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庚申信仰 ・・第二話 秀吉

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庚申信仰 ・・第二話 秀吉

庚申信仰は、三尸説に基づいて、人間の胎内に、生まれながらにいる三匹の悪い虫が、人間の睡眠中に体外に出て悪戯をする・・という信仰で、その悪戯で寿命が縮まるという伝えられ、庚申の日には、宴会をやって眠らないようにするとか、三尸の虫は、青面金剛を怖がって出てこないとか、明治時代まで本気で信じられていた信仰で、今では嘘のような話だが・・・先述の青面金剛像や庚申信仰の話・・・

                  ・・青面金剛像

続きは、・・・秀吉の話です。

青面金剛の使いは猿で、これは庚申の”申”は”さる”と言うところから、猿田彦神社も庚申信仰の対象とされたようです。
日吉山王神社も、御神体は”猿田彦神で、庚申信仰の対象でした。

      川越日枝神社(猿田彦)

         ・・日吉山王神社・滋賀・・転用

織田家家臣時代、秀吉は、信長から”猿”と呼ばれていた話は有名です。顔が、猿に似ていたという身体的特徴から、と思っていましたが、そればかりでは無いのではないか、という着想が、彼の幼年の名前から浮かびました。
まず、秀吉の幼年の名前の日吉丸が、なぜ付けられたのか。猿の神様に日吉山王神社があります。日吉神社は日枝神社とほぼ同じです。単独で山王神社もあります。

『絵本太閤記』によれば、豊臣秀吉の母が男子を授かるよう日吉神に願ったところ、懐中に太陽が入る夢を見て秀吉を身ごもったとあり、秀吉がサルとあだ名されたことは近江の日吉信仰や猿神信仰に関係しているとの説もあります。
この話のもとは・・釈迦が日本の日吉に神として現れ、サルの形を借りて吉凶を示すと知り、「申(さる)に示す」と意味で漢字の「神」を発明したことや、蒼頡は実は釈迦の前世であり、釈迦が日吉に祀られてまもなく、サルたちが日吉大社に集まったことが記述されている。これはたぶん創作と思われますが、先に信仰があってのこじつけと思われますが、日吉神社に猿と縁があることは確かなようです。
嘘か誠か、秀吉も庚申日生まれ、とされています。

戦国大名の代表格の織田信長が、庚申の日に、家臣と”眠らずの宴会”を開いていたことといい、日吉丸こと秀吉の出生に纏わる話、家康の日光東照宮や秩父神社の三猿の彫刻等々、戦国武将の庚申信仰の保護を含めて、本気で信じていた痕跡が、今でも多く残っているところを見ると、これは侮れないと感じます。

             ・・信長、秀吉、家康・・転用

    ・・三猿(東照宮)

たまたま、仏教と習合し、あるいは神社と習合しますが、どうも神社仏閣と異質で、輸入されたものといえ、日本的なものを内蔵して、それを祖先らが、すべからく信仰していたとなると、青面金剛像を改めて見直してしまいます。


物見山・つつじ祭り

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                                                       物見山・つつじ祭り

                                  再度の 訪問です。 4月26日より・つつじ祭り

               

                                  ○ 盛りなる 花曼荼羅の 躑躅かな  ・・虚子

                       

                                     ↓  小さな写真は、クイックで拡大します

                                 

                                   ○ 百両の 石にも負けぬ つつじ哉  ・・一茶

                

                

                                 ○ 馬は食み 鹿は喰わねど 躑躅かな  ・・庄

                                         つつじが咲くと、もうすぐ夏・・・

 

植木の郷の散歩道・・・

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                                      ○ 近づけば オオデマリの白 まぶしくて  ・・某                          

                          

                                 植木の郷の小径は、ところどころに、花が咲いている・・

                          

                                               芝桜の誘われて・・・

                          

                                              植木農家の長屋門・・・

                          

                                            庭なのか、それとも植木の苗場・・・

                          

                                            竹林に、竹の子が、頭を出して・・・

                          

                                    四月の日の光が、辺りに充ちて、ときに影を作り・・

                                         和らいだ風が、木の葉をゆらす

                                         この付近の散策は、心を癒す・・・

                                            My Favorite Things !

                              マイ・フェイバリット・シングス- ジョン・コルトレーン - YouTube

 

再び・・牡丹の寺へ

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                                  ようやく・八割の牡丹が開花しました・・・

                     

                     

                                        

                                        ↑ クイックすると拡大します

 

                                      藤棚の藤も咲き出しました

                     

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                                            蕪村の画

                                   蕪村論・・的な一文

                               ○牡丹散て うちかさなりぬ ニ三片

                    蕪村論なんて、そんな”恐れ多い”ことを、もとから書くつもりはないが、
                          句を読んでいると極めて特徴的なことに気付く。
                  切り取った絵画的な空間の中に、いとも簡単に、時間を表現しているようだ。
                        簡単と見えるのは、実はそうでもないのかも知れない。
                            それにしても、牡丹が題材の句は多い。


