古尾谷は古谷のことか?2
灌頂院
川越線の大宮から川越の間の、川越の一つ手前の駅は古谷である。古谷に古谷本郷という地籍がある。この地籍は、案外古くから栄えていたようで、歴史的な遺跡の痕跡がある。
古谷本郷には、「灌頂院」という古い仏閣がある。
灌頂院は、「かんじょういん」と読むらしい。頂を「ちょう」と読むのではなく、なぜ濁るのかは調べるに至らず。
--- 灌頂院は、慈覚大師が天長年間に巡錫した際創建したといいます---
「天台宗座主」の慈覚大師は、佐野・岩船が出生地であり、関東・武蔵の古刹の創建の多くに関わっているという記録が残ります。
凡そ仏教史に中で、我々が学校で学んだことは、平安期まで、仏教は貴族の世界にのみ存在していたということでした。いわゆる庶民に仏教が普及していくのは、慈覚大師の弟子・法然の時代を待たねばならなかったのです。平安期の次の鎌倉時代に起こります。仏教革命です。法然にしても、親鸞にしても、日蓮にしても、母体は天台宗ということになります。平安時代に、庶民に仏教が普及しなかったのは天台宗に問題があったわけではありません。時の政府が、宗教の人気化を恐れて、布教を禁じていたためです。天皇の安泰を祈願する儀式は、許されておりました。「救済」を目途として仏教の道に入った宗徒には、忸怩たる思いであったのでしょう。空海によって開かれた天台宗は、弟子の慈覚が唐から戻ってから、宗派の性格を劇的に変化させていきます。慈覚は、天台宗に「密教」の要素を加味していきます。この「密教」の要素には、慈覚が唐から帰国する際に協力を得た「新羅」高原族の薬学と土木学の知識と技術も入ります。恐らく人的な流入もあったのでしょう。救済を目途とした天台宗宗徒は、布教ではなく、難儀をただすべく全国に散ります。その主導は、慈覚大師。何をしたかの記録は各所に伝承として残っています。--- 井戸掘り、道路工事、堤防作り、布施所つくり、薬研つくり --- つまり土木工事と病院作り、--- 本来ならば、建設省と厚生省・政府の仕事なのです。これを、仏教宗派が行ったのです。
それにしても、平安、鎌倉、室町、戦国と、--- 仏教は、かなり戦闘的だったのですね。今の,"牙を抜かれた”葬儀屋さんとは似つかぬ姿です。
---- 灌頂院は儀式を行うための堂で、密教の奥義を伝えるための「伝法灌頂」や天皇の安泰を祈願する「後七日御修法」という儀式がおこなわれます。
---- 慈覚大師の業績のことを頭の隅に入れておいてください。
山門:
鐘楼門:
秋の気配:・・・
1:寒椿
2:紅葉
沼端に 紅葉を誇りて 門鐘楼 ・庄