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天空のポピー畑

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天空のポピー畑 ・・・

秩父高原牧場   

 

 

 

 

 

 

 

天気 晴朗にして 風も穏やか ・・・

5月24日 秩父高原牧場はポピー 繚乱

今年から、駐車料金 ¥200なり・・・

*撮影は、始めの2枚と最後は赤目が強く出るようにしました。ポピーは8分咲き。

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天空の・・ というと 心が騒ぎます。

”シータ”を思い "ラピュタ"を想像して ポピーを見るのもわるくない・・・

 

天空の城ラピュタ 動画 ↓ 天空の城ラピュタ OP ED 【HD】 - Dailymotion動画   天空の城ラピュタ 歌 ↓ 「天空の城ラピュタ」 君をのせて/井上あずみ - YouTube

 

天空の城ラピュタ Violin 

天空の城ラピュタ / Laputa - Castle in the Sky− 石川綾子

 


風布の神社

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秩父高原牧場の”天空のポピー”を満喫したあとで、風布の神社へ寄ってみた。

今でこそ想像しがたいが、古くは、秩父往還は風布を通過点とする秩父への道の一つであったらしい。荒川沿いの道は、ところどころに、岩石の多い外秩父の山がせり出して、通行が困難だったのが理由である。また、今でこそ、風布は寄居に地籍を置くが、昔は秩父の一部であったという。

今日の”天空のポピー畑”へは、二本木峠へ駆け上がってやって来た。二本木は”箸”の言い換えという伝承もあるようだ。この伝承は、大和尊(ヤマトタケル)に纏わり、この付近で休憩した大和尊が、刀を立てかけたとこから泉が湧き、”日本水”が、粥を煮て食事をしたところが”粥仁田峠”で、食事を作った釜を伏せておいたところが”釜伏山”だという。・・・信じられないような伝承だが、”日本水”と”釜伏山は、風布の近くである。

   

                           小林みかん山(転用)                           かたくりの花

風布は、霧の多い所らしい。荒川からの川霧が風布の谷を充たすと、川縁よりも冬の冷気を和らげる役割を果たすらしい。ここの山谷に咲く花は、周囲よりも早く、長く咲き続けるという。戦国時代、「河越夜戦」の奇襲で、8千の手勢で、8万の上杉・古河連合軍を破ったとされる小田原北条軍の重臣・北条氏邦は、寄居の鉢伏城に、対上杉の拠点を作ったが、霧で冷気が和らぐことと出身の伊豆の多賀の地形が似通っていることで、多賀のみかんを風布に植えたという。風布のみかん園は、山間の斜面地の僅かな平地に居を構え、斜面地をみかん畑にして、みかんの北限を誇る。斜面の多い地で暮らす苦労は大変そうだが、この風景は、気象の特異性を示す風光で、かなり気に入っている。

・・・日本三大奇襲(頼山陽の命名)
     河越城の戦い(別名「河越夜戦」:天文14年9月26日(1546年10月31日))
     厳島の戦い(天文24年10月1日(1555年10月16日))
     桶狭間の戦い(永禄3年5月12日(1560年6月5日))

伊豆の多賀は、熱海を隣に置いて、箱根の溶岩台地が舌状に海にせり出して、海岸線はほぼ平地がない。したがって耕作地がほとんどない地帯である。昔多賀の上の道路をドライブしていた時、午後突然に霧が湧き出し、およそ20分ぐらいで視界3Mぐらいになったことがある。その時は車を止めて2時間ぐらい待ち、霧が薄くなった頃に、恐いので、山中の東名へ行かずに小田原に降りて、西湘バイパスで帰った覚えがある。多賀付近の霧のことは鮮明に覚えている。・・・多賀は現在・熱海市内

姥宮神社

          

 左    かえる眷属     右


この神社の祭神は”石凝姥命”で、「かじやの神様、石凝姥命を祀ったそうだ。

石凝姥命とは、石の鋳型を使って鏡を鋳造する老女の意」であるそうで、なにやら、鉱山と関係が深いそうである。

参考:姥宮神社 - 古社への誘い

 そういえば、この社の背後の山は、巨岩がごろごろしている。

杉の古木も巨木になり、巨岩と相まって深山幽谷をなして、かなり神秘性を帯びていて薄暗い・・・・・。

 

   

     姥宮神社拝殿の脇障子の見事な彫刻!