                             ○牡丹散てうちかさなりぬニ三片
                             ○閻王の口や牡丹を吐んとす
                             ○山中の相雪中のぼたん哉
                             ○虹を吐てひらかんとする牡丹かな

                


                   代表作○牡丹散てうちかさなりぬニ三片 は、読み方に異説があることを知る。
        ・・散てを・・散って、と読むか、散りて、と読むか・・は蕪村が知人に宛てた手紙で、散りて、であることが顕かにされている。
                   ニ三片を・・ふたみひらと読むか、にさんぺん、と読むかも、議論のあるところ。
                          ここは、自然の流れで、にさんぺん、を支持したい。
        この句の要は、”ぬ”の完了形がきいていて、牡丹の絵画的なるものが、時の流れを醸しだし、三次元的になっているのだろう。
                            ”うちかさなりぬ”は、すごい、と思う。

                     さらに、絵画的空間は次の様に時間を共有する。


                            ○菜の花や月は東に日は西に
                            ○歩き歩き物おもふ春のゆくへかな
                            ○春の海終日のたりのたり哉


                  菜の花畑は、恐らく広大な菜の花で埋め尽くされた畑だろうし、
           歩き歩きの字余りは、それはそれで悠長な時の流れだろうし、 蕪村は”字余り”をよく使う。
                他の句は説明を必要としない、 ゆっくりとした時の流れを感じさせる。
                          
                  ○春の海終日のたりのたり哉 は丹後の天橋立近くで作られたらしいが、
                     この地方は"与謝”と呼ばれ、のちに蕪村の号になった、という。


                蕪村は、画家としては有名であったが、俳人としての評価は、後のことである。
           絵画的で光に満ちた俳句を数多く書き残し、鮮明なイメージを言葉で喚起することに成功した。
                    蕪村の発句は芭蕉と異なり、思想性が表面に出ることはない。
       しかしその言葉遣いは他に例を見ないほど洗練されており、彼は穏やかな情景をわずかに描写するだけで、
              景色の背後に広がる永遠の時間を感じさせるという、天才的な言語感覚を発揮した。

                後世に、蕪村の評価を定着させた人・・正岡子規、萩原朔太郎、安東次男。

                 

                                        蕪村の蟹の画

                        参考:子規の蕪村論 正岡子規 俳人蕪村 - 青空文庫

                                 ↑ クイックすると子規の「蕪村論」へ飛びます

正法寺・六面憧

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                              正法寺・六面憧

                 物見山の登り口の駐車場に車を止めて、正法寺・巌殿観音へ下る隧道とは、反対側に登る小径があります。
                                    道脇の案内柱に、 正法寺六面幢とあります。
                                  この山は寺域ではあるが、境内ではなさそうです。
                                 不思議大好きですから、当然好奇心で覗きたくなります。
        この道は、大東文化大の裏手に続く道ですが、途中に直角に、山中に入り込んでいく道があり、こちらが六面憧へ続いているようです。
                    足場の悪い道を少し下ると、谷間に踊り場の平地があり、そこに六面憧が建立されていました。

                       

 

六面幢は・・・
緑泥片岩の板碑を六枚組み合わせて、六角筒状にして、上部に六角形の笠石を載せたもの。板碑にはなにやら文字が刻まれています。板碑は一枚消失したらしく、欠落しています。さらに一枚は、剥がれています。近くにある説明板に拠れば、最初の建立は安土桃山時代 天正十年(1582)の紀年銘があり、さらに幕末に分散されていたものを明治に組合わせた、とあります。あまり管理状態は良くないようで、結節部分は弱いようです。高さ107Cm、板石の大きさは横36・縦101Cm、笠石の直径は128Cmです。笠石の周縁には、飛雲、裏側には双竜・宝球、獅子、宝相華が極めて精巧に彫刻されています。板石にはそれぞれ銘文が刻まれています。

そもそも、六面幢とは何でしょうか。どうも墓ではなさそうで、祈願塔、供養塔のようです。説明文に拠れば、天正十年(1582)二月彼岸中日に、岩殿山の僧道照が開山栄俊、弟子俊誉、妙西、道慶、俊意らの菩提を供養するため、とあります。妙西、道慶は尼僧の名前のようですが、正法寺の門前に散在する僧坊の跡から想像すれば、かっては学林とか檀林が存在して、彼等はその学僧ではないか、と思ったりもします。

仏教は、六に関する概念が多くて、六面もそこから来ているのではないかと想像します。人間は常に悪行をおかし六道に輪廻転生する存在で、こうした人間を救おうとする地蔵の本願から六地蔵が分身した。六道とは地獄(怒)、餓鬼(欲)、畜生(愚)、修羅(闘争)、人間、天上(喜悦)を言うらしく、六道とは、仏教において迷いあるものが輪廻するという、六種類の迷いある世界のこと。天道;人間道;修羅道;畜生道;餓鬼道;地獄道とも表現されるようです。

