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久伊豆神社の謎

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久伊豆神社の謎  

承前 玉敷神社  

気になっていたのですが ・・・

玉敷神社が、何の神社なのか不思議に思っておりました。
玉敷神社は、元荒川沿いに集中してある久伊豆神社の総鎮守といわれています。その久伊豆神社も、何を御神体にしているのか分かりません。

 「久伊豆神社は、埼玉県の元荒川流域を中心に分布する神社である。祭神は大己貴命(大国主)である。久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。加須市の玉敷神社は、かつて「久伊豆明神」と称しており、久伊豆神社の総本社 ・・・」

解明の鍵は、”私市党・野与党”、”元荒川沿い”、”出雲の大国主命”。まず、私市党は出雲族なのでしょうか。 ・・・そうすると足立(大宮)・氷川神社と同祖になってしまいます。これは釈然としません。

私市党は、武蔵七党の一党派で、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国 を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士 団と言われています。 成立は、武蔵国は駿馬の産地であり、多くの牧が設けられていた。その管理者(牧官)の中から、多くの中小武士団が生まれた。この武士団のことを武蔵七党と呼んだとされています。

『武蔵七党系図』には:横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党、児玉党、丹党・・の説があり、また:横山党、児玉党、猪俣党、村山党、野与党、綴党、私市党の説もあります。他にも:丹治党、西野党を入れる書もあります。
この何れの党も、実在の可能性が極めて高く、本貫・本拠地とされている地区に地名を残しているところからもそれが証明されると思っています。武蔵の地に、大小の武士団が群居し、その中で、誰もが認める大勢力が、横山党、猪俣党、野与党、村山党、児玉党の五党で、次の中規模の勢力の中に、、西党、丹党、綴党、私市党、丹治党、西野党などがあり、七党の語呂の良さから”七"に拘り、選ばれたのが人に拠ったのではないかと、勝手に想像しています。
同様の選び方に、坂東七平氏といわれるものもあります。これは、坂東(関東)に根付いた平氏の一族を七氏選んでの呼び名で、頼朝が、平家討伐で旗を揚げた時、坂東七平氏はいち早く頼朝側で合力したと言われています。 ・・・坂東八平氏もあります。源氏に平氏が協力したことも興味深い。

もう少し、私市党を詳しく調べて見ます。
私市は、古代皇后の部族で私市部を祖とするようです。その一族が流れて、旧埼玉郡北部の大里郡の根小屋に居着いたと言われています。
ここは、利根川水系の後背湿地帯にある小さな町で、やがて私市と書かれ、武蔵七党の一つ私市党の根拠地であり、東部の根小屋に私市城を築いた。集落は、自然堤防上にあり、典型的な列村形態をなしている。いわゆる往還沿いに発達した市場町だったようです。
私市が何時に騎西と名を変えたのかは定かではありません。

熊谷直実は私市党の一員であった


久下直光は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武士。私市氏(私市党)の一族で、本姓より私市直光とも呼ばれる。久下権守を名乗った。
そうです、熊谷市久下の領主であった、あの久下の地域のことです。久下は、伊那忠次・忠治の荒川の東遷の起点になった場所です。
・・・ 久下氏は武蔵国大里郡久下郷を領する武士で、熊谷直実の母の姉妹を妻にしていた関係から、孤児となった直実を育てて隣の熊谷郷の地を与えた。後に直光の代官として京に上った直実は直光の家人扱いに耐えられず、平知盛に仕えてしまう。熊谷を奪われた形となった直光と直実は以後激しい所領争いをした。更に治承・寿永の乱(源平合戦)において直実が源頼朝の傘下に加わったことにより、寿永元年(1182)5月に直光は頼朝から熊谷郷の押領停止を命じられ、熊谷直実が頼朝の御家人として熊谷郷を領することとなった。勿論、直光はこれで収まらず、合戦後の建久三年(1192)に熊谷・久下両郷の境相論の形で両者の争いが再び発生した。同年11月、直光と直実は頼朝の御前で直接対決することになるが、口下手な直実は上手く答弁することが出来ず、梶原景時が直光に加担していると憤慨して出家してしまった(『吾妻鏡』)・・・

そうすると、時代背景は頼朝の時代の前後で、私市党の勢力地域は、熊谷の一部にまで及んでいたことが分かります。

野与党について
私市党の本拠に近接して、野与庄があります。この野与庄を本拠にして、平安時代末期に勢力を張った野与党があります。
坂東平氏の祖・平良文の孫将常は、武蔵国秩父を本拠地に武士団秩父党を形成していましたが、平将常の弟忠常は房総半島一帯の実力者となって、のちに長元の乱(1028)を起こします。これを鎮圧したのが源義家の祖父・源頼信で、忠常の死後、投降した嫡子・平常将以降は代々源氏の郎党となったようです。後の鎌倉時代の千葉氏一族がその子孫です。
そして、常将の弟・胤永の子孫が関東の武士団武蔵七党のうち村山党と野与党という武士団を形成していきます。
胤永の孫・基永は武蔵国埼玉郡野与庄(現加須市)を領して野与基永と名乗り、基永の弟・頼任が武蔵国多摩郡村山郷(現東村山市)を領して村山頼任を名乗り、それぞれが分立して武士団を形成していきます。これが野与党の発祥です。
野与党からは武蔵国騎西荘多賀谷郷(騎西町)を発祥地とした多賀谷氏が出て、ほか野与党には西脇・多名・鬼窪・白岡・渋江・菅間・道智・大蔵・箕勾・大相模・利生・柏崎・須久毛・八条・金重・野崎・高柳などがあります。
これらの地名は、ほとんど現代に名を残しています。規模を見ると、どうも”大字”か”字”を冠にする地域の規模のようです。この規模から、逆にこれらの支族の規模を想定すると、大家族制とはいえ、一家族三世代で、郎党を加えると20人から30人ぐらいの規模が想定されます。その支族を、50前後従えていたのが、野与党であったようです。従って、女子供を除く四割ぐらいが武力として数えられるとして野与党の兵力は500人ぐらい。板東平氏の祖・平良文の拠点と重なっている事は、良文の末裔を証拠立てる傍証かも知れません。
私市党は、ほぼ20ぐらいの支族で兵力は200人ぐらいと言われています。
横山党、児玉党、猪俣党は、野与党や村山党より大勢力であったと言われています。

・・・ 「西角井系図」には、畠山氏・葛西氏らの祖とされる将常の妻として、武蔵武芝(武蔵国造系)の娘を、その兄弟として武宗(野与二郎)をあげています。さらに、この武宗の娘が、忠頼の子孫の元宗(父は胤宗とされる)なる者の妻となり、基永(野与党の祖)、頼任(村山党の祖)兄弟を産んだとしています。従って、野与党は本来、武蔵国造に連なる系譜を持つ氏族であって、後に、多治経明を祖とする秩父党のうち、特に忠常の系譜に何らかの形で連なった可能性がある ・・・

「西角井系図」というのは、大宮氷川神社の宮司・西角井家に伝わる家系図です。江戸時代に造られた武家の家系図は仮冒(経歴詐称)が多く信頼性に問題がありますが、この西角井家の家系図は、信頼性が高いことが証明されています。
この家系図によると、畠山忠重は平良文の一族であり、坂東平家の家系が、大宮氷川神社の宮司並びにその係累の武芝一族と婚姻関係があり、その一族から野与党が生まれたことになっています。
 ・・ 武芝の一族に、野与二郎と名乗ったものがいることが確認されています。 

私市党と野与党は、時代的には重なる部分はあるが、抗争の歴史は見いだすことができない。恐らく、私市党は、城跡と地名を残したぐらいで鎌倉時代に戦乱で没落し、その跡地へ、勢力を膨張させた野与党が変わって侵入したものと、時系列的に理解してよいのではないかと思っている。騎西町の各地に残る”板碑”の記名は、ほぼ野与党に関連したものと解読されている。

野与党と久伊豆神社

各地の久伊豆神社

 

 

 

久伊豆神社は、どうも野与党の氏神のようです。はっきりと氏神としている久伊豆神社は以下の通りですが、他の久伊豆神社の近くは野与党の支族の拠点が多くあります。
○東方久伊豆神社 ・・・越谷市大成町にある久伊豆神社。当地近くには武蔵七党野与党の一族・大相模次郎能高(延久元年 1069年歿)の居館跡があり、久伊豆神社は野与党の氏神といわれる。
○蒲生久伊豆神社 ・・・越谷市蒲生にある久伊豆神社。当地近くには武蔵七党野与党の一族大相模次郎能高(延久元年 1069年歿)の居館跡があり、久伊豆神社は野与党の氏神といわれる。
○篠津久伊豆神社(浅間神社、白岡) ・・・北鬼窪氏(野与党)の館跡。


この様に見て見ると、元荒川沿いに、野与党の勢力分布と重なって久伊豆神社があります。一部の書にあるような、私市党と久伊豆神社の関係は見えてきません。

元荒川流域に散在するほとんどの久伊豆神社は、一部を除き、今となっては、村社、郷社の位置づけで、野与党の氏神であることは確認出来ません。しかし、この神社が野与党の氏神でなかったと否定することも出来ません。この場合、もともと野与党の氏神の久伊豆神社であったが、長い歴史が野与党の存在を薄くしていったと考えるのが合理的であると考えます。

続き ・・次は、獅子頭について


フウセンカズラ

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夏のつる花  ・・風船葛 フウセンカズラ

 

つる性の一年草でフェンスなどにつるを絡ませながら、ぐんぐん伸びるフウセンカズラ(風船蔓)。
夏になる花を咲かせるが、花よりもその後にできる風船のような実がユニークなのだが ・・・

しかし、残念ながら ・・・ 実が見つからず ・・・

その実はホオズキのように空洞になっていて、中に3粒の種ができる筈 、

種には着生していた跡が残るのだが、その跡というのがハート型らしい。

黒い種に、白いハートの模様。なんとも、ロマンティックな花。


○恋文に 夢の種なる ハートピー   ・・庄


夏の公園にて ・・



久伊豆神社  ・・獅子頭について

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久伊豆神社  ・・獅子頭について


承前 玉敷神社

元荒川沿いの久伊豆神社の分布の領域には、獅子頭の伝承が数多く残っています。獅子頭の伝承自体は、珍しいものでは無く、全国各地に残っていて、さらに江戸時代からは、その発展形の”獅子舞”が、正月の風物詩として発展したようです。しかし、この元荒川地区に残る”獅子頭”の伝承は、地域集中して異常な多さで、伝承を継続させています。

獅子頭は古くから「厄(悪いもの)を食べ、幸せを招く」という言い伝えです。

獅子頭

騎西町・玉敷神社
ご神宝の獅子頭を貸し出して地域の厄を祓う「お獅子様」の行事は有名である。
春・夏を中心に「お獅子さま〔おしっさま〕」という祓えの行事がある。これは玉敷神社の神宝である獅子頭をそれぞれの地区に迎え、五穀豊穣・家内安全を祈るというもので、その範囲は南・北埼玉郡・北葛飾郡・大里郡・北足立郡から群馬・茨城の一部に及ぶという。
 ・・・宮代町の場合 ・・・春から夏にかけて行われている厄除け・疫病除け・悪魔除けとして、悪例を病気の災いを追い払う呪力があると信じられている獅子頭を捧持し、村落内の各家や村境を廻り災いを取り除く行事があります。これは一般的に「オシシサマ」「シシマツリ」などと呼ばれ、各地域によって様々な名称があります。昔は町内の十数ケ所でこの行事が行われていましたが、現在はお獅子様の村廻りは五ケ所の地区で行われ、各地区ごとにそれぞれ特色のある行事となっています。
 ・・・ 各地区のお獅子様
獅子頭はどこにあるの?
獅子頭は各地域で所有している場合と、特定の有名な神社から借用する場合があります。個人又は、各地域で管理しているのは、宿、西原、松の木島は集会所、東は個人宅、前原は宝生院でそれぞれ保管しています。