*脇障子・・障子と言えば、格子の上に和紙を貼り、引き違いの扉とばかり思っていた。本来の意味は、”遮るもの”で、かなり広義に使われるようだ。

一般的には、和紙の障子は明障子と言い、平安期は蔀や衝立、御簾なども障子と言われていたようで、この神社の様に、社の回廊の終わりに、”遮り”を設けて、脇障子と呼ぶ場合もあった。明障子は、和紙の他に絹を使うともあったという。     ・・・明かりを採りながら、冷気や雨や風を防ぐ役目をいう。

 

 

この姥宮神社の元の場所はみかん山の頂、いまでも”琴平神社”が鎮座しているらしい、ときき、早速登ってみた。・・・やく1Km・・・

琴平神社、 そして・・・

 聖観音・・・秩父困民党事件の最初の蜂起の地で、後に慰霊のため聖観音を建立・・とか

 

秩父事件顕彰碑

この事件については下記のブログに詳しい・・・参照

外秩父・・・風布で日本の名水・・・日本水を飲んだ - 比企の丘から

 

小林みかん山からの風景



「エディタ」の話・・・

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 sunrise at the daybreak

・・・  夜が明けたら 一番早い汽車に乗って ・・・                                              
   ・・・ 浅川マキ 2010.01.27 宿泊中のホテルで 倒れているところを ・・名古屋

  ・・・ 石川県石川郡美川町(現:白山市)出身               

浅川マキ 夜が明けたら - YouTube

 

「エディタ」の話・・・

パソコンを趣味としていた、むかしのむかし・・・、
 コンピューター通信の最初は、”カプラー”であった・・・
  それから、300ボーのモデムがでて、1200,2400と通信速度が上がっていった・・・
   ファイルの圧縮のソフト がどんどん開発されて・・・

Windowsの前、MSDOSの前、98の全盛の頃の話である。
文章を書く時、一太郎などのワープロソフトは重すぎた。そこで幾つかの”エディタ"を手に入れて使っていた。機能が絞り込まれているので、極めて軽快であった。辞書もなるべく小さいものを選んで入れていた。
そこで体験したエディタの中に”Q"というIBMのフリーソフトがあった。勿論そのままでは98上で走らない。工夫して、”パッチあて"という手法を使って、98で使った。

それから間もなくサラリーマンを止めて独立した。
以後、パソコンとの付き合いは、ほぼ表計算とメールのみになった。
従って、表計算ソフトとの付き合いは30年を優に越す。
「マルチプラン」に始まり、「ロータス123」、「エクセル」、現在は「エクセル」と「オープンオフィス−Calc」を使っている。

現在、仕事を離れて、パソコンと向き合う時間が増えてきている。
このように、「ブログ」も書き始めている。
性格からかも知れないが、複雑で重いソフトは、相変わらず苦手で、
文章の下書きや作成は、”Mery"というエディタ。写真の加工は”PhotoScape"。表計算ソフトは”OpenOffice Calc”を使っている。これらのソフトは、”PhotoScape"を除き、作成には優れているが、プレゼンにはいたって弱い。”Calc"などグラフ作成がやたらとややこしかった。

さて、この頃、”Q"というソフトを思い出した。
どういうソフトかと説明すれば、「階層型ツリー状」エディタとでもいおうか・・
この表現で分かって貰えるとは思わないが、「カード型データベース」のようなエディタで、これは論理思考を順序立てて記述するには都合がいい。
探してみると、”Story Editor"というのが近い。あとは使い勝手だが・・・