また仏教は、生まれ方の違いによる四つの分類があり、胎生;母親の胎内から生まれるもの、卵生;卵から生まれるもの、湿生;湿気のあるところから生まれる虫など、化生;何もないところから忽然と生まれるもの、があり、これを四生というそうです。この部分、特に湿生と化生は、かなり荒っぽくて科学的ではありません。

                               

輪廻とは車輪の回転のように、無限に生死をくり返すことです。輪回とも書きます。六道輪廻とか六道四生といいます。輪廻転生ですから、円形が基本です。円盤を持っているのは死の神であり忿怒尊であり羅刹です。六道絵=六道輪廻図の原形はインドのようです

六面幢の意味は、こんな所でしょうか。ここから繋がる曼荼羅の概念が、朧気ながら理解出来そうです。

仏教の、死後の世界観=輪廻転生が少しだけ分かってくると・・・
先般の敗戦で、多くの戦死者が仏教の葬儀で埋葬され、仏教に拠り、死者は”輪廻転生して生まれ変わっている。とすれば、すでに輪廻転生して、他のものに生まれ変わったものが再び霊として浮遊して神社に祀られることがあり得るのか。靖国に祀られている英霊とは一体何なんでしょうか。
・・・こんな疑問も湧いてきます。

正法寺六面幢:埼玉県東松山市岩殿1210

睡蓮とハンカチの木  ・・近くの公園で

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睡蓮とハンカチの木


近くの公園で、睡蓮の花のつぼみが膨らんできています

 

睡蓮の浮く池の畔で、ハンカチの木が大小三本、

”白いハンカチ” を垂れています

上部の黒いドットの円形状のとこが花、・・では白いのは?・・
上下の二枚の苞葉・・葉のようです
別名に、”鳩の木”とか”幽霊の木”、があります

白いハンカチは、どこか”もの悲しげ”で、”別れ”を連想します
季節を過ぎて、あの時以来会うことが叶わない人を思って、

風 【22才の別れ】 - YouTube

↑クイックでYouTubeが起動します
ハンカチの木に、一番似合う歌・・,って独りよがりの思い込み。


 

 

 

古い民家と花の庭

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図書館への道を遠回り   古い民家と花の庭

民家の門辺り・・

大きなる 紅ばらの花 ゆくりなく ぱっと真紅に ひらきけるかも  ・・白秋

近くに咲く薔薇・・

薔薇の季節は、5月末辺りと記憶しているが、もう咲いている

今年は、薔薇のトンネルでも、行って潜ってみよう

国昌寺・・・ 開かずノ門 

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国昌寺・・・

開かずノ門   ・・やけに、十六花弁菊花紋が目立ちます

・・伝説・・ 
むかし、葬儀を終え、埋葬の墓地へ棺がこの門を潜ると、棺の重さが半分になっていました。
見沼にいた龍がこの寺に住み着き、棺の遺体を食らう、というのです。
そこで住職は、時の名匠”左甚五郎”を招き、龍を彫って貰い、本堂の欄間に龍を釘て固定しました。
勿論山門は、その時以来、閉鎖しました。  ・・・開かずノ門

本堂 ・・手入れが行き届いています

巨大な石塔

象が・・・

本堂が閉ざされていて、甚五郎の龍が見えません・・・

国昌寺橋を渡ると・・・バラ園 ?ではなく、薔薇の苗場です

さいたま市緑区大字大崎2378


桐の花と野田の散歩道

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とうとう、桐の花が咲きました

○ほつほつと 埒に散りくる 桐の花   ・・尾崎恭子

・・埒ってなんだろうか、軽い区切り、塀では重いので”柵” ・とか・・

    

散策と途中に、少し休憩できる、小綺麗な茶店があって、

コーヒーか紅茶を飲みながら、談笑する。もちろん茶請けは、カステラ・・・

しかし現実は、まわりは畑ばかり・・・

野田の散歩道です

植木の苗木畑の間に、野菜の畑

花菖蒲の畑

菜の花も見えます

畑の脇に水道が・・・

林間に鳥居と神社

 社叢 ふるさとの森 指定 ・・とあります。

 

 

ペヤング 和風焼き蕎麦  如何なるか?

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これは、グルメとは呼ばないかも知れないが・・・

ペヤング 和風焼き蕎麦

セブンイレブンの即席麺コーナーに、黒いパッケージの「焼きそば」が登場していて気になっていた。
もとから、ペヤングの焼きそばは嫌いではない。
詳しく見ると、「ペヤング 和風焼き蕎麦」とあり、和風と蕎麦の文字が新しい。
従来との違いはこの部分のようだが、珍しさだけで飛びつくと、きわもので、失望することがままある。

  ・・・で、買って食べてみた。

麺には蕎麦粉が練り込まれていて、ほとんど蕎麦のようだ。
またソースも和風味で、麺つゆ+ソースって感じ。
ちなみに「かやく」は、えび天かすとネギで、コメント無し。
・・・「焼き蕎麦」である。
・・・味は美味しい!
・・・ペヤングの普通の焼きそばは、濃い味で、香りも強いが、比べればそれよりさっぱり。