神社から借りてくるのは、姫宮神社から逆井、山崎、姫宮の各地域です。八河内は騎西町の玉敷神社から借りています。
 ・・・ 行事は、獅子頭と天狗面を騎西町玉敷神社から行事の当日に借りてきて稲荷神社のとなりの集会所から出発し家々を廻ります。各家の縁側から上がり、玄関から出ます。獅子は実際には木の箱に入っており目にすることはできませんが、この獅子を家主の頭の上で揺すりカラカラと音を立てます。そしてこの時、各家ではお札をいただきお賽銭を納めます。最後に、備中岐橋の上で天狗面をかぶっている人を胴揚げして厄を祓います。
・・・行事は、宝生院釈迦堂からムラ持ちの獅子を集会所に運ぶことから始まります。集会所でお祓いした後、子供獅子が出発し、次に大人獅子が出ます。10数年前までは宝生院釈迦堂から直接出発していました。
 ・・・ 獅子は玄関から入り、待っている家の主人をお祓いした後、主人は獅子頭を持って各部屋を廻りました。かつては家々で団子や赤飯や小麦饅頭をふるまったことから「ダンゴジシ」とも呼ばれています。この時出される団子を食べると流行病にかからないと言われています。又、太鼓を叩く音が「ダンゴ、ダンゴ」ときこえるところから、「ダンゴジシ」と呼ばれたとも伝えられています。
 ・・・ 最後に、この行事の大きな特徴でもある祓いの儀礼として村境である隼人堀川の猫島橋に集まり、天狗の持っていた御幣を投げ入れ全員で大声で叫びながら獅子頭の口が川面につくまで下ろし、厄を川に流します。そして獅子を引き上げ、手締めをして行事は終わります。 ・・・

獅子頭の行事は、「お獅子様」と呼ばれ、”おしっさま”、”おししさま”、”ししまつり”などの俗称が着いていたようです。
獅子頭の保管は、有名な神社や寺であったようで、大切に保管された様子です。
「お獅子様」の行事は、基本は”厄払い”で、あと五穀豊穣と家内安全の祈願が付与されていた模様が覗えます。
「お獅子様」の”厄払い”は、獅子が厄を食らうという行為でなされ、最後に厄を川へ流すことで浄化・終了となるようです。
従って、お獅子様の行事は、五穀豊穣の祈願の最も適時の、種植えと収穫の前と言うことになります。あと雨乞いも当然入っています。
獅子舞の時期は、ほぼ4月中頃か7月(8月)中頃に集中しています。

獅子のこと ・・・
獅子は本来的には中国で成立した破邪の霊獣で,その起源が,より西方の猛獣であることはいうまでもない。獅子はやがて社殿を守護する獅子狛犬(狛犬)の彫刻ともなり,一方で楽舞用の伎頭となったのである。伎頭としての師子は多く木製で,現存最古例は正倉院の伎楽面中に見ることができる。眼をいからし,耳を立て,鼻孔を開いたすさまじい表情で,一材の頭部に別製の下顎と舌,耳を取り付け,それぞれが動くように工夫されている。
 ・・・世界大百科事典 第2版の解説

  

霊獣                               獏

 ・・・ 「日本獅子舞之由来」と題する巻物によると、・・・


 1245年3月節句の夜、宮中で御宴が催されたおり、一天にわかにかき曇って雷鳴とどろき、天地震動したかと思うと、ものすごい光り物が飛んで来て紫宸殿の庭へ落下した。参列していた客は大いに驚き恐れたが、よくよく見ると三つの動物の頭らしき物であった。  しかし、誰一人としてこれが何物であるか判らず、「かような物が宮中へ飛来するのは天下騒乱の前兆であろう。ただちに海へ捨ててしまえ」ということになったが、天皇の命令で石清水八幡に占ってもらったところ、「これぞ南天竺の洞ヶ岳に棲む獅子という動物の頭で、この獅子の頭が我が国へ飛来したことは希有の吉兆である。この三つの頭をかぶり舞うときは、日本国は永久に天下泰平であろう」とのことであった。
 そこで、下総国の角兵衛という舞の上手な者が弟の角内・角助と共に宮中に招かれ、獅子頭をかぶって勇ましい舞を演じた。というようなことが書かれており、全国的にも同様な説話となっている。 ・・・「高水山獅子舞の解説」より抜粋

次ぎに、元荒川沿いに残る”獅子頭の伝承”を拾ってみます。

○行田市・久伊豆神社
昔,洪水の時獅子頭が漂着し,獅子舞が始まった。
○行田市・御嶽神社
星川本流が大洪水の際,獅子頭三頭が御嶽神社に漂着し,獅子舞が始められた。
○行田市・治子神社,興徳寺
利根川の洪水があり,獅子頭が漂着,これを神前に奉納し,獅子舞を奏したのが始まり。
○加須市・大桑・雷電神社
旧家の門井家が雷電社に獅子舞を寄進したのが始まり。
○羽生市・桑崎・桑崎三神社
利根川決壌のとき,獅子頭一頭が流れ着いたのが始まり。
○越谷市・下間久里・下間久里香取神社
悪疫退散,五穀豊穣のため京都から伝わる。千葉県野田市清水では下間久里の獅子舞が元禄六年(1693)に伝わったことが記録されている。また,春日部市銚子口,赤沼,庄和町中野にも伝来を伝える文書が残っている。
○久喜市・除堀・久伊豆神社,諏訪神社,七社神社,不動寺
江川浮会地に男獅子が浮かび上がり,村人が医王院に奉安し,雨乞いの祈願に舞ったのが始まり。
○久喜市・古久喜・太田神社
大水で獅子が青毛堀に流れ着いたのを拾い上げてはじめられた。
○三郷市・幸房,岩野木・幸房富足神社,福富神社
大水害の時に獅子頭三個と猿の面一個が流れ着いたのがきっかけ。
○三郷市・戸ヶ崎・浅間神社,戸ヶ崎鳥取神社
角兵衛の末孫を召して獅子舞を奉納したところ凶事が去りそれ以降村人が獅子舞を奉納するようになった。
○宮代町・東粂原・鷲宮神社
利根川が氾濫し,作物がとれず疫病が流行したときに杉戸から伝習して奉納したのが始まり。
○菖蒲町・小林・小林神社
出水の折り,獅子頭が三つ流れ着き土地のものが拾い上げて,はじめた。
○菖蒲町・三箇上辻・三箇神社
出水の折り,獅子頭が流れ着き土地のものが拾い上げて,金山神社にまつった。
○松伏町・松伏・松伏神社
疫病悪魔除けに舞ったのが始まり。
○庄和町・中野・中野香取神社
神社に神木の夜な夜な怪物が飛来したため,危難消除の獅子舞を奉納した。
○庄和町・西金野井馬場・香取神社
神前に三体の竜神の面が降りたのが起源とも,江戸川に流れ着いた面を用いて早魃の時に舞ったら雨に恵まれたのが始まりとも伝えられる。

まだ、他にもあるとは思いますが、かなり似通った伝承です。川は、元荒川に限らず、古利根川流域(今の中川)にも広がっています。
神社は、久伊豆神社だけではなく、様々です。
面白いのは、文化の伝承や同質性は、距離感ではなく、”川の流域”で担保されていると言うことです。本当に流れてきたのかどうかは、定かではありませんが、荒川の上流は秩父であり、獅子頭のモチーフの霊獣が、中国や中近東の産物であり、獅子舞がインドに源流が見えることから、渡来人の文化が秩父から流れてきたのかも知れません。

”獅子頭”の伝承に、野与党や私市党が関わっている痕跡は見つけられませんでした。ですが、野与党の祖先が出雲族であり、朝鮮半島からの渡来人であるのなら、この”霊獣"のことは知っていたのかも知れません。

獅子舞

正月の獅子舞の流行
 ・・・ 獅子頭を頭にかぶって舞う伝統芸能・獅子舞は、日本各地の正月行事や晴れの日に舞われ、幸せを招くと共に厄病退治や悪魔払いとして伝えられてます。
獅子に頭をかまれると、その年は無病息災で元気で過ごせるという言い伝えがあります。
獅子舞は大自然の霊力を我々に授けてくれる不思議な芸能です。
モチーフといわれているライオンは日本列島には生息しておらず、アフリカ大陸やインド、紀元前にはヨーロッパにもいたようです。その中でもインドが獅子舞の起源といわれていますが、もしかするとエジプトやペルシャ文明まで遡れるかもしれません。
日本列島に生きる民たちは、縄文の猪送り、アイヌの熊送り、東北の鹿踊り<シシオドリ>等のように、動物を大自然の神として敬う精神文化を既に持ち、さらにお祓いの人生観とも結びついて、外来の獅子舞を日本独特なスタイルに熟成させました。
インドから東南アジア〜沖縄と海を渡って伝えられた獅子舞もあり、日本各地に多種多様な獅子舞が見られるのはそのためです。 
江戸時代には伊勢地方の獅子舞が発展し、遠方の村々を回るようになり、次第に芸能的要素が加わりました。 ・・・

久伊豆神社  ・・獅子頭と神楽殿について

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久伊豆神社  ・・獅子頭と神楽殿について


承前 玉敷神社

玉敷神社・萱葺きの神楽殿

久伊豆神社に限らず、そこそこ神社は神楽殿を備えています。

では、神楽殿とは一体なんでしょうか。文字どうり、神楽を奉納する場所の意味であることは、文字からも疑う余地のないところのようです。楽の文字から、楽器の演奏・伴奏を必要として、舞(この場合踊りではないようです)を奉じるようです。

発祥は ・・・

戸隠神社・神楽絵


古事記・日本書紀の岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされる。アメノウズメの子孫とされる猿女君が宮中で鎮魂の儀に関わるため、本来神楽は招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びだった、というのが最初であったとされます。
「神懸り」するために、人間から離れて、面が必要だのかも知れません。

神楽を調べると、御神楽と里神楽が出てきます。
御神楽は、宮中行事で、謂われは多そうですが、ここは他者に任せます。

里神楽は ・・・
○巫女神楽(神懸かり系・早乙女系)

巫女神楽


巫女が舞う神楽。本来は神懸かりのための舞の様式化で、祈祷や奉納の舞。


○採物神楽(出雲流神楽)

採物神楽


出雲国・佐陀大社の御座替神事が源流。この神事は御座を清めるための採物舞と神話や神社縁起を劇化した神能などから成り、演劇性・娯楽性の神楽が全国へ広がった。


○湯立神楽(伊勢流神楽)

    

湯立て神楽           霜月神楽


湯立と神楽が結びつく。伊勢外宮の摂末社の神楽役たちが行ったものが各地へ広まったとされる。霜月神楽、花祭とも。釜で湯を沸かし、巫女などが自身や周囲の人にその湯をかけて清める「湯立」に、採物または着面の神楽が加わる。


○獅子神楽

山伏神楽


獅子舞の一種。風流系とは異なり、獅子頭を神体として各地を巡って祈祷やお払いを行う。東北地方の山伏神楽と、伊勢などの*太神楽がある。

*太神楽 ・・・
太神楽曲芸『傘の曲』 ・・・伊勢神宮や熱田神宮の神人が各地を巡って神札を配り、竃祓いや村の辻での悪魔祓いとして行った神楽。大神楽・代神楽とも。獅子舞と曲芸から成る。伊勢太神楽の獅子舞は回檀先の多くの村々に移入され、伊勢太神楽系の獅子舞と呼ばれる。熱田派は江戸開府の際に本拠地を江戸に移した。余興だった曲芸は舞台芸としての太神楽に発展、江戸太神楽や水戸大神楽となった。江戸末期からの寄席では神楽よりも演芸色の強い曲芸の方が多く演じられた。寄席での神楽は落語、講談とは違い色物とされることが多く太神楽曲芸と言う。 ・・・ 正月の神楽は演芸化して行ったのはこの系統。獅子舞はその代表。