下栗のお地蔵さん

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なんとも かわいい お地蔵さんなので シェアします。

中央が地蔵尊・・お地蔵さんのようです。
対のは、拝んでいるので参詣者・・・
三体のは、宇宙人に見えます。
”下栗”のブログで見つけて、あまりに可愛いので、シェアします。

下栗は、”天空の郷”とか"日本のチロル”とかよばれている、いわば秘境です。
江戸時代は、樽木村と呼ばれた天領でした。
つまり、年貢を材木で納めるということ。
遠山川に木を切り出し、天竜川で合流し、浜松にいかだで運ぶ。天領ですから、そこから江戸へ・・・
そのため、浜松は材木商が多く、関連で製材所も発展し、木を乾燥させる技術が発展し・・・
木を乾燥させる技術が、天下の「楽器会社」を生み出した・・・と、
中学の時の社会科の先生の言葉でした。
そういえば、”ヤマハ”も”河合楽器”も浜松の会社です。

もう一つ、近くに秋葉街道が通っています。
火伏せの”秋葉神社”への参詣の道で、古くは信玄が”家康征伐”に浜松へ向かった道です。
この戦役で、家康は敗れ、浜松城に逃げ込む途中・・・
余りの恐怖で”脱糞”してしまった、という逸話が残っています。
秋葉街道は、青崩峠で途切れ、静岡県側でまた復活するという、現在では珍しい三桁(R152)国道です。
青崩峠(赤石山脈)越えは、獣道ぐらいはあって、人間の歩行での峠越えは可能だったようです。

近い将来・・赤石山脈の下にトンネルを掘り、リニアモーターが通過する・・計画があるようです。

 

大宮 花の丘 公園

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大宮 花の丘 公園

正式名称 花の丘農林公苑

花盛り


ポピー


バラ

 


ナデシコ

 


次の 主役

 

ダリア?                                      秋桜

 

昨日・・・なっちゃん(小島奈津子)のTVで、”花の丘公苑”の画面があったので、行ってみました。


もうすぐ 紫陽花 の季節

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もうすぐ 紫陽花 の季節


ぼつぼつ、紫陽花の季節かと思って、近所を見て回ると、・・・

がくあじさい・・額紫陽花・・、がそこいらに咲いている・・・

まだ色を決めかねて・・生成り(オフホワイト)も

 

紫陽花は、まだ若いのか・・・ほぼ、生成り

紫陽花の初見は、白居易の詩にあるというが、違う花らしい。

ある日本人は、あじさいに、間違ってこの字を宛がったという・・・・

紫陽花は、手鞠紫陽花ともいうらしい。

まだらの色の紫陽花

花の 七変化 も ・・・


○紫陽花や 壁のくづれを しぶく雨  ・・子規

紫陽花には雨が似合う。 もうすぐ・・梅雨


 北斎・・あじさいと燕

 

所沢 ゆり園

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所沢 ゆり園

開園 6月7日(土)〜

もうすぐ・・・です

以下写真は、2013年6月撮影分・・・特に所沢ゆり園の回し者でもポチでもありません。

 

北斎・・ ゆり  ・・・ ”山百合”でしょうか?

○忌の人の 去りて百合の香 残りけり    ・・・山田弘子

ときどりの話・・・

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ときどりの鳴く喫茶店  ・・談

珈琲の香は脳を刺激するらしい。
珈琲に砂糖は、普段は入れないが、寝起きの眠い時と疲れを感じている時だけ少し入れる。


場所は、里山にあるのが相応しい。客は従って、ほとんど来ない。たまに来る珍客は、小鳥たち・・・
たまに聞こえる時鳥の鳴き声は、囀るようで耳打ちにも聞こえる。
”時”を旅していても、つい現実に引き戻してしまうような鳴き声だ。



ところで、この小鳥は複数の名前を持っているようだ。
・・・杜鵑、時鳥、子規、不如帰、杜宇、蜀魂、田鵑など・・・
古来から、有名人ならぬ、有名鳥のようで、日本や中国の様々な文章に登場しているようだ。
意外と知られていないのが、杜鵑と書いて、花の名前でもあること・・・