与野・バラ園  ・・薔薇 咲き競う

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 与野・薔薇園  ばら 咲き競う

この公園は、幾とせもなじみがある。バラ園・「薔薇園」は「そうびえん」と読まないでほしい。気取った読み方だと、何処か遠くに行ってしまう・・・

○薔薇呉れて 聖書かしたる 女かな  ・・虚子

    

○大きなる 紅ばらの花 ゆくりなく ぱっと真紅に ひらきけるかも  ・・白秋

  

○愁ひつつ 岡にのぼれば 花いばら  ・・蕪 村 

*いばら ・・はとげのある花の総称で、薔薇もいばらでいいのだが、何となく違和感!
茨城県の石岡に茨城があり、賊から城を守るため、とげのある花木で防御の生垣を作ったという。
茨で守られた城・・・水戸に水戸藩が出来る前の話で、石岡の周辺に国衙があって、政治の中心だった。
かっての水戸はいばら(=うばら)の郷の一部であった。
そのころ、いばらは白い小花であったという。

今見ている薔薇は西洋からの輸入?で、明治以降のもの。
彩りも豊かで、たまに黒もあるという。
深紅や黄色の薔薇に、蕪村の句、
・・・違和感があるのはそんなところから来ているのかも知れない。

 

 

与野の神社 ・・天神さま、御嶽神社、天祖神社、大国神社

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与野の神社 ・・天神さま、御嶽神社、天祖神社、大国社

まず、与野公園内の天神様 

神池の中に小島が浮かび、神橋を渡ると、参詣できます。

 

 ここで畠山重忠が刀を洗った、とあります。

畠山重忠の縁で、”銭を洗って商売繁盛”、銭洗い弁天になったそうです。

笊も用意されて、手持ちのお金を清めることが出来る。ただしお札はやばい、硬貨のみ。

天祖神社:寿老神

「寿老神」は、老子の化身だそうだ。1,500歳の超長寿を全うした長寿の神。この神様は中国の神さまだ。

 

  御嶽信仰の御嶽神社

御嶽神社はつつじや紫陽花が植えられていて、今の季節には斜面につつじが咲いて美しい。
神社自体は、小高い丘の上に小さな祠があるだけで拝殿などは無く、いたってこじんまりとしている。

同じ御嶽神社の字で、「みたけ」と読む場合と、「おんたけ」と読む場合とでは、神様が違うらしい。
「みたけ じんじゃ」は、蔵王権現を祭った神社、総本社は吉野金峰山寺の蔵王権現堂。
「おんたけ じんじゃ」は、木曽の御嶽山の木曽御嶽神社。ここは木曽系の御嶽(おんたけ)神社。

由来書・・・

与野は江戸時代から木曾御嶽講の盛んな地域であった。
とりわけ、与野の名主であった井原平八はその熱心な信者であり、布教に努めた。
更に、井原平八の養子の治兵衛は、行者となり、数万の信者を集め、
没後は一山霊神としてに祀られている。
江戸時代、幕府は御嶽講に禁圧を加え、井原は遠島に処せられた。
やがて、尾張藩主の取り計らいによって、御嶽講は解禁され、
井原平八も布教活動を再開するが、当社は、口碑によれば、
住民らの熱心な嘆願や御嶽講の解禁によって与野に戻ってから造った社であるという。・・・
省略した部分有り・・「埼玉の神社」より

この木曽の御嶽神社を調べていたら、面白いことが分かった。
この神社の数は、地元長野県よりも、愛知県が一番多い。
次ぎに岐阜県、埼玉と長野はほぼ同数で三位を争っている。
前々から、神社の一部は、水源を崇める風習があり、
水源の山岳は信仰の対象であったのではないかと思っていた。
御嶽山を源流とする木曽川は、濃尾平野を潤し、この地方に多大な恵みを生み出してきた。
これが・・・御嶽信仰で、どうりで尾張藩主が大事にするわけで、
愛知県と岐阜県に御嶽神社が多い理由は納得できた。
が、なぜ埼玉に御嶽信仰が多いのかは、なぞ・・いつか究明したい気がする。

最後は、大国社だが、由来を見てもよく分からない。
江戸時代以前は、ここは権現様と呼ばれていたらしく、
神仏習合の習いであるようだが、祭神は後世に祀ったもののようだ。

祠を見ると、所狭しと”わらじ”が吊ってあり、どうやら足の神様のようだ。

与野のこれらの神社は、約200mの範囲に四社がひしめき合っている。
何故だか分からないが、商売の神様が主役のようで、
恐らく神社群の背景地になる与野本町の辺りは、むかし市が立ち、
賑わっていたのだろうと思ってしまう。

 

 