*能神楽

能神楽

能や薪能も、出発は神楽の一種であったようです。

次第に、面や舞が精錬されていき芸術的な領域まで達したようです。

能の美術性・芸術性に拘ると、白洲正子の世界になります。

参考:南部領辻の獅子舞 ・・・由緒(鷲神社)
・・・ 「この獅子舞は、八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光が奥州へ兄を助けに向かう途中、兵士の士気を鼓舞するために舞ったものを、土地の人達が習って伝えたものといわれています。
いわゆる『三頭一人立ち』の獅子舞で、毎年五月と十月に鷲神社に奉納されるほか、五月の奉納後には地域を回り、氏子の庭先でも舞われます。
地域の『厄払い』のために舞われるという本来の姿をよく伝える獅子舞で、太夫(大獅子)を中心にした三頭の獅子が勇壮に舞います」 ・・・

獅子舞を、上の例から読み解くと、神社で奉納する「獅子舞」は、神社の由来で”招魂”の意味のようです。舞台のある神社では、当然舞台で舞ったと思われます。この舞台のことを、神に奉納することから”神楽殿”と呼んだと思われます。あるいは、五月の「田植え」の時期、十月の「収穫」の時期を思い起こせば、五穀豊穣の祈願と感謝が込められていたのは、疑いの余地は少ないと思えます。
併せて、地域内の氏子の家を回り、玄関や庭先で舞うのは、「厄払い」です。
恐らく、この地区から、新羅三郎義光の家臣が奥州へ出征したのではないかと読み取れます。源義光は、新羅三郎といって新羅系の渡来人の系譜で、新羅系の渡来人が、政府に組み入れられる時、”武”の方面を受け持ったのではないかと思えます。源氏は、新羅系の渡来人が祖である、といっているようなものです。

獅子舞や獅子頭の内容 ・・・
獅子舞の道具の内容も記載されています。
天狗(面)、お守り持ち、笛x2、ささらx2、太夫、中獅子、女獅子の衣装と道具。この道具の数から推測すると、獅子舞には9人を必要とするようです。そして、音の出る道具が用意されていることから、かなり賑やかな舞であったようです。
*ささら ・・天狗が獅子を起こす時に使う”ささら”で、竹製のものと赤樫製のもので1対です。これを擦り合わせるようにして音を出します。

これで、獅子神楽のことは、朧気ながら分かってきました。
勝手な解釈ながら、元荒川と古利根の流域は、昔氾濫の頻発地帯です。時には日本の大河が洪水して、合流して流域全体を埋め尽くしてしまうことも多かったと訊きます。こうゆう所は、人知が及ぶべくも無く、神頼み、信仰が深くなるそうです。 ・・・「人知が及ぶべくもなく」と嘆いた洪水は、それから何百年か後に、利根川を東に流れを変えさせ、荒川を西に流れさせて、関東平野から洪水を、ほぼ無くした男がいました。伊奈熊蔵忠次です。その業績を思い、改めて利根川や荒川を見ると、ただただ感嘆の思いがこみ上げてきます。
そこで発生したのが、荒ぶる自然の鎮魂の信仰で、五穀豊穣と表裏一体です。
この信仰の流れの上に、神楽を眺めると、神楽が”陽気”であるだけに余計納得出来ます。

飯田線 慕情 1  ・飯田線はどうなる?

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飯田線 慕情 1  飯田線はどうなる?

JR・飯田駅

最近、リニアの記事が目に付くようになり、それと平行して飯田線の記事も見かけるようになりました。個人的には、懐かしい限りですが、リニアモーターカーが新設されて、飯田の街の付近にリニアの駅が出来たら、飯田線はどうなるのだろうと、いささか気になります。
そう思うのは、自分の生まれ故郷の鉄道であるとともに、高校生時代に通学に遣っていた鉄道という思い入れもあるからだと思います。通学の電車と言うのは、正確ではありません。自分の通学は、基本は自転車で、自宅から30〜40分かけて通学したのが8割ぐらい、高校手前の、御殿山?の坂が急で、半分は息切れして、手押しで登ったことが、懐かしい記憶で残っています。雨や雪の日、主に冬に、残りの2割の通学に、電車を遣いました。
最寄りの駅は毛賀駅で、高校がある駅は上郷駅、これが自分の電車通学のルート。当時は、確か切符を売る小屋があって、回収もしていた記憶がある。今は当然、両方とも無人駅。

最近鉄道は、高速化・新幹線化で、在来線は新幹線に客を奪われて赤字路線化しているようです。赤字の在来線は、代替輸送をバスに託して廃線化していると言われます。

そもそも、飯田線の存続は大丈夫だったのでしょうか。
リニア駅が出来て、飯田線が乗客輸送に使われることが確定したので、存続は担保されたようですが ・・・

ここからは、元JR東海の社員だった知り合いの話を、思い起こしながら書いてみます。記憶が遠い場合、正確ではないかも知れません。ご容赦を ・・・

飯田線の列車の絵

飯田線は基本的には赤字路線だそうです。
基本的には、・・・という表現は、なにやら曖昧ですが、乗降客は、飯田駅と伊那市駅を中心として、朝晩の通学通勤の時間帯に限り、本来の乗客の輸送の役目を果たし、その他の時間帯は極度に閑散として、天竜峡以南の静岡・愛知の県境地帯までは、通学時間帯ですら閑散としています。この為、廃線の危機は度々訪れて、「ワンマンバス」ならぬ「ワンマン列車」を生み出し、飯田線のほとんどの駅が、無人駅になりました。人件費などの徹底した削減です。
通学の時間帯だけ、駅は、高校生で溢れます。そして、高校が集まるところまで、高校生を運びます。でも、一般客の姿は、ほとんど見受けられません。交通手段として、飯田線は異常に遅過ぎます。隣接の駅間は、山手線並み。かつ蛇行やトンネルや急勾配が多く、スピード化に対応していません。高速道が出来、高速バスが走ると、遠距離移動は、みな高速バスに頼るようになりました。 ・・・勿論、高校生の時代には、それが普通と思っていましたが ・・・

辰野駅

この飯田線は、最南端部が、豊橋・本長篠になります。この区間は、前述で述べた様相と一変します。特に豊橋・豊川間は、複々線化がなされていて、名古屋へのベッドタウンとして、人口急増の地帯のようです。複々線は、名鉄も乗り入れ、ここの区間は完全に黒字の路線です。ちなみに、豊橋は愛知県人口三番都市で36万人、一宮市に平成の大合併で二位の座を譲りましたが、、尾西市が一宮市に併合したためで、愛知県民は、豊橋を名古屋の次の市と認識しているようです。ついでに四位は岡崎。豊川は人口17万人。

JR・豊橋駅

JR東海元社員は、口癖のように、”豊橋・豊川間の黒字で、飯田線は持っているんだ”といっています。JR東海自体が、余裕のある企業なのかも知れません。しかし、現実は「モラトリアム」の期間と言うだけなのかも知れませんが ・・・

リニアの路線発表の時、JR東海は、駅名の発表はしなかったが、リニアと飯田線の連結を公言しました。これで、基本的には赤字の飯田線の存続は、かろうじて担保されたようです。

飯田線 慕情 2  飯田線の概容と歴史

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飯田線 慕情 2  飯田線の概容と歴史

飯田線は、豊橋駅と辰野駅を結ぶJR東海の鉄道路線(地方交通線)。

山間を走る飯田線

概容 ・・・
全線開通の開業は1937年。
ダム建設輸送・戦時国有化・国鉄分割民営化と、折々の時代の要請の中で愛知県、静岡県、長野県に跨る険しい山岳地帯を貫き全通を果たし、現在も東三河・天竜・中南信の都市農山村を結ぶ路線。
上諏訪駅から豊橋駅まで各駅停車で直通する列車もあり、辰野駅から豊橋駅までは約六時間かかるが、一度も乗り換えることなく行くことができる。
旧形国電の宝庫として鉄道ファンの注目を集めたが、現在でも天竜川の険しい渓谷を縫うように走る車窓風景や、小和田駅や田本駅などのいわゆる秘境駅の存在から、鉄道ファンや旅行者に人気のある路線である。
もともと四社の私鉄路線(豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道)を戦時国有化・統合したことで成立した路線であり、駅は開通時の沿線集落ごとに設けられている。
駅間距離がとても短いのが特徴で、全長195.7km中に起終点を含めて実に94の駅がある。それらの平均駅間距離は約2.1kmと大都市の市街地路線並みであり、また速度は低く、急カーブや急勾配も多く見られる。
中でも赤木駅 - 沢渡駅間の勾配は40°で、現在ではJR最急勾配である。

中央構造線のもろい地層と、天竜川峡谷の断崖絶壁に阻まれて工事は難航。
コスト削減のため、実際の土木工事は、ほとんど朝鮮半島から来た人々が担った。
それでも会社の資金繰りは悪く、朝鮮人の労働者は労働争議に訴えてようやく不払いの賃金を一部だけ獲得するというありさまであり、もろい地層の工事にもかかわらず保安設備は劣悪で犠牲者が続出、恐れをなした朝鮮人労働者が現場から逃げ出し、近隣の農村に駆け込む事態も起こった。
1931年からとうとう工事は中断したが、三菱銀行などから多額の融資が得られ、この工事に生命をかけた飛島組の熊谷三太郎が工費を自分で立て替える熱意とあいまって、工事は再開された。
このような紆余曲折と日本鉄道史に残る凄惨な工事の末、最後の大嵐駅 - 小和田駅間の開業でこの区間が全通したのは1937年である(当初より電化)。


熊谷三太郎と川村カ子ト  ・・・飯田線敷設で、忘れてはならない人

熊谷三太郎

熊谷三太郎

飯田線の敷設工事を語る時、熊谷三太郎は欠かせません。
明治に、福井で生まれた熊谷三太郎は、京都・宿布発電所の土木工事を請け負い完成させると、水力発電所や鉄道敷設工事に携わり、後に同業の飛鳥組の飛鳥文吉の高い理想に共鳴して飛鳥組に入る。飯田線敷設工事は、三太郎が飛鳥組の部長の時であった。この工事は、地盤が悪く、峡谷の断崖絶壁と言うこともあって、難航を重ねた。時には、途中で資金が途絶えることもあったが、自分で工費を立て替えるという熱意で銀行から融資を得て、漸く成功する。この飯田線の難工事の成功は、三太郎を、飛鳥組から独立させ、難工事で培った技術は三太郎の会社を飛躍的に大きくさせていった。今も土木に強い”熊谷組”である。
熊谷三太郎は、その後社長を”大三郎"に譲り、自らは参議院議員になったという。
熊谷組の社史をみると、飯田線敷設工事に熊谷三太郎が関わった記述があるが、その文字は一行に満たない。世界に飛び出している熊谷組という建設・土木会社が、繁栄の出発点となった飯田線敷設工事がこの扱いである。これには、飯田線完成という輝かしい業績の裏に負の遺産を抱えており、熊谷組が、この負の遺産に触れたくないのだと穿った見方も出来る。

平岡ダム

*負の遺産:参考(先輩のブログです) ・・ 南信州を行く?・・・平岡ダム・・・負の歴史

 

水力発電所・平岡ダムなどと飯田線の敷設は関係が深いと言われています。この両方の工事に朝鮮労働者が従事していたことは事実認定されています。熊谷三太郎と朝鮮労働者との関係を示す資料もあるそうです。

 

川村カ子ト(かねと)

