊奈村に住まわせたことから始まる。

秋川渓谷


その伊奈村は、秋川沿いの、山が迫る平地を耕す農村として、そして地元で切り出された石を利用した石臼・石碑などを作る村として、隣の五日市村より大きな存在であった。「伊奈道」と呼ばれる所以である。
秋川の大きな蛇行箇所を境にして、川上が五日市村で、川下が伊奈村となる。
江戸の人口増加に伴い薪・炭の需要が高まると、上流の五日市村は山に近く、その集散地として有利となり、石工の村の伊奈より栄えていった。

かって、石材や石工の往来が主役であった江戸への道・伊奈道は、熱源の炭や薪の輸送が多くなると、五日市街道と名前が変わっていった。江戸時代後期か明治の頃のことである。

五日市のこと

秋川渓谷の急流を駆け下った秋川は、やがて平野へ降りる。平野へ出た秋川は直ぐに大きく湾曲する。上流から、急流となって流れていた秋川は、流れの速度を急速に緩め、淀む。ここが多摩山林の木材の筏や山地で作った炭の集積場になった。この集積所の近くを、秋川に沿った檜原街道が併走する。

まず、阿伎留神社を中心に檜原街道に、‘炭の市’がたった。次ぎに、絹が市に加わり、農産物を加えて市が活況していった。秋川、檜原から産出される”炭”は、一大消費地・江戸の需要を充たしていった。”炭”の供給地になったのである。
五日市は、月の五日にする”市”のことで、この地の地名になった。江戸の初期、伊奈村より寒村の五日市は、江戸の発展・人口の急増とともに伊奈村を凌いでいった。これが村の大半を山地にし、多摩の山岳に入口に位置する五日市の歴史である。


  ・・・ 引用 伊奈石のあらまし(原文そのまま)

伊奈石とはどんな石か
 伊奈石は硬砂岩と呼ばれる堆積岩の一種である。柔らかで細工がし易いが、磨いても磨いても艶が出ない。色は灰色が多いが、古くなると青みがかってくる。二、三百年も雨ざらしになっていると摩滅が甚だしくなり、そして層状になって剥離する。

あきる野市・玉林寺・石庭


伊奈石の用途・シェアー

   


 伊奈石は臼を主として、五輪塔、宝筐印塔、墓碑、板碑、石灯籠、供養塔、石像など、仏教石造品が時代の移り変わりにつれて盛衰はあったであろうが生産(が続け)られて来た。その他、建物の土台、石段、踏み台、井戸枠、沓脱ぎ、手洗水鉢などの土木・建築材として使われた。五日市郷土館展示の馬つなぎ石や貴志島神社大黒天などは変わった用途として面白い。・・・以下略。


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