ウクライナ慕情

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ウクライナ慕情

  戦車の写真

コサックとコーカサス草原・・・・この言葉の響きは懐かしい。
かつてロシア文学に憧れた時期、同類の輩 があちこちにいた。「ショーロホフ」は「静かなドン」を書き、その前「トルストイ」は「コサック」を書いた。僕らの・・ボクの知っている「コサック」と「コーカサス」はロシアそのものであった。

コサックの起源については不明な点が多い。15世紀後半にコサックは、ウクライナの中南部、「荒野」という草原地帯で発祥し、ドニプロ川の中流を中心とするザポロージャ地方に根拠地を築いた。16世紀にコサックの一部はドン川の下流に移住し、そこで新たな根拠地を創立した。それらのコサックはザポロージャ・コサック]とドン・コサックと呼ばれ、コサック諸軍の中で最古軍であった。

 コーカサスの高原


コサックは、騎兵・・・馬に乗った勇敢な騎兵が、どこまでも続くコーカサスの草原を疾走する姿はロマンがあった。実際は海賊を生業としていると知っても、あまり暗さを感じることはなかった。
ロシア革命があった時代やその後、ロシアを学ぶものは多かった。自分の周りにもロシア史を専攻するものが何人かいた。その周辺にいた自分も、ロシアについては関心が深く、多少多めに、情報を見聞きする機会があった。
「ショーロホフ」の「静かなドン」は、ロシア革命時代のコサックの運命を描いた大河小説である。ウクライナの旧体制に反旗を翻したコサックは、やがてレーニンのボルシェヴィキと対立し、やがて敗れて飲み込まれていく。そこの揺れ動く、肯定と否定に、”力強くも物悲しい生きざま”をみると、・・・また繰り返すのでしょうか。

 コーカサスの教会と墓地

ウクライナは、多民族国家で、
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民族       人口    %
ウクライナ人   37,541,700 77.8
ロシア人      8,334,100 17.3
ベラルーシ人     275,800 0.6
モルドヴァ人     258,600 0.5
クリミア・タタール人 248,200 0.5
ブルガリア人     204,600 0.4
ハンガリー人     156,600 0.3
ルーマニア人     151,000 0.3
ポーランド人     144,100 0.3
ユダヤ人       103,600 0.2
アルメニア人     99,900 0.2
ギリシア人      91,500 0.2
タタール人      73,300 0.2
ロマ人        47,600 0.1
アゼルバイジャン人  45,200 0.1
グルジア人      34,200 0.1
ドイツ人       33,300 0.1
ガガウズ人      31,900 0.1
その他        177,100 0.4
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
上記表のように複雑です。
クリミヤが、住民投票でロシア併合を議決してロシアになったため、クリミア住民を除くと数値は変化します。ウクライナ人は、それぞれに分解できそうです。

 ウクライナの住民デモ


中には、西欧と経済的に仲良くしようとする人がいます。中には、ロシアと仲良くしようとする人がいます。この綱引きが、現在のウクライナの現状だと説く人がいます。TVなどの解説の論調は、このとうりなのですが、そして米国のオバマや英国のブレアなどはこの論調の主導者のようです。・・・これが”たてまえ”。”ラブコールされれば、建前はむげにも出来ません。

しかし現実はもっと複雑で、ウクライナは、汚職・賄賂横行で、かつ経済基盤が弱く、ギリシャ・イタリア・スペインなどと同様、欧州経済圏に同盟すれば、足を引っ張られて経済的に沈没しかねない、と東ドイツを併合して苦労したドイツのメルケルは本気で危惧しているようです。これは、ロシアのプーチンも同様で、クリミアは別ですが、ウクライナの経済を支えて経済負担が増えれば、ロシアも沈没しかねないと本気で懸念しています。・・・これが本音。

 キエフ  

 雀の巣

ソ連・ロシアを通じてのウクライナ出身の政治家は、フルシチョフとブレジネフとトロツキー。文学者は、トルストイとショーロホフ。原発事故のあった「チェルノブイリ」はウクライナ。これらは代表の一部でしかありません。ウクライナの中には、”我こそロシア本流」の意識がかなり高いと言うことで、遠い日本から見ても、彼等政治家や文学者を見て、ロシアそのものではないかと思ってしまいます。当然同族意識ですから、ウクライナからロシアに働きに出ている人も多いそうで、このロシアとウクライナの国境の敷居は高くありません。

もし、ウクライナに内乱が起これば、そしてロシア派が危機に陥れば、同族意識の強いプーチンは、ロシア派を守るべく出動するでしょう。その要諦を理解しているからこそ、ウクライナのロシア派は強気です。そこには、経済的負担の増加を懸念する本音は吹っ飛んで、民族意識が優先してしまいそうです。

ウクライナに、第二次世界大戦の戦後秩序は当てはまりません。ソヴィエト崩壊によって生まれた国です。民族自決の原則に従えば、おそらくその流れでしょうが、血が流れます。誇り高き民族性故に、でてくる今後の読みは、悲惨です。
これが、ロシア文学をかじって、ロシア革命を学んだ、ロシアの民族性を多少知るものの結論です。

 

チェルノブイリがウクライナにあることは意外と知られていません。

いまでも、ウクライナとロシアがなぜ違う国なのか、分からない。
トルストイとレーニンに埋もれていた頃、ウクライナはロシアそのもので、
いまだにウクライナはロシアだと心の底でおもっている。

写真は画像集の中から、転用させて戴きました

ウクライナはどこへ行く?