川村か子と

明治二十六年(1893) - 昭和五十二年(1977)。旭川市永山に生まれる。
上川アイヌの長で、旧国鉄の測量技手。
国鉄退職後はアイヌ記念館館長、旭川アイヌ民族史跡保存会長、旭川アイヌ民族工芸会長などを務めた。
小学校卒業後、鉄道測量隊の手伝いをするなかで測量を学び、測量技手試験に合格し、鉄道員札幌講習所を卒業後、北海道各地の線路工事の測量に携わる。
三信鉄道(飯田線の元)に請われ、難しすぎて引き受け手の無かった天竜峡〜三河川合間の測量をアイヌ測量隊をひきいて敢行。現場監督も務めて難工事を完成させた。
急峻な山岳地帯を通過するルートで、非常な難工事であったが、アイヌ出身の測量士で山地での測量技術に長けた川村カ子ト等が招聘されて建設にあたり、ようやく完成した。
三信鉄道開通後は、樺太や朝鮮半島での測量にも従事するが、1944年(昭和19年)日本へ戻る。戦後は、視力の衰えで測量の仕事を離れ、川村カ子トアイヌ記念館の館長を務めた。昭和35年(1960)には、三信鉄道における貢献を縁として、信州に招かれている。

飯田線 慕情 3  飯田線 秘境の駅

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飯田線 慕情  飯田線 秘境の駅

天竜川の渓谷 1


天竜川の渓谷 2

天竜川の渓谷 3

天竜川の渓谷 4

 

飯田線が走っている路線の車窓を眺めて、辰野から豊橋までを見ると、最初は長閑な田園風景が延々と続く。これが、天竜峡を過ぎる辺りから、車窓の風景は一変してくる。天竜川が流れる両脇は、深い渓谷を見せ始める。電車は、その渓谷にへばりつくように線路を張っている。電車は、トンネルに次ぐトンネルを潜り、川はダム湖に変わり、幾つもの水力発電のダムの脇を通過する。そして最後に、かって東洋一と言われた佐久間ダムを過ぎると、山容は丸みを帯び高度を低くする。飯田線は、佐久間ダム辺りで、赤石山系と天竜川を離れたのだ。そして、三河高原に入り、長篠辺りから平地が多くなっていく。
この天竜峡から佐久間ダムのある水窪辺りまでが、過疎地帯で限界集落を形成しているのだろう。この過疎地帯が、飯田線の秘境と言われる駅を出現させているのだ。
人が住むことを拒む地域は、秘境駅と呼ばれ郷愁を誘うらしい。

天竜峡

伊那から飯田まで周囲が開けた部分を流れてきた天竜川は天竜峡に至ってぐっと川幅が狭まり渓谷状になる。周囲に岸壁が連なり、有名な天竜船下りで知られる観光地になる。
天竜峡一帯は領家変成帯に属していて、領家帯には主に花崗岩や高温低圧型の変成岩や片麻岩などが分布している。天竜峡には主に花崗岩が露出していて、ここの花崗岩は「天竜峡花崗岩」と呼ばれ、特徴としては、鉱物に一定の配列が見られることや、捕獲岩(ゼノリス)が多いことである。
 ・・・ 地質学の専門家でないので詳しくは分からないが、上流は谷を削って、教科書にも載る有名な河岸段丘を生成しているのに対し、ここから下流は、この岩壁を削ることができないのだ。ここからは、顕かに地質の変化が見られるようだ。
記憶に絶対の自信はないが、天竜峡から上流部の方が、土砂崩れ・土石流の災害は多いような気がする。下流部の方は、山道に落石の情報はあるが、土砂崩れの情報は意外と少ない。

秘境駅の路線図

 

飯田線・秘境六駅

小和田駅中井侍駅

為栗駅田本駅

金野駅千代駅

 

  

○JR飯田線・小和田駅・三県県境



○JR飯田線・中井侍駅・茶畑


○JR飯田線・為栗駅



○JR飯田線・田本駅・ホームへ急勾配

 

 

○JR飯田線・金野駅



○JR飯田線・千代駅



牛山隆信の秘境駅の五つの要素 ・・・
*秘境度 - 周囲が断崖絶壁、深い山林、荒涼とした原野にあり、人家が無い。
*雰囲気 - 駅舎、待合室、周囲の建造物などに古い歴史を感じさせる。
*列車到達難易度 - 列車の停車が極めて少なく、当該秘境駅に到達するのが困難である。
*車到達難易度 - 駅までの道が無い、次いで歩道のみ、未舗装の林道など、自動車やオートバイでの当該秘境駅訪問が困難。
 ・・・牛山隆信 秘境駅の写真家

駅名の読み方

天竜峡;てんりゆうきよう →
千代;ちよ →
金野;きんの →
唐笠;からかさ →
門島;かどしま →
田本;たもと →
温田;ぬくた →
為栗;してぐり →
平岡;ひらおか →
鶯巣;うぐす →
伊那小沢;いなこざわ →
中井侍;なかいさむらい →
小和田;こわだ →
大嵐;おおぞれ →
水窪;みさくぼ →

峡谷を走る飯田線の駅名です。全部正解で読めた人はいるのでしょうか?
特に、金野;為栗;鶯巣;大嵐;は正解率が低そうです。

小和田を挟んだ、長野、静岡、愛知の三県の県境は、冬場の火祭り、霜月神楽の地でもあります。古代の祭礼の原型とも言われる神への奉納の舞は、神秘的であるとともに心に響くものを持っています。

霜月神楽・遠山

ちなみに、小和田は静岡県の駅で、浜松市になります。

飯田線 慕情 4 信濃毎日新聞より

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飯田線 慕情 4 信濃毎日新聞より

信濃毎日新聞

「JR東海、リニア工事認可申請 アセス評価書最終版も提出」 08月27日(水)

[写真・省略] ・・国交省の担当者にリニア中央新幹線の工事実施計画を提出するJR東海の宇野護・中央新幹線推進本部長(左)=26日、東京・霞が関 
JR東海は26日、リニア中央新幹線の東京(品川)―名古屋間について、工事実施計画を国土交通省に提出、工事の認可を申請した。太田昭宏国土交通相の意見を受けて補正した長野県を含む沿線1都6県の環境影響評価(アセスメント)書の最終版も提出。アセス手続きは、29日から1カ月間実施する公告・縦覧を残して終了した。太田国交相が認可すれば、JRは10月にも2027年の同区間の完成に向けて事業着手する。

 実施計画では、JR東海が負担する同区間の総工事費が従来の説明より935億円増えて5兆5235億円になるとの見通しを示した。高性能設備の導入や人件費の上昇などを理由に挙げた。

 長野県が知事意見で求めていた作業用トンネル坑口(非常口)の削減は、木曽郡南木曽町や下伊那郡大鹿村は当初計画から変更されなかった。同村の小渋川に架かる橋の地中化、市町村などとの環境保全に関する協定の締結も評価書の最終版には盛られなかった。

 長野県分の評価書には、トンネル掘削による発生土の活用先の候補地情報を追加で記載した。知事意見を踏まえて調査した絶滅危惧種「ミゾゴイ」の調査では大鹿村で鳴き声を確認。同じく「ブッポウソウ」は、工事車両が通る上伊那郡中川村でつがい3組の繁殖行動などが見られたとし、JR東海は「必要に応じて環境保全を検討する」とした。

 JR東海は26日に長野市で開いた記者会見で、大鹿村のトンネル掘削で出る残土の運搬経路となる県道松川インター大鹿線について「改良にかかる費用を負担する考えはある」と説明。同様に他の狭い道路を運搬経路にする場合も「必要に応じて改良しなければならない」とし、一定額の費用を工事実施計画に見積もっている―とした。

 JR東海の宇野護(まもる)・中央新幹線推進本部長が国交省鉄道局を訪問。江口秀二・施設課長に対し、7月の国交相意見を踏まえて補正した評価書などの書類を提出した。その後、都内で記者会見したJR東海の金子慎(しん)・副社長は、評価書について「関係部門が総力を挙げて充実した内容に仕上げた。記載した内容に基づき(工事などを)しっかり進めていく」と説明。「認可をいただき次第、安全面、環境面に十分配慮して工事を進めていきたい」と述べた。

 JR東海は工事認可申請を2回に分けて行う予定で、今回はトンネルや橋、駅など土木構造物を中心に申請、工事費は4兆158億円とした。電気設備や車両などは別途、認可申請する。

 ・・・ 2027年完成に向けて リニア中央新幹線の敷設工事は着実に動き始めているようです。しかし、全容については、まだ詳しく分かりません。

次回は、リニア中央新幹線とは ・・・ を見極めてみたいと思います。


飯田線 慕情 5  リニア中央新幹線

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飯田線 慕情 5  リニア中央新幹線

リニアモーターカー(=略・リニア)とは

写真・リニアモーターカー

時速500Km以上の超高速・超電導磁気浮上式の新幹線
高速輸送を目的としているため、直線的なルートで、最高設計速度505km/hの高速走行が可能な超電導磁気浮上式リニアモーターカー「超電導リニア」により建設される。
首都圏 - 中京圏間の2027年の先行開業を目指して計画中。
東京 - 名古屋間を最速で40分で結ぶ予定。
東京 - 大阪の全線開業は2045年のも延長計画あり。
東京 - 大阪間を最速67分で結ぶと試算されている。
「リニア中央新幹線」や「中央リニア新幹線」、さらに「リニア中央エクスプレス」、「中央リニアエクスプレス」と呼ばれることもある。単に「中央リニア」「リニア」と略されることもある。
国による整備計画や建設・営業主体のJR東海は「中央新幹線」と称している。

ルート



東京から名古屋まで40分、大阪まで約一時間強の運行スピードを計画し、さらに超電導磁気浮上式のため、ほぼ直線のルートが採用された。
区間の駅は、一県一駅を原則に据えて選考されたが、一番難航だったのが長野県の駅で、結局原則に沿った形で決定されたようだ。
 ・・・ Cルート上の飯田市は一時、飯田駅へのリニア駅併設を要望していた。しかし、JR側は用地買収の問題などから併設は困難とし、当初北隣の高森町内に駅を設置する案を提示していた。これに加えて、地元の要望を受けて同町と接する飯田市座光寺地区への設置という折衷的な案等、複数の案を長野県側に提示した。それを受け飯田市はJR案を受け入れ、長野県内のリニア駅は飯田市座光寺地区に作ることで決着した。東京都 - 愛知県の区間で唯一ルートと駅の案が発表されていなかった長野県でも、2011年8月5日にJR東海から発表され、駅予定地は飯田駅付近ではなく、飯田市座光寺地区と高森町を含む「天竜川右岸平地」とされた。その後の報道では、座光寺地区には遺跡群があることから、ルートを遺跡群の南側に変更したため、元善光寺駅南西1kmの飯田市座光寺・上郷飯沼地区に設置されると報道されており、飯田線の伊那上郷駅 - 元善光寺駅間に新駅を設置することも検討される ・・・

○東京(始発駅)
品川駅に方針が固まった。このことで、東北・上越・長野(北陸)新幹線からの接続の悪さが指摘されている。その後JR東海が進める案では、品川駅付近に南北方向で設置することが発表された。
○神奈川県
橋本駅(緑区)南口に隣接する神奈川県立相原高等学校を西約3キロの位置にある職業能力開発総合大学校移転後のキャンパス跡地に移転させ、相原高等学校跡地に駅を建設することが予定されている。また緑区鳥屋付近に車両基地を建設することも発表された。
○山梨県
甲府市の大津町周辺とする方針を固めたとされる。2013年にJR東海が明らかにした計画では、山梨県の駅としては甲府市大津町付近とされた。
○長野県
元善光寺駅南西1kmの飯田市座光寺・上郷飯沼地区に設置されると報道されており、飯田線の伊那上郷駅 - 元善光寺駅間に新駅を設置することも検討される。
○岐阜県
2013年にJR東海が明らかにした計画では、岐阜県の駅としては美乃坂本駅に近い中津川市千旦林付近とされた。
○愛知県
JR東海は、将来の関西圏への延伸まで一部の乗客が行う既存新幹線との相互乗り換えに配慮し名古屋駅新幹線ホーム直下の大深度に新駅を建設した場合に乗り換えに掛かる移動時間が3分から9分であると試算報告し、既存の名古屋駅を拡張する計画である。その後JR東海が進める案では、名古屋駅直下に東西方向で「ターミナル駅」を設置することが発表された。