やまほととぎす



○目には青葉 山ほととぎす 初鰹 ・・山口素堂

 

既に6月なので、5月の季節として有名この句は、相応しくないのかも知れないが、
原文では、”目に青葉”ではなく、”目には青葉”となっています。
ついでなので、次の"山ほととぎす”ですが、そのままの意味では、ゆり科の花になります。
大概の解釈では”山にいるほととぎす(=鳥)”としているようですが、果たしてどちらなのでしょうか。
・・・俳句の大家に聞いてみたい気がしています。

 


夾竹桃

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夾竹桃

・・キョウチクトウ


・学名 :Nerium indicum
   Nerium : neros・”湿った”、indicum ・”インドの”が語源

開花時期は、 6月〜10月頃・・夏・・咲き続ける。
・葉が竹の葉のように細く・・狭く(夾)、花が桃の花に似ているところから。
 紅色が鮮やか。白もある。もっとも多いのはピンク色で八重。


・・・・・夾の派生  「両脇からはさむ」の意から
   侠(俠):左右の人から押し上げられるリーダー。      
   峡(峽):山が両脇からせまる。                 
   鋏   :金属ではさみ断ち切る。はさみ。 ・・など面白い・


白い夾竹桃・・絵

・見た目はきれいだけど、有毒植物。・・・オレアンドリン
・・薬にもなる・・打撲のときの腫れ・痛み患部に、乾燥した葉、樹皮を煎じて、患部を洗浄。


赤い夾竹桃

○梅雨の間の 僅かを誇る 夾竹桃 ・・庄


・・・近所の散策で見つけた花・・・

近くの慶応大学薬学部の校内花壇には、思いも寄らぬ薬草・毒草がある

時代劇のロケ地 ”島田橋” が流失 ・・・

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越辺川の八幡橋の上流約5Km、島田橋という冠水橋が流されたという・・・

以下↓ デジタル朝日新聞記事

「龍馬伝」ロケ地の橋、流される 老朽化と大雨で


年末・年始辺りの季節、白鳥の飛来地越辺川は、かなりお気に入りの場所で、毎年何回か訪れている。

その上流の島田橋は、国道・R407、高坂橋北の交差点辺りの越辺川に架かる橋で、

風景をうまく切り取ると、時代が中世に変わるということで・・・

関東が梅雨入りした5日から断続的に降り続いた雨で、

埼玉県坂戸市島田と東松山市宮鼻の間の越辺川(おっぺがわ)にかかる島田橋(長さ約77メートル・幅約3メートル)が流された。

坂戸市の担当者は「老朽化が進んでいたのに加え、流木が当たったはずみで流されたのでは」と話している。

坂戸側の島田橋たもとに撮影された作品名の看板が・・・


撮影に使用された島田橋.

1990年NHK大河ドラマ「翔ぶがごとく」・               

1991年松竹映画「幕末純情伝」                
2004年NHK大河ドラマ「新選組!」         
2007年NHK大河ドラマ「風林火山」     
  2008年テレビ朝日「菊次郎とさき」    
     2008年松竹映画「幻の邪馬台国」    
        2008年NHKテレビ「陽炎の辻2」     
           2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」     
              2011年松竹映画「さや侍」         
                  2011年TBSテレビ「JIN-仁-」       

    このうち、いくつかは見ていた記憶がある。

これも文化遺産、心の故郷のように思えるのだが、これからどうするのだろうか??!