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ウクライナはどこへ行く?

 

”フルシチョフはバカだ”

フルシチョフ


昔フルシチョフは国連での演説で「私はフルシチョフはバカだといった奴を処刑した。なぜなら彼は国家秘密を洩らしたからだ」といったとか。

「《ある男が赤の広場の塀に「フルシチョフはバカだ」と落書きした。この男は逮捕され、懲役11年を言い渡された。「俺の罪は何だ」と男が叫ぶと、裁判官は「1年は国の財産である壁を汚したため。残り10年は国家機密漏洩罪だ」と答えた。》(ソ連のジョーク)」
また、ある説では、"赤の広場で酔っ払いが「フルシチョフは馬鹿だ!」叫び、逮捕された。男は早速裁判にかけられ懲役25年の判決を受けたが、その内訳は不敬罪が5年、国家機密漏洩罪が20年であった"。
これは、一つの事件を、後文の方では誇張しているのかもしれないし、同様な事件が数件頻発していたのかも知れない。
これには原因があって、ソヴィエト崩壊で、クリミアにも独立国家の動きがあった時、多くのクリミア人が”ロシアに残ることを希望した"のに対して、フルシチョフがクリミアをウクライナに併合させて独立を認めたことに、クリミア人もロシア人も共通して抱いた、フルシチョフへの反感だったという。
ウクライナ出身のフルシチョフは、ウクライナへ”恩”を売ろうとしていたのかも知れない。

 

”・・・・・一皮むけば、タタール人”

タタール人

これは、ソヴィエト連邦と呼ばれていた国の中の、住民の多くに共通する諺?だそうで、今ロシア人とかウクライナ人とか区分けされていても・・・一皮むけば、タタール人で、三代・四代前の祖先は”タタール人”だったと言うことらしい。
さすがに、今では”遊牧民族の生活スタイル”を継続するタタール人は少数派になっているが、祖先は遊牧民族のタタール人は、相当数いると言うことの裏付けの諺のようだ。
ではタタール人とはなにか・・と考えると、実は正確には分からない。タタール人はモンゴル人をさしたり、トルコ系民族をさしたり、よくわからない。 無理矢理整理してみると、 タタールはモンゴル系の遊牧部族をさす。モンゴル系とかトルコ系とか、系が付くのが特色で、もともと遊牧民であるのだから、彼等に国境という概念は存在しない。生業の羊の放牧と牧草地が彼等の関心事で、その生活スタイルに適合する民族には、”来るを拒まず、去るを追わず” で融合していったのではないだろうか。

コーカサスの草原

そしてやがて定住していったのが、コーカサスの草原であったり、ロシアの草原であったりした・・・・・その中で、目立つのが、モンゴルとトルコの融合の民族のタタール人・・目立たないが、当然アラブ系や、スラブ系やアングロサクソン系も融合の中にはあろうことは、容易に想像できる。ウクライナと国境を接する国は、ロシアは勿論だが、ルーマニア、ポーランド、ベラルーシになる。したがって、隣接する国からの移動住民は多いのであろう。

広大なユーラシア大陸を、遊牧で移動していると、山岳で様々な鉱脈を発見する機会は多いだろうと想像できる。彼等は、遊牧で旅して、相当レベルの高い”鉱山学"の知識を所有していたのか。
その意味で、古代の日本とも関係が深い。

高麗王陵墓と羊


外秩父丘陵日高地方・高麗の郷に高麗神社があり、高麗王若光を祀った神社とされる。高麗王若王の墓は聖天院に弔われている。若王の墓の前には、確か羊が墓を守っていてという記憶があった。高麗王若王は高麗族=高句麗とあり、昔高句麗は遊牧民族で、時に中華を脅かし、やがて漢民族に追われて、朝鮮半島に入り、そして朝鮮族の対立から日本へ逃避したと由来書は伝える。高麗王の高句麗はもともと遊牧民でユーラシア大陸を闊歩する民族であったのだ。羊は、その頃の遊牧民族の名残・・・

たたら


さらに、鉄の製法を持って、縄文から弥生に時代を切り替えた朝鮮系渡来人は、鉄の製法=”たたら”を伝えた。”たたら”は、「タタール人の開発した鉄の製法」であるそうで・・・。ここで古代日本とタタール人は結びついたのだろう。思えば興味深い”文明伝承の流れ”・・・・・