大阪延長


三重県 有力
奈良県 有力
 ・・・ 京都府・滋賀県は、ルート変更を要望。
 ・・・ 何れも検討中
大阪府
山陽・九州方面への乗り継ぎの利便性などから新大阪駅に乗り入れの意向がJR東海によって示されている。大阪府知事の要望は梅田駅だが、長距離旅客輸送の原則から逸脱しない可能性が高い。JR西日本との関係もある。

東京・飯田間25分:名古屋・飯田間15分
自分としては飯田に関心があるので、東京・飯田間の所要時間を推測する。飯田は、東京・名古屋間の、やや名古屋寄りにあるので、25分を予測する。逆行で、名古屋・飯田間は15分になる。


リニア中央新幹線敷設で考えられる懸念材料

代表的な懸念や批判・反対意見は以下のようなものである。

○大都市圏内の区間では大深度地下トンネル、南アルプス(赤石山脈)では直下に長大トンネルを掘削するなど、地下区間がほとんどであり、難工事が予想されるため、建設費が当初計画を大幅に超過する可能性もありえる。その場合、JR東海の経営を圧迫しないか。
○リニアの料金は、普通車指定席の場合、東京 - 新大阪間で1万5050円で、従来の「のぞみ」と比べてプラス1000円。同様に、東京 - 名古屋間ではプラス700円、名古屋 - 大阪間ではプラス400円を想定しているが、巨額の建設費が必要なリニア新幹線で、本当にこのような料金設定が実現可能なのか。
○今後の日本は、少子高齢化の影響による人口の減少が見込まれており、東海道新幹線の乗客数も近年はほぼ横ばい状態が続いている。また、現状の東海道新幹線は、格安航空会社や高速バスとの激しい競争に晒されており、近年では新東名高速道路も開通した。そのような中で、予測される程の需要はあるのか。
○南アルプス直下での長大トンネル建設は、トンネル開口部の崩落による景観破壊や、大量の排出土砂(残土)の処理、地下水脈の寸断などによる環境破壊を招くのではないか。
○糸魚川静岡構造線や中央構造線といった大断層を横切るルートであるため、大地震が発生した場合の地殻変動や土砂崩れによる危険性があるのではないか。
○2013年9月にJR東海が発表した環境影響評価(環境アセスメント)準備書 によれば、南アルプス直下でのトンネル建設に伴う地下水脈の寸断の影響で、大井川上流部の流量は毎秒約2トン減少すると予測されている。
 ・・・ これに対して、大井川流域の自治体や水利用団体などから懸念の声が相次いでいる。静岡県知事の川勝平太も、2013年12月9日に静岡県議会での答弁で「南アルプスの豊かな自然環境の保全にとってきわめて重要な懸念事項と捉えている」と発言した。この問題に対してJR東海は、地盤に履工コンクリートや防水シート、薬液注入などの対策で出水の抑制に努めるが、そうした効果は試算に反映していないと主張しており 、また、トンネル内に湧き出した水をくみ上げて大井川に戻すなどの対策案も示している。
○リニア新幹線は、大部分の区間が地下トンネルとなる計画であるため、トンネル工事では膨大な排出土砂(残土)が発生する。残土を運び出すための作業用道路建設や、トラックの排気ガス、残土処分場の確保・建設などの点で環境問題が発生する可能性があるのではないか。
○超電導リニアの乗客1人1km当たりの電力消費量は、既存の鉄輪式新幹線の約3倍とされている。
 ・・・ 2011年3月11日に発生した東日本大震災および福島第一原子力発電所事故後に電力供給事情が悪化し、政府のエネルギー政策の将来見通しも不透明な中で、電力を大量消費する交通機関であるリニア新幹線の建設は妥当なのか。「航空機に比べると超電導リニアのほうがエネルギー消費量や二酸化炭素排出量が少ない」という計画推進側の主張に対しては、航空機は旅客と一緒に貨物も搭載できるから、厳密な計算では航空機も超電導リニアもエネルギー消費量はほぼ同じではないかとの指摘もある。
 ・・・ 元国鉄技師の川端俊夫は、『朝日新聞』1989年8月24日付論壇で、リニア宮崎実験線の消費電力から計算し、「新幹線の40倍の電力消費」だとして電力浪費だと批判した。これに対して尾関雅則・鉄道総合技術研究所理事長(当時)が、同紙1989年9月4日付で、川端の計算はあくまでも瞬間最大消費電力の数字を元にしており、東京 - 大阪間全体のシステム設計では新幹線の3倍を計画していると反論した(ただし1989年当時は、東海道新幹線の主力車両がまだ0系で、超電導リニアの実験車両も1両編成のMLU002という頃であり、現在では鉄輪式新幹線も超電導リニアも、当時に比べれば省電力化が進んでいる)。
 ・・・ JR東海が国土交通省交通政策審議会・中央新幹線小委員会の2011年5月12日会合に提出した資料によると、500km/h走行時のリニア1列車当たりの想定消費電力は約3.5万kWとされている。2027年の名古屋開業時には、所要時間40分、ピーク時5往復(上下10本)運転すると想定すると、合計約27万kW。2045年の大阪開業時には、所要67分、ピーク時8往復(上下16本)で、合計約74万kWの電力を消費すると試算している。これに対して現在の東海道新幹線は、ピーク時には1時間に最多13往復(上下26本)が走行しているが、消費電力は約36万kWである。
○超電導リニアは、車内の磁石から強力な電磁波を発生させる。車内および駅のホームには磁気防護シェルターが設置される予定で、電磁波が人体に及ぼす影響は小さく、心臓ペースメーカーや電気機器が誤作動することはないレベルだと推進側は主張している。しかし、長期間にわたって乗員・乗客や沿線住民がリニアの電磁波を浴び続けた場合の健康への影響は不明確なのではないか。
○リニア新幹線が開業すれば、日本の三大都市圏とりわけ東京への、政治・行政・人口・経済・産業などの一極集中がさらに加速するのではないか。

などなど ・・・ まだあるのかも知れない。
上記の懸念は、可能な限り誠意を尽くして、問題をクリヤして、さらに説明を尽くして欲しいと思う。

「原発運転とも関係ある」という反対論も存在する。でもこれは、何かが違う気がする。
”リニア新幹線は、従来の新幹線より3倍の電力を消費し、従って、現在の電力は不足するので、原子力は必要だと言いかねない。だから反対だ”という論理である。確かに、リニアが大量の電力を必要としていて、それを方便に原発の再稼働を誘導したい人はいるのかもしれないが、電力が必要なのであって、原発の電力が必要なわけではない。
この反対論は短略的で論理的ではない。

前回の掲示の「信濃毎日新聞」では、残された懸念について、どのように説明されているのだろうか。
○まず、長大トンネルを造ることによって生み出される残土だが、処理の方法は個別具体的に計画が整いつつあるようだ。
○地下水脈の断絶による河川水系の渇水の可能性は、JR東海の説明だけではすこし疑問は残る。
○予想される需要は本当にあるのかには、答えていないようだが、スピード性と利便性からは、当然増収増益が想定されると考えられるのでこの種の懸念は不要であろう。むしろ、旅客が奪われると予測できる航空会社の方が懸念されるが、民間のJR東海が心配する事柄ではない。
○政治や人口のなどの一極集中の問題は、政府の考えることで、JR東海の問題ではない。
途中駅が、リニアが止まって、経済的に恩恵を被るかどうかは、地方発展に役立つとは思えません。全国区的な”売り物"があれば別ですが。アクセスポイントが変わって、物流と人の流れが変わる可能性は、大いにありそうです。

現在、東京・名古屋間の新幹線の所要時間と運賃は、のぞみ・自由席で1時間41分、¥10070となっています。リニア中央新幹線では、40分、¥10770という計画だそうです。僅か¥700で1時間の時間短縮は、夢のような話です。


面白い計算

この計算の前提は、座光寺PAに”スマートIC”が出来たらの場合です。そして、中央道の高速バス利用がベースになります。高速バス:80Km/h

(東京←→飯田間・リニア:25分)+(飯田←→諏訪間・80Km・高速バス:60分)                 =計85分

(東京←→飯田間・リニア:25分)+(飯田←→松本間・100Km・高速バス:75分)                =計100分

参考:東京←→諏訪間 従来線
   JR あずさ   2:05分
   高速バス    2:45分 (新宿←→中央道茅野)
   車          2:29分 (東京駅前←→上諏訪駅前;ナビタイム)

*従来の最速は「あずさ」:125分で リニア飯田経由:85分  リニアが40分早い

参考:東京←→松本間 従来線
   JR あずさ    2:26分
   高速バス    3:30分 (新宿←→松本BT)
   車          2:50分 (東京駅前←→松本駅前;ナビタイム)
*従来の最速は「あずさ」:146分で リニア飯田経由:100分 リニアが46分早い

この計算式を当てはめると、長野新幹線のルート沿いを除く、長野県内ほぼ7割は、リニア飯田を経由した方が、目的地に早く着いてしまう可能性が出てきました。勿論、時間のみの効率で、コストは無視しています。これは県内の交通網アクセスを一変する可能性が出てきました。
未開発の赤石山系や木曽山系の自然の観光資源も勿論ですが、美ヶ原や上高地の観光資源も、飯田アクセスの視野に入るのかも知れません。長野県は、その他に観光資源は幾つもあります。南信州のスキー場が、名古屋から一時間以内に、幾つも出現します。机上の計算からの結果ですが・・・

(リニア飯田を中心に、長野県の地図を取り出し、1時間(=80Km)と1.5時間(=120Km)の同心円を描くと、上記の結論が見えてきます。勿論、高速道路が全県を網羅しているわけではないので、あくまで理論値であって現実とはかけ離れています。)

座光寺パーキングエリア

 

もしリニア駅が、JR元善光寺駅からJR伊那上郷駅の間に新設されるとしたら ・・・
中央道の座光寺PAは、重要な鍵を握りそうです。「スマートIC]が前提ですから、JR東海と地元で共同して要請することが一番目。そして、今の”しょぼい”(失礼!)休憩設備を一新し、道の駅併設、公園化、食事・土産店導入、イベントの計画等々、の拡充・拡大の計画を早急に練ることです。もしかしたら、小布施PAが参考になるのかも知れません。

リニア駅は非常にシンプルなイメージだそうです。しかし駅前は、流動力学を応用した、効率の良い、かなり大きい広場が必要のように思えます

   

飯田線 慕情 6  Ω・・オメガ・・の路線

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飯田線 慕情 6  Ω・・オメガ・・の路線

Ω・・オメガ・・の路線 下山ダッシュ

飯田線は、隣接駅間の間隔が短い。およそ2Kmが普通。首都圏の山手線や京浜東北線、あるいは私鉄線鈍行の駅の間隔をイメージすると分かりやすい。普通の中距離線・地方線は、大宮・浦和・赤羽ぐらいの間隔であるそうだ。それに加えて、山中を走行するので、カーブ、勾配がきついと来ている。特に飯田市を走行する時、大きなΩ・・オメガ・・カーブというのもある。

Ω・・オメガ・・カーブ

伊那上郷←→桜町←→飯田←→切石←→鼎←→下山村←→伊那八幡←→

伊那上郷−.−.−.−.下山村の路線距離:約6Km
伊那上郷−下山村の直線距離:約2Km
この伊那上郷・下山村間の電車の所用時間は約18分かかる。さらに飯田駅では待ち合わせで、2分から8分ぐらい停車している。

  

