o盆前・帰省の途中・・・
松本で高速に乗り、諏訪ICで降りて、杖突街道、峠へ・・・本の知識で得たイメージ、杖突街道の名が示す急坂の難所より、いくらか穏やかな坂を登り切ると、林間ながら、なだらかな下り坂となる。
進行の右側、恐らくこの山は”守屋山”・・御神体の山・・・
由来の案内板・・・文章
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守矢社 村社 本村の北片倉にあり、東西五間南北五間、面積二十五坪、
祭神物部守屋大連を祭る、勧請年月不詳、祭日六月廿二日、
由 来
(中略)日本書紀にあれば、當(当)昔大連子息等、遥々遁(のがれ)来て、
信濃國伊那郡藤澤に蟄居(ちっきょ)して世間の人不交(まじわらず)、許多
(あまた)の星霜を経て、漣々(れんれん)子孫蕃息(はんそく)して大連の霊
を拝し祭りて氏神とし、家も數(数)戸に分かれても、尚昔を思戀(恋)して
家名に守屋を唱え来りしならん、氏神守屋神社附近を字古屋敷と記したる
は、往昔大連子息より、數代當所に住せし屋敷跡なりとぞ、亦(また)其傍
に、字五輪原とて古墳あり、抑(そもそも)、最初守屋氏来住せしより千二
百八十餘(余)年の今世に至ては、末孫七十二戸に相成。只可惜(おしむべ
く)事は寛永年間に村方焼失の砌(みぎり)、古書重器(ちょうき)等皆灰燼
(かいじん)せしと申傳(伝)へり、
社宮司小社同所にあり東西五間南北四間面積廿坪、
山王小社同所にあり(社地略)、
権現山神小社同所にあり(社地略)、
山神小社同所にあり(社地略)、
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物部守屋大連を祭る・・と書いてあることから、祖霊は物部守屋か?・・
簡略すれば・・・物部守屋の子孫が、はるばるこの藤沢に、蘇我入鹿の追っ手から逃れてきて、長い年月を隠棲して子孫を継承してきましたが、守屋一族も”守屋”の名を継承して、一族も家数戸になり、祖霊を氏神として祀ることにします。この守屋の子孫が住んだ氏神守屋神社附近の屋敷跡を古屋敷といいます。その隣の五輪原には(この地の守屋子孫の初代を祀った)古墳があります。最初に守屋子孫が、この地に住んでから1280年以上経ち、今では子孫一族は72戸になりましたが、残念なことに寛永年間(1624-44)に火事があり、村が焼失し、古書や重器が皆焼けてしまったと言う申し伝えがあります。・・神社内には宮司の建物と合祀した三つの神社があります。・・・こんな内容でしょうか・・
守屋神社 里宮・
・・転記
雪ちるや 穂屋の芒の 刈り残 ・・ 芭蕉
友人に俳句を詠むのがいまして、つい芭蕉の句を添えてみました。思いつきです。自分は俳句は作れませんし、深い理解も出来ませんが、これは、かなり好きな一句です。夏のいまとは季節も違います。芒は薄(ススキ)のことで、穂屋は芒を敷き詰めた神の座るところ・・座所を意味するそうです。穂屋の芒は、そのままなのか、編んだのか分かりません。”刈り残”も、”刈りのこり”なのか、”刈りのこし”なのかも分かりません。なにか凜とした空気が漂い、まだらな白と土色の色彩世界に、穂のもつ豊かさと、すすきと刈り残の寂しさの、二つが漂う神の座所・・芭蕉は神社に、こんな印象を持ったのでしょうか。
みれば、狛犬が一対神社を護ります。この神社は諏訪大社と関係が深そうですが、割愛します。