現実に戻ると、この期にいたって、プーチンから、ウクライナのあり方に、連邦制の提案がなされた。国家の役割を、外交と防衛、それと通貨に絞って限定し、その他の住民サービス・厚生面は各自治国に任せるという連邦制国家の仕組みのことである。プーチンの頭の中から発想なのか、メルケルのアドバイスなのか、よく分からないが、キーになる二国は、これを落としどころと考えているようで、オバマとブレアの発想にはないが、概ね賛成できそうである。
ウクライナの欧州派とロシア派の対立軸は、細分化されて、先鋭化が和らぎそうだ。言ってみれば、少し前に言われた小さな国家の考え方であり、ウクライナが西洋側に帰属することもなければ、ロシアに併合されることもない。現時点でも妙手の落としどころのようにも思える。
しかし、矛盾の根元は、ウクライナの経済的基盤の弱さで、ここを再構築できなければ、将来に、今のような対立の構図が再燃するとも予感できる。

 

睡蓮とあやめ

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睡蓮とあやめ

公園の池之端にアヤメが咲き、水面に逆さ木立が・・・

池之端の四阿・・・

○睡蓮の 敷き重なりし 広葉かな  ・・星野立子

睡蓮の開花情報・・・満開はどんななんでしょうか?

 

 

睡蓮

光と色彩の画家 モネ

モネの絵の中に赤(紅)い睡蓮があります。いまだ実際に見たことがありません。本当でしょうか?ピンクは見かけるのですが・・・


 


青い薔薇の伝説

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与野バラ園の玄関口・与野本町駅(埼京線)・駅前

迫力のある薔薇花壇が出現します

おや!”ブルーローズ”、いや・・・

 

こちらは、”ブルーローズ”・・・、開発したのは、お酒の会社”サントリー”

正式名称は、”APPLAUSE" アプローズ ・・・SUNTORIY blue rose APPLAUSE ↓

 

↓ こちらの青い薔薇は、何でしょうか。こちらも遺伝子組み換え!??

薔薇には、もともと青の色素が無いとか受け付けないとかで・・・自然界には存在しないそうです。
したがって配合を繰り返しても、ラベンダー色までが精々で、ラベンダーでもブルーに見まがうこともあります・・・

「ピカレスク太宰治伝」の中に・・確か”第三の事件”・・太宰と檀一雄と草野心平と中原中也が酒場で絡むシーンが何回か出てきます。
太宰と中原中也は気が合わなくて、というよりも、中也は酒癖が悪くて、取っ組み合いを始めます。
・・・これはこれで、面白いのですが、四人の顔合わせは、「青い花」(=同人詩)の創刊に向けての会合も兼ねていたらしい。
実際「青い花」が発刊されたかどうかは定かではありませんが、猪瀬は、「青い花」に、”まだ見ぬ夢の花、青い薔薇をイメージしていた伏が覗われます。
ちなみに太宰の好きな花は桃の花・・・

 

浅間神社 in 八王子神社 与野あたり

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浅間神社 in 八王子神社 与野あたり

大宮バイパスの与野公園斜向かいに「ドイト」があり、裏手に八王子神社があります。

 八王子神社・御由緒

 

裏手に、塚があり・・・登ると浅間神社があります。

もともと、信仰心など全くないのですが、江戸時代に庶民の信仰を、江戸や周辺で集めたという、
それも山岳信仰はなぜだろうと、前から不思議に思っておりました。
与野浅間神社は富士講の神社の様です。
富士講だとすると、この小山は余り高くはないが富士塚のようです。
高くなくても、江戸時代は高層建物など無く、ここいらからは、富士山が見通せたのではないかと思われます。

中山道六十九次の浮世絵を見てみると、

3支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望
4木曾街道 大宮宿 冨士遠景
7岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望
11木曾海道六拾九次之内 新町(広重)富士山
20木曾街道 追分宿・浅間山眺望(英泉)
24木曾海道 六拾九次之内 八幡(広重)浅間山
30木曾街道 塩尻嶺(しおじりとうげ) 諏訪ノ湖水眺望(英泉)富士山

絵の背景に、実に富士か浅間が七カ所描かれています。
共通するのは火を噴く山で、浅間は日頃煙もたなびかせていたと思われます。
それだけでも、畏敬に値し、信仰の対象になりそうです。
火山は、荒ぶる時、噴火します。噴火すれば近隣は溶岩が流れて覆い尽くし、山林・田畑・焼き尽くします。
火山の灰は、遠方まで降り積もり、一尺二尺と積もれば、耕作地は不毛の原野と化します。
浅間神社は、火山の荒ぶる魂を鎮め宥める、鎮撫の役割のようです。
そして、浅間神社の本宮は富士山麓に鎮座しているようです。・・・富士山本宮浅間大社(富士宮市)
浅間神社の祭神は、”木花咲耶姫命(=コノハナサクヤヒメのミコト)”と言われる。
これは、火山の噴火の様子が、出産に類似している由縁とか、
(ちなみに出産に関係する女性部分を"ほと”と呼び、”火戸”とか"火門”の字が宛がわれる)、
姫の父親が、”大山祇命(オオヤマツニのミコト)で、父親も祭神として祀られることが多い。
木花咲耶姫命は火の鎮撫ということで、”水”を扱えるとして、”火伏せ”の神にもなり、
大火を経験した江戸の市民から絶大な人気を得て、富士講は大流行したらしい。
その教義は、複雑難解なものでは無く、至って単純で、毎日富士の霊峰を拝み、
孝行や勤勉に勤め、労働に励むことが、富士の荒ぶる魂の鎮撫に繋がり、
機会あれば修行登山して富士の霊峰に登るというものであったようだ。
今から思えば、火山活動と勤勉な庶民の生活スタイルとは、合理的には何ら関連性を持たないが、
信仰とは、えてしてそんなもののようである。
さて、ここは与野であるが、なぜに山岳信仰がここで根付いたのか分からない。
ここから余り遠くない所に御嶽信仰の御嶽神社もあるし、・・
更に富士塚のある浅間神社もある。あるいは付近に大火があり、悲惨な経験をした土地柄なのかも知れない。