 

”服喪”のこと・・・

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去る6月8日、桂宮さま逝去・の報が流れた・・・
生前は、NHKに勤め、心筋症で退職し、のち緊急硬膜下血腫で倒れて、以後療養生活と車いすの生活で、福祉活動やスポーツ振興に努めたと聞きます。生活態度が厳格な方でその中にも優しさをもった方だったと聞きます。ご冥福をお祈りします。

さて、話は”服喪”のこと・・・
東京新聞に依れば、天皇・皇后と皇太子夫婦は8〜5日間、三笠宮夫婦は30日間、他の皇族の方は7から5日間の喪に服す・という記事が載っていました

自分のことで恐縮ですが、三年前に妹を亡くし、法事に出ていた時の”若住職”の話です。
この寺は、臨済宗・妙心寺派の寺で、臨済宗・鎌倉・建長寺派では無いそうです。我が故郷は、どうも小笠原氏の拠点で、京都と関係が深かったのだろうと思います。

その”若住職”は、「法事は、もともと仏教には無い考え方で、仏教は”輪廻”の世界観があり、生まれ変わってしまうので、死霊が現世に浮遊して、死後何日か留まっている、という考え方」は無いそうです。
「霊の考え方は、神社の世界観であり、神社は、”生命力”を尊び、”死”とか”血”を忌み嫌い、結界を設けて穢れ・死や血など・を神域から遠ざけている」のだそうです。結界のしるしは、鳥居であったり、紙垂や注連縄だった」りするようです。
神社の行事を見ると、生誕や七五三や今では廃れた元服や婚礼や厄の回避防衛(厄年祈願)など、一族の繁栄や生命力謳歌に熱心で、弔いには不熱心であるように見えます。
神仏が習合した時、仏教は「弔い」の分野を取り入れていったようです。

肉親の死は、深い悲しみを伴います。悲しみは、時間に経過とともに薄らいで、やがて現実世界に戻らなくてはなりません。
”若住職は、この流れを、神社に成り代わって、仏教が、葬儀、法事という儀式に、ルール化した」のだといいます。そこには、本来仏教にはない”霊”の考え方を入れて・・・

皇室の服喪の期間は、一般の仏教の服喪の期間と比べると短いようにも思えます。が、神道・神社の考え方では、この方が当たり前のようですが・・・・・

 

植木の里の紫陽花畑・・・

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植木の里の紫陽花畑・・・

白あじさい

白あじさい 苗場

紫紫陽花

薄紫紫陽花

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さつき  凝縮・・・

植木の里 散策の彩り・・・

蓮池 本日鏡面

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蓮池 ・・・ 本日鏡面なれど ・・・

蓮池


開花のピンクの睡蓮


白の睡蓮 花蕾


ピンクの睡蓮



池は鏡面 逆さ木立と雲


近くの公園散歩・・・

Azur にて

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Azur にて

6月14日午後・・・軽井沢・「Azur」に立ち寄った。
友人が営業している”喫茶店”である。


「Azur」はフランス語で”青空”とか”蒼天”を意味するらしい。
本人はいたって営業的、商売的でなく、広告的なものは一切出して無く、電話帳にも喫茶店分類に、店名を見つけることが出来ないほど・・。

場所は軽井沢駅を東雲の交差点にむかい、交差点から右に折れて、一つ目の三叉路角・・・

   

 

その時、「草軽電鉄」の話がでて、「じつは、この店”Azur"の前の道が、草軽電鉄の線路であった」という

「草軽電鉄には、乗ったことがあるか」と尋ねたら、・・・

動いている電車には乗ったことが無く、
廃車になった車輌が近くの操車場に貯め置かれていて、
「小さい頃の子供の遊び場だった」という。


  

 

 

長野電鉄の廃線・・・

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どうもこの歌は、松代駅と長野電鉄が関係しているらしい       ・・・ 松代駅前

『汽車ポッポ』(きしゃポッポ)とは富原薫作詞、草川信作曲の日本の童謡である。

草川信は松代町(現・長野市)出身。

その日の午前中、松代にいた。空いた時間の、少し松代の町を彷徨いた。松代は、真田家の町であるとともに佐久間象山の町でもある。白い漆喰の土塀の武家屋敷やお城は、タイムスリップしたように江戸時代に戻るかのようであった。

