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氷川女体神社と馬場小室山 ・・・武蔵武芝のこと

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 ・・氷川女体神社

  見沼用水西縁線

 

・・・武芝については、主に「将門記」に記載され、その他の古書でも散見される。それらの書によって想像を巡らせれば、武蔵国の領内、足立郡(足立の郷)の郡司で、領内の氷川神社(女体神社)を保護したという。平安期に京都朝廷から派遣された地方官が、従来の習慣を破って任官し高税をとって統治しようとしたことに抵抗し、ついには”平将門”と同盟したと、記録にある。

・・・詳細・武蔵国へ新たに赴任した武蔵権守・興世王と同介・源径基が、赴任早々に収奪を目的とし足立郡内に進入。そのため、足立郡郡司判官代であった武芝は「武蔵国では、正官の守の着任前に権官が国内の諸郡に入った前例はない」として、これに反対。しかし2人の国司は武芝を無礼であるとして、財産を没収する。武芝は一旦山野に逃亡した後、平将門に調停を依頼した。将門の調停により興世王と武芝は和解したが、和議に応じなかった経基の陣を武芝の兵が取り囲み、経基は京に逃亡、将門謀反と上奏し承久天慶の乱(平将門の乱)の遠因となった。・・・

・・・将門記によれば、武芝の評判は・長年公務に精勤し、良い評判があり謗られるようなことはなかった、とされ、公明正大な人だったようである。

馬場小室山と御室神社、・・馬場小室山遺跡・ブログから引用

話はそれるが、氷川女體神社から真西へちょうど1km行ったところに馬場(緑区大字三室字馬場)というところがあり、その最も標高が高いところを小室山という。おそらく、御室から三室と小室へと変化したのではないかと思われる。ちなみに、馬場小室山からさらに真西へ1.8kmの地点、浦和区木崎5丁目に御室神社がある。地元の人は「おんむろ神社」と呼んでいるようだ。この神社の主祭神も稲田姫であり、東西一直線上にあることから当然意識して建てられた社といえそうだ。
 さて、馬場小室山からは縄文時代中期から晩期にかけての集落跡、土壙群などからなる夥しい量の遺物を包含する大遺跡が発掘されている。ここからは人面画付土器や遮光器土偶も発見され一躍脚光を浴びることになった。また、この遺跡と一部重なるように隣の大字三室字東宿からは弥生時代後期の集落跡も発掘されている。
 馬場小室山で特徴的なのは「環状盛土遺構」で、直径150mの円形地の範囲に大きな盛土遺構が五つ環状に形成されているという。そして、この盛土の端に「多埋設土器群大土壙」があり、そこから上記の人面付土器などが発見された。
 ところが、五基の盛土の内、全く手付かずのまま残されていた二基の内の一基が含まれる森が突然、宅地開発業者による開発が進められ大変な騒ぎとなった。
 ショベルカーにより削り取られた土砂は見沼たんぼに埋め立て用土として集積され、そこから夥しい数の土器の破片が採集されたことから、「馬場小室山第二遺跡」と呼ばれることになる。
イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3    最後に残された馬場小室山遺跡の一部 あとはすべて住宅地へと姿を変えた
 これらの遺跡が眠る馬場小室山一帯の所有者は武笠家であった。武笠本家は小室山にあって、浦和では有名な旧家であり、現在、武笠一族は不動産業をはじめ手広く商売をしており、県議だか市議だがよく知らないが、政治家としても活躍しているようである。
 そして、現在、職を辞してはいるものの、明治の初めまで氷川女體神社の神主家として長くその職責を全うしてきた一族なのだ。
 武笠一族で出色の人物というと、武笠三(さん)(1871−1929)だろう。
この人、一般的にはほとんど知られることのない作詞家だが、その作品は意外とメジャーなのだ。「雪やこんこん」で始る『雪』、「田圃の中の一本足の案山子」の『案山子』、「出て来い出て来い池の鯉」の『池の鯉』などの作詞をしている。これほど人口に膾炙した歌であるにもかかわらず、作詞者はなぜ無名なのか。それには理由がある。これらの歌が文部省唱歌として親しまれたからだ。
 武笠三は、浦高から東大文学部へとエリートコースをあゆみ、文部省の職員として教科書の編纂にたずさわり、作詞も行なった。多くの人々に口ずさまれた作品には、作詞者名も作曲者名も記されず、ただ文部省唱歌とのみ記載されたのだ。
 ところで、武笠家はいつのころからかその姓を改めている。元々は佐伯を名乗っていた。それでは一体なぜ姓を変えなければならなかったのか。
      御室神社については  参考:スネコタンパコ/3407383.html 神社 木崎御室神社 - スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語 - Yahoo      ・・武笠家表門 ・浦和くらしの博物館に展示   今のところ、この武笠家と武蔵武芝を結ぶ証拠となるものは、傍証・・所謂状況証拠ばかりですが、・・・・・なぜか気になります。 もしそうなら、大宮氷川神社の岩井家(・廃家)、西角井家(中山神社・氷川男体神社神官)、東角井家(氷川女体神社宮寺)の東角井家より先が武笠家になりそうです。”更級物語”の武芝寺も三室辺りかも知れません。角井家は菅原道真に通じる家とも聞きます。武芝家が帰農して、京都藤原一族からの追求を躱したのかも知れません。いずれにしても興味は尽きません。   武蔵武芝家は、平将門の乱のあと、忽然と歴史から消えてしまっています。    

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