寄居・風布に、神社が ふたつ 宮司岩松氏
ふと立ち寄った、山間の「むら」風布は名前にも味があり、幾つかの不思議があった。
ひとつは、山頂の方の釜山神社、今ひとつは「むら」の中心に姥宮神社。(ほんとはもう一つ、琴平神社もあり、こちらも秩父困民党の歴史を抱えているのだが・・・)
ひとは、不思議に出会うとロマンを感じるらしい・・・自分だけかも?。それでか、やたらと調べたくなって、歴史の記録の中へ、放浪が始まる。・・ついつい悪い癖。
さて、歴史の記録の中へ放浪のシーン・・・昨日、
大宮中央図書館で、神社庁出版の「埼玉の神社」を読む。寄居・風布の釜山神社・姥宮神社のところ、神社の宮司岩松氏は、新田一族の裔で・・・と書かれている。同じ項に「武蔵野合戦」の文字も発見する。・・・そうだったのか・・・
いま、このブログを書いている横には、群馬太田市の地図を広げて、東武伊勢崎線と板東太郎の間を目で追いながら、このブログを書いている。確かに世良田の隣に岩松の地名を発見する。岩松は確かに存在しているのだ。
確か、神社の菊紋のいわれで、ふたつの可能性を書いた覚えがある。木地師と南北朝期の南朝の皇子のふたつの可能性。それも、南朝皇子の可能性が低いと書いていた。
木地師の可能性は、奥秩父の甲斐国境近くに、それらしき伝承が、また神流川の山間の上野村に存在を確認するが、そこは秩父と隣接だが群馬県。
かってこの道路をドライブしたことがある。本庄児玉インターを降りて、有名な冬桜を右手に見て通り、緑がかった庭石産出の鬼石を通過して、神流川を遡れば、左手はジャンボ機墜落の御巣鷹山、更にたどれば、佐久に通じる。20年前の記憶に頼れば、国境を越すあたりから、長野県側は1.5車線のS字カーブが続き、落石も少しあり、身も縮むドライブだったことを思い起こす。そこが、十石峠だったんです。
しかして、木地師の可能性を見つけられず、木地師説は否定に到る。
南朝皇子の可能性は、皇子の隠棲は確認できないが、岩松氏が新田一族で、南朝側の豪族だった証明は出来そう。さらに、武蔵野合戦とは、笛吹峠の戦い、高麗原、小手指川原、入間川原の各戦いの一連で、南朝側の主力部隊が新田一族だったことは、よく知られるところである。この一連の戦いで、南朝の精神的支柱であった宗良親王は、戦士達を慰撫する笛を吹いて笛吹峠の名を残し、小手指河原では、戦士を鼓舞する有名な和歌が作られた。
・・・君のため世のためなにかおしからん すててかひあるいのちなりせは 宗良親王
この歌は、幕末の志士坂本龍馬が好み、ことある度に口にした、と伝わる。
武蔵野合戦は発端が足利直義と高師直の対立から、足利尊氏との兄弟対決になる「観応の擾乱」が引き金になり、北条残党と南朝と直義派が合流し、幕府・尊氏派と対立した戦いである。この一連の戦いに敗れた新田一族は、主力が越後に逃げるが、一部が外秩父に隠れた。彼が、岩松氏の祖であるという。
岩松氏は、岩松家と新田一族の再興を願って、住吉神社から護良親王を分霊・分祀して釜山神社を創建したという。釜山神社が衰退したとき、人家の中にある姥宮神社に、釜山神社は合祀したという。時が経ち、新田一族の再興を願った岩松氏は、かなり苦労して釜山神社を、また独立創建させた、という経緯をもつ。護良親王に繋がる菊紋は、したがって、姥宮、釜山の両方にある。今では、岩松氏は釜山神社とともに、故あって姥宮神社の宮司も勤めるという。
ついでながら、護良親王、宗良親王は、柳田国男に拠れば、もりなが、むねなが、しんのうと読むのが正しい。今では誰も「良」を「なが」と読めないので甘くなり、もりよし、むねよし、しんのうでも良いとも言う。
傍証のひとつではあるが、「探 三州街道」の浪合記の記述の中の、上杉禅秀の乱に、確かに岩松氏は参戦しております。
歴史の記録の中へ、放浪することは、嫌いではありません。
姥宮神社の十六花弁の菊紋を探るうちに「平将門」を少し触りました。前々からかなり気になる存在です。「平将門」を教科書通りの「賊徒」という、誰かが貼ったレッテルを、出来れば少しでも剥がしたい気持ちです。関東に関わった人達は、「平将門」の神社や痕跡を見る機会が多い。それは、どう見ても「いいやつ」だったからだと思えてならない。
・・・道草が多くて、なかなか進みません。ついつい悪い癖です。いつになるやら・・