 

 

 

山法師と白雲木

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山法師

やま ほうし −ほふし 【山法師】
比叡山延暦寺の僧徒。特に,院政期の僧兵。 → 寺法師 ・ 奈良法師
やま ぼうし −ぼふし 【山法師】
ミズキ科の落葉高木。各地の低山に自生し,庭木ともされる。葉は対生し,楕円形で先がとがる。 

初夏,小枝の先に白色花弁状の苞を四個つけ,中央にごく小さい花を密生。
果実は集合果で赤熟し,食べられる。
材は器具・薪炭材とする。[季]は 夏。・・・三省堂 大辞林 より

僧兵の姿は、白の五条袈裟を以って頭を裹んだ。裹頭(かとう)という。

法衣は墨の裳付、石帯で結び、白の括袴に白の脛巾、裳付の下には下腹巻という胴丸の鎧を着けている。
足には足駄をはき、腰には革包の太刀、薙刀を持っている。

叡山の林間に、見え隠れする白装束の裹頭は、里山に、白き花弁状を木の葉の上に置く木立を見つけて、山法師と名付ける。

白き花弁状は、花に見えて真実の花でないところは、相場の世界にする暗躍するという”山師”に似るところも・・・少しあり・・・。

100年前、日本からワシントンに贈られた桜の返礼として寄贈された。

日本に定着したハナミズキは、別名アメリカヤマボウシ。
やはり仲間か!確かに似ている。

○亡き友の記憶となりし山法師  裕

 

白雲木

エゴノキ科の落葉高木。山地に生え、葉は大きく円形で裏面が白い。

5、6月ごろ、多数の白い花が総状につき、垂れて咲く。
花びらは深く五つに裂けている。庭木にする。おおばぢしゃ。・・・デジタル大辞泉

白い花が満開に咲くさまが、 白雲のように見えることから・・・

学名:Styrax obassia

属名の Styrax はギリシャ語の「storax(安息香)」から。
この属の植物の樹脂から安息香(ベンゾイン)が採れることから名づけられた。

 ○孫悟空 白雲木の 花と馳す ・・大串章

これは実に楽しい。

孫悟空の乗った、確か”キント雲”の、形や色はよく知らないが、
白雲木を雲と見て、孫悟空が乗って馳せる姿に、「西遊記」を詠んだのだ。

花はよい香りがする。

・・・近くの公園で 

 

ブラシの花

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ブラシの花

正しくは、ブラシの木 ・・・花に見まがうのは花糸というらしい。花糸は「おしべ」。
・花の形が、ビン洗いのブラシにそっくり♪・  

 花言葉は・・恋の炎・・とか

見つけた時、花の異形に驚き、次ぎに楽しくなる。

Callistemonは、「kallos(美しい)+ stemon(雄しべ)」・・ギリシャ語
・開花時期は、5/15〜6/10頃。オーストラリア原産。明治中期に渡来、暖地に栽培。
・蒲桃科・学名Callistemon speciosus:speciosus ・・ 華やかな

形状・・・
・実は、枝にずらっとついて並ぶ。翌年の花はその上部に咲き、実は次々と何年も残っていく。

その後もずっと大きくなりつづけ、7〜8年は枝についていて発芽能力も持ち続ける。
この木は、乾燥地が原産地のため、極端な乾燥や山火事のときにパァーンと実が開いて
中の細かい種子が風に飛んで散布される、という仕組みになっている。

・別名「花槇(はなまき)」・葉が槇の葉に似ているところから。

近くの公園で

公園の花壇  カレープラントとチェリーセージ

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公園の花壇

カレープラント

カレーの香りがするらしい

別名でエバーラスティング(everlasting)

 

チェリーセージ  (ハーブ)

紅白が可愛い

土壌の栄養により、白一色も紅一色もあるというが・・・

茎や葉にサクランボの香りがあるから

ハーブは香りを楽しむ花・・・

公園の花壇  近くの公園で

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