下山村駅        飯田駅       伊那上郷駅

*下山村 ・・・明治・大正時代に存在した村。その後鼎町と合併、鼎町は飯田市に併合される。駅名は、鉄道敷設当時の駅名がそのまま存続した。 ・・・らしい。

伊那上郷駅を最寄りの駅にする高校の生徒で、伊那八幡駅以南に住む韋駄天野郎は、寝坊して通学電車を一本遅れてしまった。そのまま、いつものように伊那上郷まで行って登校すれば5分の遅れになってしまう。韋駄天野郎は、ここで考えた。足には自信がある。下山村で降りて、直線に高校へ向かって走って行けば、遅れずに間に合うのではないか。そこで実行してみた。間に合ったのだ。遅れずに登校できたのだ。
なお、この高校と伊那上郷駅は走って5分ぐらいである。理論上は、韋駄天男子が、下山村駅で降りた電車に、走って行けば、伊那上郷駅で再乗車が可能である。
このルートは、自転車通学の時時々使っていたので馴染みがあります。流石に、走った経験はないのですが、地理を熟知しておれば、珍しくも何ともありません。松川という川を、永代橋で渡るのか、新飯田橋で渡るのか、で多少ルートが異なりますが、所要時間の差は大してありません。自分が多く使った御殿山坂ルートは永代橋ルートの方ですが、バスを使って新飯田橋を渡ったところで降りて、上郷にある高校や駅に向かうという方法もあります。

「下山ダッシュ」という言葉が、一部で急に流行始めました。
「下山ダッシュ」は、一種のエクストリームスポーツで、「エクストリームスポーツ」と は、速さや高さ、危険さや華麗さなどの「過激な(extreme)」要素を持った、離れ業を売りとするスポーツで、下山駅を出発点とし、伊那上郷駅が着地・終点で、下山駅を降りた時の電車に、再度乗り込むことが出来るか、という、飯田線の、Ωルートのトリックを使った
遊び要素のスポーツ?です。本当はトリックでも何でもないのですが・・・
坂道で、目的地まで高低差が約70mあります。長距離陸上選手なら、2000mの距離は10分以内で楽々でしょう。しかし凡人には、間に合うかどうか微妙なところが受けて、挑戦する人が増えたと言います。

「究極超人あ〜る」・ギャグマンガ

”激闘!飯田線 ―電車に勝負を挑んでみる”
「下山ダッシュ」の言葉を生み、はやらせた初見は、「少年サンデー」という漫画雑誌らしい。ある時期、少年サンデーに「究極超人あ〜る」という漫画が掲載され、究極超人あ〜るのOVA版であ〜る達が下山村駅で下車して、伊那上郷目指して走り、追いついたというストーリーであった、という。 後に鉄道誌「旅と鉄道」や関西の人気番組「探偵ナイトスクープ」でも取り上げられ、「下山ダッシュ」は漫画愛好家の中で全国区になった、という経緯である。

勿論、地元では、「エクストリームスポーツ」でもなんでもなく、日常の出来事の一つである。

飯田線は、ますます通学電車化が進んでいます。長閑な田園風景が車窓に広がりますが、通勤で使う人は、ますます少なくなってきています。まして、用事で遠方に出かける時に、飯田線を利用する人は、ほとんどいません。
リニア新幹線乗り入れの効果で、飯田線の乗客が増えるといいですね。

上田城・見参!  百日紅 & 六文銭兜

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上田城・見参!  百日紅 & 六文銭兜

上田城・櫓門


猿飛佐助も滑った(か?) サルスベリ


真田兜 ・・六文銭カブト


真田神社&酒樽茶室

 


そば屋・”萱” と 浪漫人夢二館

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そば屋・”萱” と 浪漫人夢二館

長野・戸倉で、そば屋で昼食をとる事になった。
予備知識なしである。そのそば屋は、地元の老舗で、”萱”といった。

そば屋老舗 萱


誰かと同伴でもなければ、食事に”そば”を選ぶことは滅多にない。

たまに選ぶとしたら、急ぎの空腹充たしで、駅蕎麦がせいぜい、それで満足の輩である。
そこのそば屋・”萱”は、有名らしく、席順待ちで待機組が五組ぐらいの満席である。
食事は、蕎麦と天ぷら盛り合わせを頼んだ。

天ぷらの中に、キス天代わりに”鮎の天ぷら”が入っていた。
蕎麦の話はこれまで ・・・


浪漫人夢二館 ・・・


面白いものを見つけた。
「浪漫人夢二館」である。なんで、ここに、"竹久夢二”館があるのか? ・・・


実は、この蕎麦屋・萱は、地元の酒蔵・坂井酒造の蔵元で、旧家・資産家の屋敷跡らしい。
この坂井酒造は、酒造の他に戸倉に温泉ホテルも経営した。
坂井銘醸と経営を同じにする戸倉温泉の老舗ホテルの笹屋ホテルである。
このホテルに竹久夢二が滞在し、数々の作品を残したという。

そういえば、夢二は、旅先に長逗留して、作品を描いたという。
そのうち、三つぐらいが記憶に残っている。


 渋川・伊香保温泉 旅館名は特定されていないが、柳宗悦に賛同して、ここに美術学校を計画した。
 松本・浅間温泉  松本館                              
 金沢・湯涌温泉  山下旅館(現・お宿やました)           など ・・・


そこに、追加されるのか?

その他に、酒蔵の開放・展示もある。

  

  

売店は、酒屋、雑貨小物、カフェ、蕎麦屋 ・・・


本当は、上山田の、有名ラーメンや”大黒食堂”のラーメンが食べたかったのだが、

”夢二の足跡”も、それはそれで、美味しかった。

 

保科道

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保科道

「大笹街道」は、江戸時代、善光寺平と上州を経由して江戸を結ぶバイパスとして重要な脇街道でした。往来の目的は、物資輸送の他、草津温泉への湯治、善光寺、大谷不動尊、米子不動尊の参詣で旅人が往来する街道でした。

大笹街道の名称の由来は、上州大笹が街道の要諦であったことからの名称のようです。大笹は、現在の吾妻郡嬬恋村大笹に当たります。これは、信州側からの名称で、上州側からは、「仁礼街道」もしくは「信州街道」と呼ばれていました。

大笹街道は、北国街道の須坂・福島宿が起点で、鮎川沿いに、井上、八町、栃倉、仁礼宿に至り、宇原川沿いに山道に入り、大谷不動尊口、峰の原、菅平高原を横切り、鳥居峠、田代、大笹宿と繋ぎます。大笹から江戸へは、大戸から高崎へ出る大戸道と、沓掛宿で中山道へ出る沓掛道がありました。
大笹街道・高崎間と大笹街道・沓掛間は、ともに七宿。ちなみに本街道といわれる北国街道は、善光寺から十七宿。本街道は、公用優先で経費が高く、そのくせ日数も多く掛かる、ということで、脇道は、本道に劣らず賑わったと言うことです。

江戸時代から昔、戦国時代は、戦国武将・真田一族が、大笹から上田にかけての一帯を支配しており、真田一族は、上州沼田に進出しました。上田、真田、大笹、長野原、中之条、沼田・渋川までを、真田一族が進軍し、上田と沼田と二所を領有すると、この間の往来は頻繁になりました。ここも大笹街道で、特に、上田・沼田間を「真田道」と呼びました。歴史的にはこちらの方が古いのかも知れません。

さて、保科道、 ・・・


保科観音と善光寺を繋ぐ、脇街道・大笹街道の近道 ・・・が本当のところでしょうか。保科道の始点が「奉納百番供養塔」とありますから、長田、大門、若穂保科と続く道と違うようです。北野美術館辺りから保科温泉に向かう道かと比定しますが自信はありません。保科観音は、清水寺にあります。清水寺は”せいすいじ"というのだそうです。後の上りは、多少違うが、現在のR34とほぼ同じかと思われます。大笹街道へは、菅平郵便局辺りで合流します。

 

白樺に囲まれた ラグビー場(練習場)

*白樺と岳樺の簡単な見分け方・・・白樺は枝(小枝、枝跡含む)の下に黒髭(黒班)を作る。(岳樺には無い)

 

大笹街道から北国街道・中山道に繋がる道は、沓掛道な案内されています。R146の峠の茶屋へ通じる道だそうです。浅間を北側で回り込んで、田代を過ぎてから分岐して、R146に合流したのでしょうか。
沓掛は、今は”中軽井沢”になっているそうで、なんだか寂しい限りです。

戦国時代以前の、保科古道については、すこし違った見解があります。沓掛のほうが、味があると思いますが ・・・
東御市や御代田町の浅間山山麓の村に、保科姓を名乗る住民が、固まって住んでいると聞きます。この人達が、北信濃の保科庄から、戦国の戦乱で、流れたのであるなら ・・・ 、保科古道は、東御市と繋がっていたのではないか。この推論だ正しければ、保科古道は、県道R4の経路に準じていたのではないかと ・・・

  

県道R4の道の駅 ・・R4は”サンルート”とも言います


この推論に、根拠はありません。が、否定できる資料もなさそうです。

烏瓜 ・・カラスウリ の紅い実

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烏瓜 ・・カラスウリ の紅い実

美味しそうだが、苦くて食用には適さない ・・・
カラスが好んで食べるという事例もない。名前の由来は、イメージから ・・・

 

カラスウリの種・打ち出の小槌

種子は形から「打ち出の小槌」にも喩えられる。財布の中に携帯すると富みに通じる縁起物。
医薬原料で、果実・種子・塊根ともに生薬として利用。 ・・・しもやけの薬

 ・・近くの公園で

九月の睡蓮

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九月の睡蓮

睡蓮・紅

睡蓮・紅白

公園の午後二時頃 ・・・
睡蓮が、開花している。
開花の期間が長い花。

昼に咲いている ・・・気温に関係があるのだろうか。

・・ 近くの公園で


広徳寺 保科の里

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広徳寺 保科の里


保科氏館跡
場所は長野市若穂保科。

広徳寺

疑問の幾つか

保科氏発祥の地・円覚山広徳寺は、保科弾正忠正利を開基とし、延徳元年(1489)に開創された曹洞宗の寺院。現在の広徳寺のあたりに保科氏の館があったといわれ、永正十年(1513)村上氏との戦いで消失。焼け残った館の裏門が現在の寺の総門となっているという。

 ・・・ 上記が、広徳寺の縁起からの説ですが、公布されている説は違う部分があります。
村上顕国に破れて、保科正利・正則親子が保科の里を追われたのが、延徳元年(1489)であり、その戦火で保科館は焼失したとあります。その焼け跡に、広徳寺が建立されたということだと、保科正利は、村上に隠れて近くに隠棲し、寺を建立する資産をどこかに秘匿していたと言うことになります。正利の没年は1506年ということになっています。この戦役後には、北信濃の川田一帯は村上の勢力下になり、武田の侵攻までは勢力図は変化がなかったと見られるので、上記の説は、すんなりと納得出来ません。

保科正利・正則親子は、村上氏と戦って敗れて保科の里を離れた。正利の子・左近将監は村上に降りて、天文二十二年(1553)村上義清に属し、旗本大将として上田原に出陣した。永禄のはじめころ、武田に従ったあと、織田の家臣森氏、上杉氏に属し、保科を領した。左近将監館跡は、若穂保科町滝崎にあった。

 ・・・ ”左近将監が、天文二十二年(1553)村上義清に属し”の部分も、疑問があります。左近将監は、保科正利が何歳の子で、天文二十二年(1553)には何歳であったのでしょうか。辻褄が合いません。延徳元年(1489)に、正利の子として生まれたとして、天文二十二年には63歳、永禄年間に70歳代、その頃武田や織田の家臣・森やさらに上杉に仕えることは可能だったとは思えません。まして、保科正則が延徳年間には、武将として元服を過ぎていたと考えられ、弟との年齢差が5から10歳とすれば、左近将監はもっと年寄りになります。その後に、正則と左近将監に、交流の後が見られないことから、血流の連続性には疑問が残ります。

 ・・・ 現に、広徳寺は存在し、保科正利・正則も数書の歴史資料から確認されており、左近将監も、同様に確認出来ることから歴史上に確実に存在したとすれば、家系図が作為的、意図的に書き換えられた可能性があります。この場合、保科正利の同族が、正利逃亡の後に保科惣領家の継承を主張して家系を仮冒したという可能性が、最も高いと思われます。 ・・・しかし断定は出来ません。

