2016/11/10:「左甚五郎の龍」の中に、・泉福寺(埼玉県桶川市) - 正門の竜 と書いた。
・記事にした手前もあり、訪ねてみた ・・・
◇山額の写真
泉福寺:山号は東叡山:院号は勅願院:房号は円頓房。・・・宗派は天台宗。
・東叡山 関東の比叡山。かなり重い・・つまり格式が高い。
・勅願院 天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと。
・円頓房 房 ・・すなわち宿のこと。僧房 ・僧侶の住居。
円頓 現にあるがままの心に功徳が円満にそなわり,すみやかに成仏するという考え。
円頓房はおそらく円頓という名の僧侶の住居ではなく、心安らぐ共有の宿という意味か。
天台宗の教えの中に、”布施屋”の思想がある。
難儀の旅人の、救済の宿と施しの食料、病院の薬師。
本堂を開放して、”入るを拒まず”で、寝食の場所を提供した。
◇境内と本堂の写真
山門の龍・
よく見ると、針金で縛られています・「雨乞いの龍」
◇山門の写真
・・・逸話・・・http://www.okekan.com/mukashi/senpukuji.html ←”雨乞いの龍”の話も覗いてください。
当たっていないとも思いますが、彫刻の精緻が甘いというか、、
左甚五郎とは無関係ではないかと思いました。
山門と阿弥陀堂・向拝の彫物は長坂猪之助友雅「推定」の説もあります。
・泉福寺を調べてみると、
かつて大学林(僧侶学校)を有した天台宗の関東の拠点で、
相当な古刹であったようです。
・”かつて”とは鎌倉期から江戸初期までの間・
・江戸時代・寛永に、東叡山・寛永寺ができて、寺格を引き継がれる。以後泉福寺は勢力を衰退。
・・・理由は、江戸将軍家・徳川家の菩提寺が、江戸城近在に必要だったためと思われるが、不詳。
・・・江戸・上野の「東叡山・寛永寺」は、「東叡山・泉福寺」の孫寺ということになる。
・「東叡山・泉福寺」の大学林は、幾多の戦禍・戦火により規模を失った、とあるが、、
川田谷の地名や河川からの距離から、洪水の災害ありの方が理に適う。
昔日の河川の名は、「荒川の西遷」前で、眼前は吉野川が流れていたのだろう。
なお、この「東叡山・泉福寺」の地籍は、大宮台地の北西端に位置する。
江戸以前の荒川は、この大宮台地の東側を流域にしていたらしい。痕跡:元荒川と綾瀬川。
◇地図・
・山門の石の仁王像・
・建立の時期から、高遠石工(たかとういしく)の誰かの作と想像します。
・江戸城の石垣作りに駆り出された”高遠石工”集団は、
その一部は高遠へ帰らずに、石像や石細工を請われて、
全国に散らばったといわれています。
・泉福寺の石像の建立時期が、記載の通りであれば、
石工の技術者は”高遠石工”しか考えられません。
・もし、この仁王・石像が、”高遠石工”作とすれば、
埼玉で「秩父札所三十一番鷲窟山観音院」に続く2例目になります。
◇山門の石像の仁王像
荒川越しに、眼前に広がるのは、「本田エアポート」。
・戦中の「桶川・飛行学校」の訓練飛行場の跡地に・・・
どのような経緯で、本田宗一郎が、そこを取得したかの詳細は分かりません。
◇本田エアポートの写真 地籍は桶川市川田谷だそうです。