お城の脇に駅舎があった。長野電鉄の松代駅であった。
線路のあった場所は、砂利を敷き詰めて広大な駐車場に変わっている。
衝撃的な風景であった。
長野電鉄は、廃線になっていた。

 

自分が学生であった頃、若者はスキーに憧れた。・・・スキー場が滑降可能になると、上野駅で客車は若者を満杯に詰め、まず長野駅へ運び、長野駅から湯田中まで、長野電鉄でスキー客を運び、そこからスキーのメッカ、志賀高原の各スキー場へ散らばっていった。
その”長野電鉄”が廃線になったという・・・

時代の、何が変わったのだろうか・・・


小布施&岩松院

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長野道のPA・小布施に入り、下ると「道の駅・オアシスおぶせ」に合流する。ETC車は、ここから出入りできる。

この道の駅は、レストランや美術館を併設していて、かなり美観に気を遣い、公園化している。

 

道の駅・オアシスおぶせ の園内の様子

もう、花の時期が終わっている”山法師”や”さつき”は満開状態・・・、北信濃はまだ夏日には届かないのか・・・

気温の差が、確実に認識できる。

 

公園を散策したあと、岩松院へ

ここでは、戦国武将”福島正則”の墓と一茶の”かえる池”を見る。

正則の廟所

かえる池

かえる合戦
 ○ 痩せガエル 負けるな 一茶ここにあり  ・・一茶

 

小布施は「栗と北斎と花のまち」と言われ、町内には北斎館を中心に美術館や博物館、岩松院等の見所、

栗の方は・・・

栗の和菓子屋・竹風堂、洋菓子では桜井甘精堂・・紅茶とケーキなど、とか”甘党”には垂涎の絶品が・・・栗は”マロン**”とか!。

 

美術館の方は・・・

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○北斎館・・・小布施で描かれた肉筆画、画稿、書簡などを展示しています。----------------
○おぶせミュージアム・中島千波館・・・小布施出身の日本画家、中島千波の作品展示。------

○高井鴻山記念館・・・北斎を小布施に招いた高井鴻山にまつわる資料、作品群が集積。-----
○日本のあかり博物館・・・あかりの歴史。日本のあかりの始まりから電灯が灯るまで。--------
○急須コレクション茶俚庵・・・土蔵を改造して、約150点ほどの急須コレクションが展示。-----
----人間国宝の三代山田常山や、幕末の青木木米の南蛮写しの急須なども!------------
○古陶磁コレクション「了庵」・・・中原了さんが収集した古伊万里や古陶磁が展示。----------
----挽きたてのコーヒーのいただける喫茶室もあり。----------------------------------
○小さな栗の木美術館・・・洲之内徹氏との親交から生まれた個性派コレクション------------
----秀逸の絵画が心に残る美術館。-----------------------------------------------
○おぶせ藤岡牧夫美術館・グレイスフル芸術館・・・雁田山の麓にたたずむ美術館。---------
----北信濃の風景・・ 心がほっとする、どこか懐かしい絵画に包まれます。----------------
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今日は忙しいので割愛・・・

菓子と北斎の天井画と下の二つの美術館は心残り・・・

 

真田氏の町 ・・・松代

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真田氏の町 ・・・松代

松代城

城門

城内庭園

裏門建物

真田氏の住居

真田家・宝物殿の裏側

 

真田家家臣の屋敷

 

鬼瓦の六文銭

 

松代 ・・こぼれ話

真田家はその出自から外様大名とされることが多いが、幕府における席次は譜代大名待遇であった。理由として、八代藩主真田幸貫が八代将軍徳川吉宗の孫である松平定信の実子であること、信之の妻が徳川家康の養女・・本多忠勝の実娘・・であること等の理由による。
*信之の父・昌幸と弟・幸村は、反徳川として有名。関ヶ原の戦いの時、真田昌幸は、どちらが勝っても、家系が存続するように、兄弟を徳川方と豊臣方に分けたという。
*松代は、今でこそ千曲川の氾濫はないが、真田家統治時代には、度々氾濫で藩財政が困窮したといわれる。真田藩の財政再建を託された、恩田木工の手法は、現在研究されて、評価が高い。恩田に登用された佐久間象山は、改革があまりに急進的すぎて京都で暗殺される。象山の名は、象山の生家の背後の山の象山から付けた号で、この山に”地震研究所”がある。