 

弁在天

 

広徳寺・縁起石碑 全景と刻印文字(正利、正則の名が ・・・)

 

寺の付近の庭・りんご園     不思議な石碑

 

広徳寺の裏山には、霜台城跡があり、かつての城下を静かに見おろしている。

寺の裏山

広徳寺の別の顔 ・・・
京都・南禅寺は”湯豆腐”でも有名ですが、京都の数ある寺院の顔という存在です。修学旅行では、金閣寺や銀閣寺とともに定番的存在。その南禅寺の開基と二代目がこの長野の出身ということです。
南禅寺の開基が大明国師で、「無関普門」の名があり、生誕地が長野市の保科です。
二世住職は南院国師さまであり長野市長池のご出身であります。
この為京都・南禅寺は、保科の地の広徳寺で、徳を偲んで「大明国師顕彰会」を度々開いています。

興禅院の曼珠沙華

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興禅院の曼珠沙華


るさとの森に囲まれた興禅院本殿

 

         

曼珠沙華                             興禅院・山門

例年最盛期は、他の彼岸花に先駆けて、九月始めという ・・・

 ・・・ というわけで、興禅院を訪れた。花の寺院で、季節ごとに花が咲き競うという。

梅、シャクナゲ、花菖蒲、アジサイ、彼岸花、紅葉などが楽しめ毎年楽しみに訪れる市民も多い。
興禅院は安行八景の一つとして名高く、NHKで紹介されたこともある。
周囲は、ふるさとの森に、弁財天や、点在する十三佛もある。

今の季節は白・黄・赤の彼岸花が有名。早咲きの黄色と合わせ、約三万株。

少し早いのだろうか、疎ら ・・・ 遅れているのだろうか。
同じ目的らしい「カメラ持ちの訪問者と立ち話」
・・・ ”最盛期はあと二週間すれば、咲き乱れるだろう”とのこと。

興禅院の曼珠沙華は、寺境内とふるさとの森とに群生しています

 

ふるさとの森 の 曼珠沙華

 

ふるさとの森 の 弁財天

 

この寺は、”興禅院”と名がついています。興禅寺ではありません。
前からの疑問ですが、寺には”寺”を尾に付ける寺と"院”を尾に付ける寺とあります。
違いは、何だろうかと不思議に思っていました。

 ・・・ 禅寺では、分家が「院」だそうです。
寺の高僧が亡き後、弟子たちが寺の敷地や周辺に別の建物を建て、修行を続けたものを
「塔頭」または「塔院」と呼びました。
代表的なのは臨済宗で、妙心寺は敷地内には四十六の塔頭があり「院」と称しています。
○元は寺でなかったのに、後に寺に転じた場合 ・・・平等院
○寺の縁者が、出家し庵を結んで仏門に入った場合 ・・・将軍の妻は将軍の死後、仏門に入る。この時、名を院号にした。

寺は ・・・本来「宗教儀式を執り行うところ」を意味しており、
院は ・・・「(僧侶が)宿泊するところ」を意味していました。
寺院は ・・・堂塔(本来の寺)と僧房(院)を併せ持つところ

 ・・・ 以上、調査結果です。”院”号の寺は、なるほど、禅宗がほとんどのようです。
 ・・・ 浅草の浅草寺・「金龍山伝法院浅草寺」は、伝法院という僧房(院)と浅草寺という・堂塔(本来の寺)を含め持つ寺院と言うことになります。

しかし、、”興禅院”の院の由来は、分からず ・・・

 

ふるさとの森の石仏

    

    

    

石仏は、阿弥陀とか地蔵尊とか薬師とか千手とか、だろうが、特定できず。最後は秋海棠の花。

 

ふるさとの森 散策小径の案内銅板図 

 

よく見ると、伊奈家赤山陣屋跡が100m以内。ふるさとの森の雑木林は地続きのようだ。

伊奈家の重臣・富田氏一族の墓がこの興禅院にあるらしい。たぶん宝筐印塔のところか ・・・

無縁仏?

 

興禅院:住所 川口市安行領家401

電話: 048-296-3640.

場所は、外環の”植物振興センター”交差点、植物振興センターの隣。

金剛寺  ・・・ 川口八景

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金剛寺  ・・・ 川口八景

所在地:川口市大字安行吉岡


曹洞宗・山号・富雙山 ・・・入間郡越生町龍穏寺の末寺。
室町時代・明応五年(1496)に、豪族・中田安斎入道安行の開創。

 ・・・ この人物名・安行・”やすゆき”が「あんぎょう」の地名の由来。


七福神のレリーフ ・・碑

縁起 ・・・当時戦乱の世で中田氏自身も多くの人々を殺傷し、その罪業に苦しみ、
当地を行脚していた禅僧に出会い、吉岡の地に草庵を結び、金剛般若経で供養した、という。
この縁で、この地に伽藍を造営し、その禅僧・龍穏寺庵良を開山とし、
自らは開基となり、寺名は金剛寺として開創した。

 

 


江戸時代に三代将軍家光により御朱印十石を賜り、門派は十数寺に及んだ。

伽羅木

 

萱葺きの四足門

山門は桃山様式の四足門、市内最古の棟門。

墓地には県指定旧跡『安行植木開発の祖 吉田権之丞の墓』がある。
当山十九世海牛禅師開始の灸施療は有名で、現在も『お灸の金剛寺』として有名。



吉田権之丞は、文献等の資料が少ない。

伝聞では、権之丞は、草花や盆栽に興味を持ち、珍しい草木を集めたところ、
土質・風土が適合し、その生育がよかったという。
権之丞の子孫である吉田家は、現在も安行地域で植木業を営んでいる。
 ・・・これが安行植木の始まり・・・

なお、中田安行(安斎入道)と吉田権之丞との関係を示すものは不明。檀家の一つ?


中田安行は、岩槻城・太田家の家臣だったと言われる。
 ・・・ 殿山城・現金剛寺の場所
 ・・・ 『新編武蔵風土記稿』によれば、吉岡将監の居城とされる。
将監は中田安斎入道安行の子で、太田資頼に仕えていたとされる。
吉岡氏のその後は不明である。

 

金剛寺・入口


 

謎の 宝鱜印塔 塔笠が落下

○○居士・姉 ・・とは、墓なのか?!

 

 ・・・ 山門の前の参道の”もみじ”は一見に値するという。11月末から12月始め。

赤山城跡 ・・・伊奈郡代屋敷跡

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赤山城跡 ・・・伊奈郡代屋敷跡

 

興禅院と金剛寺を訪ねたら、興禅院から100m、金剛寺から300mの所に赤山城跡があった。
過去に何度も来たところだが、何かの花が咲いていないだろうか、と寄ってみた。

 

 

ここらは、植木の里でもある。

赤山城跡の秋桜 ・・・

夏の終わりの城趾公園は、老夫婦と犬に散歩のご婦人がいた。

近くの梨畑に、梨が色づき、収穫を待つばかり ・・・ 確実に秋が近づいている。


 

赤山陣屋は、東京外環自動車道川口東ICに隣接。
県道越谷鳩ヶ谷線沿いの日枝神社前の交差点に「赤山城址入口」の石柱が建っています。
舌状台地を利用した城のようで、複雑な周辺の地形の湿地帯を巧みに利用した城です。
浸食谷に緩やかに囲まれ、当時は湿地帯で、湿地や浸食谷の天然の要害を利用した城です。

伊奈氏の卓越した土木手腕がみえます。
案内によると、規模は”大阪城”に匹敵するそうです


 

 

長田神社 in 長野

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長田神社 in 長野

長田神社・本殿

長田神社・拝殿

 ・・「長田神社の建つ長野市若穂川田地区は、伊勢神宮の御厨の地域となっていたという。
そのため、社殿も伊勢神宮の祭神を祭り、建築様式も神明造を用いている。
地区の集落の中に建ち、参道は川を跨いで約500mほど続く。
参道の両脇は欅並木が続き、参道の長さと、並木の様子から厚く信仰を集め、隆盛を極めた様子が伝えられている。
本殿は、拝殿の背後に建つ覆屋の中に納められた三間社の神明造。
長田神社 覆屋自体も棟持柱、千木などが設けられている。」
 ・・ ”おみやさん.com”より引用。

 

石碑の刻印に 藤原某 が二基

意味不明の石

*御厨 ・・・みくりや。伊勢神宮の台所が本来の意味で、伊勢神宮の荘園のこと。
*祭神 ・・・天照皇大神、豊受大神のこと。農耕の神様と言われる。全国の農村にある神明社も同じ。
*三間社 ・・・神社の建築様式で、桁行(正面)の柱間が3間(柱が4本)であれば三間社流造という。
*神明造 ・・・神社の建築様式で、神明造は奥行きより幅が大きく、高床式倉庫から発展し穀物の代わりに神宝を納めるように変化した。
*棟持柱 ・・・棟木を直接支える柱。
*千木 ・・・ちぎ。千木は屋根の両端で交叉させた部材のこと。屋根の角にも見える。

一の鳥居 ・・・ この一の鳥居の付近を大門という、川田大門。長田神社創建から後に付けられた地名と思われる。

一の鳥居・笠鳥居


ここから本殿までが、約500mの長い参道となる。参道の途中に保科川が流れ、参道橋を渡って参道が続く。
参道の両脇は、ケヤキの古木の大木が並木を作る。その様は、雄大にして荘厳。樹高:25m、目通り幹囲:6.5mが林立。

長田神社の参道 大欅

住所:長野市若穂川田川田1047-2


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信州の御厨 

御厨 

芳美御厨(高井郡)
保科御厨(高井郡)
布施御厨(更級郡)
富部御厨(更級郡)
村上御厨(更級郡)
仁科御厨(安曇郡)
矢原御厨(安曇郡)
麻績御厨(筑摩郡)
会田御厨(筑摩郡)
*藤長御厨

○芳美御厨(高井郡) ・・ハミミクリヤ
・・・ 平安期に見える御厨名高井郡のうち「中右記」長承元年11月4日条に,饗庭御厨・長田御厨などとともに「芳美御厨事」として「件所無指本券,本領主源家輔負物之代譲而,禰宜常季許之,国司国房為行二代雖奉免,其後久為公卿勤仕国役,仍不可為御厨歟,可停止御厨」と見える「尊卑分脈」によれば,清和源氏頼季流の井上満実の第7子に芳美重光がある。所在地は不明であるが,井上氏が高井郡井上にいたため,現在の須坂市井上近辺とする説が有力である。

・・・ 須坂市井上近辺
・・・ 「芳美御厨事」によれば、この領は源家輔の時に、税の代わりに土地が奉納されて、禰宜・常季許之と国司・国房為行の二代勤仕国役を放免されたが、その後久為が国役を勤仕したので、(御厨の条件を充たさなくなったので)御厨を外した。・・・御厨の期間は短かったと思われる。
・・・ この地の豪族は、清和源氏頼季流の井上氏で、一族の中に、芳美(重光)を名乗った者もいる。
・・・ 勧請した神社に、春日神社らしきものは特定できず。