 

真田道 ・・松代・真田町・上田

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真田道


真田町〜地蔵峠〜松代の道
この道は、真田信之が徳川二代将軍・秀忠から、恐れられて幹線・中山道の要所から外れた松代の移封された時に、信之以下の真田主従が松代へ移動した道とされています。

ほとんどが山中で、信号はありません。上田・菅平ICで降りて、このルートで松代へ抜けても、ほぼ高速道路で掛かる時間と差異は出ないそうで、地元の抜け道だそうです。ワインディングロードの苦手な方と冬期凍結の危険があるので、注意・・・      <途中に、水素水の看板がありました。>

この真田街道(=真田道)は、真田家発祥の真田町へ通じます。

真田町の、真田家の旧跡・・・

目的が、真田家旧跡を尋ねる・・・ではない、所謂帰路のルートなので、「信綱寺」のみ寄ってみます。

信綱寺・山門

信綱寺・本堂

信綱の墓を中央に、左信綱夫人、右弟・昌輝

真田信綱は、真田家当主の時、武田勝頼の長篠の合戦に従軍して、弟とともに戦死。家臣が、信綱の首級等を陣羽織に来るんで持ち帰り、埋葬したとのことです。この寺には、その時の、血染めの陣羽織も保存されているようです。信綱は、武田軍団の中でも豪将として名高く、信濃先方衆の筆頭だったといわれています。信綱亡き後の真田家の跡目は、信綱の子息ではなく、勝頼の命で、弟の昌幸が継ぎました。

戦国時代真田家は、勢力の拡大を本拠地真田戸菅平周辺から、上州沼田へ求めました。それは、千曲川沿いに、東北信濃の雄、村上一族がおり、村上一族はなかなかの強敵で、進出を拒まれたのだろうと思います。世に名高い”川中島の合戦”は、実は真田と村上の代理戦争で、真田の盟主・武田信玄と村上の盟主・上杉謙信が戦ったのだそうです。

真田家の第二の拠点・沼田と真田町を繋ぐ道路を、通常真田道(=真田街道)と呼ぶようになったといわれています。この街道は、いまではドライブとして人気の高い”日本ロマンティック街道”とほぼ重なっております。

真田道A
真田町〜上田
真田家は、戦国の時代まで、真田町を本拠にして、中心は松尾古城でした。長篠の合戦で、兄・信綱が戦死して跡を継いだ真田昌幸は、千曲川沿いの上田へ進出します。真田家が、上田城主であった時代は、従って昌幸が関ヶ原の合戦時に西軍に属した時代と信之が昌幸を継いで、松代へ移封されるまでの間、です。そんなに長くないのに何故か上田は、真田家の町として現代に続いています。

真田道B
真田町〜鳥居峠〜万騎峠〜

真田道C
岩櫃城〜中之条〜
中之条の先から、渋川へ抜ける道と沼田へ抜ける道が分岐します
真田道は、当然沼田方面への道。

真田道D
〜赤根峠〜沼田
沼田は、真田家の分領・飛び地があり、城は沼田城です。
沼田支城に名胡桃城(なぐるみじょう)があります。
この二つの城と小田原北条家と真田家の確執は、やがて秀吉の小田原征伐の役へ発展します。

真田家 六文銭の旗印

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真田家 六文銭の旗印

真田幸綱は、信玄の軍団の中で、信濃先方衆の頭領的存在であった。
戦国時代にあらわれた幸綱は、武田氏の麾下に属し家紋と旗印を「六連銭」に改めたという。武田の部将となった幸綱は、地獄・餓鬼・畜生・修羅…のどこの世界へいつでも堕ちる覚悟を決めて「六連銭」を真田氏の家紋としたというのである。

真田家は海野一族で、海野一族は六文銭を家紋にしていた。
海野氏は、滋野氏から分かれたとされる。海野氏、望月氏、祢津氏が「滋野氏三家」と称され、三家の幡の紋は、海野氏が「六連銭」、望月氏が「月輪七曜」、祢津氏が「九曜」であったと伝えられている。幡の紋とは旗の紋すなわち軍旗に記された紋。

滋野氏の家紋は「月輪七九曜」であった。「月天七九曜の旗をもって家の旗とした」とする。

戦国時代にあらわれた幸綱は、武田氏の麾下に属し家紋と旗印を「六連銭」に改めたという。それによれば、武田の部将となった幸綱は、地獄・餓鬼・畜生・修羅…のどこの世界へいつでも堕ちる覚悟を決めて「六連銭」を真田氏の家紋としたというのである。しかし、この由来自体は疑わしい。もっと早くから使われていたことが記録に残る。

滋野氏から受け継いだとされる海野氏の「月輪七九曜」紋は、「星(曜)」と「月」で構成されたものである。海野一族である望月氏の根拠地の中心地は望月であり、望月とは十五夜であり満月を意味した。月を象った円形を七つの組み合わせ、九つの組み合わせにして望月氏を代表する家紋としたのである。

日月紋は、妙見菩薩信仰、三日月待、二十三夜待、二十六夜待などの月祭の信仰ともつながっていたと考えられる。そして、七曜・九曜・十曜などの星紋は、妙見菩薩の信仰から生まれた紋といわれている。

海野氏の場合、「洲浜」「雁金」も家紋として用いた。洲浜は河口にできる砂州からきたが、昔は」鳳来島に凝らせられ目出たい印とされた。洲浜は海野氏一族の氏神である白鳥神社の神紋でもある。また、雁は幸福を運ぶ鳥として用いられ、北信濃に多くみられる家紋である。
・・・白鳥信仰については、谷川健一の白鳥信仰に詳しい。興味深い記述が多いので、許せば、そちらを参考にして欲しい。

”九曜の紋”などの”曜”は星を意味する。妙見信仰は、北斗の星の信仰でもある。
太古の時代から、星は”道しるべ”であった。主に、大陸の遊牧民族の”道標”であった星への信仰は、渡来人によって日本に運ばれてきた。
山野に闊歩する、日本の狩猟族は、素直にこの信仰を受け入れて、道案内に利用してきた。
菅平や志賀高原に、狩猟を生業とする一族は、星を信仰とした。真田氏や海野氏は、菅平の山麓を拠点としていた。六文銭も又、曜の変化形であり、星を意味した。

それにしても、北信濃は、星の家紋の一族が多い。

 

こぼれ話・・・
『真田丸』は、2016年1月より放送される予定の、NHK大河ドラマ第55作]。決定
この話は、松代の観光所・・市内観光の武家屋敷の休憩所の、ボランティアの説明員のおじさんと、真田町の神社近くの農作業していたおじさんから、聞きました。
真田街道の関連11市町村が、「NHK大河ドラマ」へ取り上げて貰うよう運動していたようです。同様の運動は「保科正之公」に関しても、伊那市・長野市・会津若松市が連動して行っているようですが、保科を押さえて、三谷幸喜の「真田丸」に決まったようです。
主役の真田信繁役に堺雅人の起用が、つい先日決まりました。
「保科一族」に関心がある自分としては複雑ですが、再来年は、真田街道は注目されて、混雑するようになるのでしょうね・・・。
それにしても、地元の真田愛、真田ファンは、半端じゃないですね・・・。


 

ゆりの花 in 近くの公園

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ゆりの花


 

ゆりと紫陽花

 

○しさりたり 寄ても見たり ゆりの花  ・・千代女

難解な句・・”しさりたり”は色が褪せることなのか でも神秘的・・ ボクの能力では読解不能。

 

 

 

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