○保科御厨(高井郡) ・・長田御厨ともいう。
・・・ 長承三年(1134)、長田御厨が定められ、保科氏の祖先は長田御厨の庄官をつとめ、一族は各郡村の名主職・公文職をつとめた。長田御厨の長田は他田に通じるもので、そこの庄官をつとめた保科氏の祖は他田氏であったと思われる。その後、南北朝時代まで長田(保科)御厨の名が、歴史書に散見される。
・・・  星名は保科と書くことが多いが、千曲川支流の保科川流域、『和名抄』の信濃国高井郡穂科郷(現在の長野市東北部の大字若穂保科)、後の保科御厨を苗字の地とする信濃の古族末流。その活動は平安末期頃から見え、『源平盛衰記』に星名党と見えて、井上九郎のもとにあり、『東鑑』に保科太郎、保科次郎、『承久記』に星名次郎と出てきます。
・・・ 長野市若穂保科一帯。
・・・ 平家物語』第六巻によると、1182年9月、朝日将軍といわれた木曾義仲(1154〜84)の家臣で、「保科党を率いる井上九郎光盛と、保科(星名党)の三百騎は、義仲に組して参陣し、千曲川西岸の横田河原に陣を構える越後の城四郎長茂以下に挑んで ・・・」 それにしても、当時の三百騎は、保科一族の勢力を誇示しています。さらに、須坂の井上一族との運命共同体的関係も覗わせます。・・・ この後、井上光盛は、木曾義仲の上洛には参加せず、甲斐の一条忠頼(武田信玄の祖の系譜)と謀って、鎌倉幕府に反抗して、頼朝に誅せられたようです。井上光盛と行動を伴にしていた保科太郎も咎められたが、何故か許されて、鎌倉御家人になっています。
・・・ 長田神社 ・住所:長野市若穂川田川田1047-2。長野市の南東部、欅の参道が500mもある長田神社は、900年余の歴史を持ち、伊勢神宮の分神で衣食住守るといわれる豊受大神が祭られている。
・・・ 長田神社は、長田(保科)御厨が伊勢神宮に寄進された後勧請されたと思われるが、それを記す資料を見いだせない。

○布施御厨(更級郡)
長野市篠ノ井山布施から布施高田付近に布施御厨があった。
・・・ 11世紀後半に伊勢神宮造営のために役夫工米(やぶくまい)が全国一律に賦課されたが、その負担が払えず土地を伊勢神宮に寄進し、その荘園になる地域が発生した。
・・・ 伊勢神宮の所領となった荘園を御厨といい、川中島一帯に布施御厨・富部(とべ)御厨、井上一帯に芳実(はみ)御厨、綿内・保科一帯に長田御厨、千曲川流域に村上御厨などが設定された。
・・・ 布施御厨皇大神社・小松原伊勢社
・・・ 布施御厨の荘官が、平家側・城四郎長茂に属していたため、木曾義仲と井上九郎の軍勢に攻撃され、以後御厨の機能を果たさなくなったと思われます。・・横田河原の合戦。
・・・ 国道・R18の川中島・御厨交差点付近。近在に、富部御厨もあります。

○富部御厨(更級郡) ・・富部・トベ
長野市川中島町御厨から戸部付近一帯が富部御厨の中心地。
・・・ 成立は、布施御厨と同じです。
・・・ 富部御厨一帯は富部氏が領する。富部三郎家俊は、平氏の城資職に属し、横田河原で木曽義仲軍の 武将西広助と一騎打ちのすえ討ち取られている。しかし、戸部(富部)一族は、鎌倉御家人として生き残り、のちに村上一族に合力して、武田に追われた時、村上と伴に上杉へ落ち、さらに上杉とともに米沢へ移っている。
・・・ 戸部伊勢神社 ・川中島町御厨にあります。
・・・ 「おたや」とはお田屋、またはお旅館などと言い、伊勢神宮の御師といわれた神職が地方へ神徳宣布に出た時の拠点とした宿舎のことで、御師は特定の信者と師壇関係を結び大麻札を配布し祈祷を行った。御厨の北にも「おたや」という地名が残っている。

○村上御厨(更級郡)
村上御厨は倭名類聚鈔に記載されている村上郷で、鳥羽天皇の皇后高陽院領の判官代村上氏が、在地領主として本家の衰勢を読み押領し、自侭に支配地を領有するため、支配が甘い伊勢神宮の内宮に自ら寄進し、それが受け入れられたとみる。 ・・・神鳳抄には、敢て『小所』と注記している、その田積のほどが知られる。村上御厨は旧村上、力石、上山田を含む、この地域に散在していたようだ。
・・・ 村上御厨神社 ・・神鳳抄に村上御厨小所とあり、上古伊勢神宮御拝地なれば、神明宮の鎮座も上右なれど書類散逸して鎮座の年月は不詳なり。境内に周圏二丈九尺五条の老槻ありしが寛永年間枯二舎を造築す。その他丈余の老樹ありて鎮座の古きを物語る。
・・・ 御厨としての記録がほとんど無い。村上一族の押領の方便の可能性が高い。

○仁科御厨(安曇郡)
大和国の古代豪族安曇氏の一支族が仁科御厨に本拠をおいて、土地の名をとって名字としたものと考えられている。
・・・ ”安曇歴史年表”から「永承五年(1051)頃、仁科御厨成立」とあることから、現在の大町市の社地域の南部が伊勢内宮の領地「仁科御厨」になり、現地の管理人「御厨司」となって、仕事につく居館を御厨のすぐ北方の”館の内”集落付近に移り、苗字をここの地名に仁科と改めたのだとされている。そして仁科御厨の鎮護の神として、伊勢内宮より勧請された神社「仁科神明宮」を建立した。
・・・ 『信濃史源考』によれば、国造の一家金刺舎人某、穂高地方に在って矢原殿と崇敬されて、郡治を行い開拓に従事し、その子孫に至ってさらに奥仁科に入り、室津屋殿と崇敬されてその地方を開拓したという。
・・・ 仁科神明宮は、大町市大字社字宮本にある神社。杉の古木がうっそうと繁る宮山の南麗に鎮座し、東は大峯山系に連なり、西は田園地帯と高瀬川の清流を見下ろす、遠く北アルプス連峰を望むことが出来る風光明媚な地に建つ神社である。
・・・ 本殿(国宝)、所在地:大町市大字社宮本1159、主祭神:天照皇太神
・・・ 創建 崇神天皇から景行天皇の代に渡る、紀元前後のあたり?

矢原御厨(安曇郡)
安曇野には、「矢原御厨」という約2,000haに及ぶ広大な荘園がありました。御厨とは、本来伊勢神宮に奉納するお米を作っていた荘園のことであり、藤原氏の所領であったようです。
・・・ 『神鳳鈔』・(建久四年)、「内八 矢原御厨 千八百九十一町」とあって伊勢神宮領であることがわかる。
・・・ 矢原神明宮:安曇野の田んぼの中の一集落内に鎮座する。毎年5月7日、伊勢神宮より神宮二名、山葵豊作祈願奉仕。

麻績御厨(筑摩郡)
麻績村は、長野県東筑摩郡の村。文治二年(1186)、吾妻鏡に「麻績御厨(大神宮御領)」との記載が見える。
・・・ 麻績城の城主は鎌倉期、麻績御厨の荘官として入部した小笠原長親を祖とする服部氏(麻績氏)とされ、応永七年(1400)に勃発した「大塔合戦」には村上氏の与力として麻績山城を守城した。
・・・ 麻績神明宮 :平安朝のころ、伊勢神宮の御領地、麻績御厨の守護神として直接内宮に勧請し分社。 本殿、拝殿を始め五棟の建物が国重要文化財に指定。 境内には樹齢八百年と言われる御神木があり、村の天然記念物に指定。

会田御厨(筑摩郡)
・・・ 会田は松本市(旧四賀村)の地区を指します。
会田御厨については会田、苅屋原、明科、塔原、田沢の五カ条からなり、広く犀川右岸までが領域だったと推定されます ..神社の所領は七十町歩を有した。
・・・ 会田神明宮、信濃国内宮八ヵ御領の一つ。天武天皇の二年に勧請をして、信濃国内宮八カ御領の一として祀られていた。会田四組三十九ヵ村の総社であった。

藤長御厨

「信濃国……藤長御厨〈二宮〉」とあり,供祭物は「内宮方,上分布五十端,長日御幣䉼日別代布二丈,外宮方,同前,件長日御幣代布近年不究済之」とある(皇太神宮建久已下古文書)「神鳳鈔」には同じ内容のほか「三百四十五町」とあって矢原御厨に次いで広く,上分も長田御厨に次いで多かった。木曾義仲の横田河原の合戦の主戦場。
・・・ 場所:千曲川の北岸横田一帯/地域の伝承では長野市篠ノ井横田富士宮。
・・・ 更級横田神社 住所:鎮座地 長野市篠ノ井横田303 祭神:天照大御神 由緒:建立は不詳。御厨神明宮と称されていた。

以上が信州で歴史書に確認出来る御厨です。
歴史書は、「大鏡」、群書類従・「神鳳鈔」。他は調べていません。

御厨の域内に、ほぼ例外が無く、伊勢神社系列の神明系の神社が確認出来ます。

この中で、芳美御厨、布施御厨、富部御厨、村上御厨、*藤長御厨は、御厨であった時期が比較的短かったであろうことが、歴史書に登場する機会で読み取れます。中には、地名すら確認が難しいものもあります。
この御厨から、中世に武士団が発生し、後に豪族と成長したものも現れます。
芳美御厨からは井上一族、保科御厨からは保科一族、富部御厨からは戸部一族、村上御厨からは村上一族、仁科御厨からは仁科一族が武士団として成長しました。
北信濃のこれらの一族は、基本的には、御厨を"押領”しながら成長したので、室町幕府が、鎌倉幕府を倒して、前北条の資産を新政府側にする方針に頑強に抵抗しました。
これが大文字一揆で、大塔合戦とも呼ばれた戦いです。室町幕府の政策と意図に従って、荘園や御厨を幕府側に取り戻そうとする守護・小笠原と押領した荘園と御厨を既成事実として領有したい大文字一揆衆の戦いです。大文字一揆衆の主力・主導者は村上一族と仁科一族です。大文字一揆衆は強固で、結局守護・小笠原長秀は敗北して京都へ逃げ帰ります。
信濃国守護・小笠原家が、甲斐・武田信玄に敗北して、信濃が武田に蹂躙される原因は、小笠原家が、信濃国の守護大名として成長できなかったことにあると言われています。甲斐と信濃では、戦国時代にも、経済的規模は、信濃の方が三倍とも四倍とも大きかった言われています。それなのに何故 ・・・?この答えは、小笠原一族内の内訌・一族内抗争とともに、北信濃と諏訪神党の、既得権益保守の連合豪族を統治できなかったことと言われています。

御厨が散在している所在地を点検していると、一つの特徴が浮かび上がってきます。
布施御厨、富部御厨は川中島、芳美御厨、保科御厨、村上御厨、藤長御厨は千曲川流域、矢原御厨、麻績御厨、会田御厨、仁科御厨は犀川とその支流に位置します。
「神鳳鈔」などで確認すると、伊勢神宮へ奉納する貢ぎ物は、鮭と鮭の子(いくら)、麻の布、馬がほとんどです。ここから確認出来ることは、信濃川の上流・千曲川と犀川には、平安時代から鎌倉・室町時代までは、鮭が遡上していた事実が判明します。それも、恐らく大量な鮭の遡上であったのでしょう。そして、当時の衣服の繊維・麻布は、御厨内に麻の木が植えられ、さらに布にする織機が存在していたことが覗われます。大量の麻布は、伊勢神宮の神官の衣料のみならず、一般人の衣料用に換金されていたことが想像できます。併せて、御厨内に、牧が併設されていてことの裏付けも出来そうです。
日本で定常的に鮭の遡上が認められる南限の河川は、太平洋側は多摩川であり、日本海側は島根県の江の川の支流濁川が確認されています。伊勢までは行っておらず、伊勢神宮としては貴重なものだったのかも知れません。
日本海側の河川で、大量に鮭が捕獲された地域は、新潟県、長野県、富山県だそうです。
この鮭をキーワードにすると、信濃国のもう一つの大河・天竜川流域に、御厨を発見できない理由が判明してきます。
千曲川・犀川流域に、御厨を見る理由は、運搬ルートの関係があるようにも思います。定説には、伊勢宮への貢ぎ物の運搬は、東山道とされてきていますが、量的な運搬は、まず日本海側へ出て、北陸道を京方面へ向、伊勢へ向かったというルートが仮設されます。この場合、舟と馬が、運搬の主役になります。こちらの方が、説明が合理的のような気がしますが。

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