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山茶花と立冬

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11月7日 立冬 ・・・
山茶花が咲き始めていた ・・・

 

○山茶花の そこだけ朱し 紅葉山 ・・庄
○木枯らしに 山茶花咲いて 冬立ちぬ ・・庄
○山茶花を 椿ときくも 草枕 ・・蒼虬

 

 

椿と見分け方・・・
①サザンカは、花びらがばらばらになって散る。ツバキの花は花ごと落ちる。
②サザンカの葉柄や若枝などには毛が生えているが、ツバキには毛が生えていない。
③サザンカの葉にはぎざぎざが目立つ。ツバキの葉にはぎざぎざがない。 

 

 

ハナミズキと銀杏の紅葉・黄葉 ・

 

 近くの公園で・・・


 


秋明菊

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秋空に、気品の花が聳える ・・・秋明菊


秋明菊の変種と見たが自信はない。

 秋明菊
  ・・・菊の名がつくが、菊ではないそうだ。
・別名が、・・「しめ菊」「紫衣菊」「加賀菊」「越前菊」「貴船菊」「唐菊」「高麗菊」「秋芍薬」「秋牡丹」 ・・・
・花色は淡紅紫色が多いが、白、桃、 一重も八重もあるという。
・弁数は、多いのと少ないのとがあるらしい。ただし、それも花弁ではなく萼片だという。
・・要するに、特定が難しい品種。
・・Anemone hupehensis var.japonica Japanese anemone アネモネ。帰化植物。

 

夏頃から、近くの花壇に育ち、すくすくと背丈を伸ばしていくが、一向に花が咲かない。
背丈は、およそ2.5m~3.0mになった。
下葉の方が、朽ちて色を変え、落葉を始める今日この頃、漸く花を咲かせた。


 

天空に浮かぶビル群 ・・・ 新都心 朝 放射霧発生

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天空に浮かぶビル群 ・・・

新都心 朝 放射霧発生 ・・・  東北道、圏央道 通行禁止

ニュースより転載 2014/11/13 朝 

交通網は混乱するが、こうゆう自然現象は、なんか いい 感じ ・・・

大宮氷川神社参道の紅葉

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大宮氷川神社参道の紅葉

一の鳥居から「是より宮まで十八丁」(・十八丁=2Km)


中山道から延びる参道の長さは約2kmあります。現在はケヤキが主で三十七種、およそ650本が立ち並んでおりますが、昭和初期には鬱蒼とした杉並木で「並木十八丁鉾杉つづき」と歌われており、さらにさかのぼると松並木の時代もありました。

江戸時代初期まで、氷川神社の参道と中山道は同じでした。街道の旅人と参詣客が入り乱れて、大分混乱したようです。門前町なのに治安も悪化したのでしょう。そこで参道と中山道を区分して、新たな中山道を作ろうと言うことになったようです。中山道の”バイパス化”です。一の鳥居から三の鳥居の手前の参道を通らない中山道の区割りは、伊奈忠次備前守が行こないました。新道にあった農家を移転させ、旅籠や店を設置する事業です。この事業のおかげで、大宮は、門前町と宿場町の二つの顔が出来、大きな商業都市へ発展する基礎が出来ました。

大宮は、門前町です。門前町は、例外なく商業都市です。
この商業都市になった門前町の代表格は、武蔵一宮の大宮は勿論ですが、善光寺がある長野も、それに当たります。

まだ、商業が発展してなかった中世に、貨幣経済の芽生えとともに、”市”が立ちました。
この市が立った場所は、神社の参道や境内、仏閣の参道や境内でした。
参道や境内は、もともと人の集まる場所で、時の権力者や神官や僧侶も、市を積極的に認めていた伏があります。現代に繋がっている、祭りの屋台は、その名残かも知れません。

神社の参道や境内に立った市から、商都・門前町は発展していきます。この大宮は、その典型的な例です。
一方、仏閣の市については、二つの方向があるようです。ひとつは、長野善光寺の門前町のように商都に発展系をみます。もう一つは、寺院の境内を商業基盤とする、寺院城塞化の方向です。浄土真宗(一向宗)が、経済基盤に”市”を積極的に活用しながら、強兵化した、仏閣城塞化の吉崎や岡崎の一向一揆の例です。

”市”を積極的に、政治利用したには「蓮如」でしたが、一向一揆の後、武家の棟梁が、市を積極的に取り込んでいったのが、織田信長であり、秀吉、家康と続く天下統一の武将たちでした。
蓮如と信長は、経済的なセンスの持ち主でもあったようです。

郡山・「うすい」

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郡山・「うすい」

秋の日、旧友の集いで郡山へ行きました。
郡山は地名に馴染みはあるのですが、通過駅で、街自体を歩いたことがありません。
会津とか猪苗代とかには、足を運んだことがあり、また一度、白河用事の時、水郡線で水戸までいって、大回りして帰った事もあります。

その当時でも、気になっていたことがありました。関東以北の地方百貨店の雄、「うすい」の存在です。GMS(ゼネラルマーチャンダイズストア・総合スーパー)全盛の時代・・・ダイエーとかイトーヨーカ堂などのこと、GMSの思想と”真逆思想”の強力な地方百貨店の存在は、かなり興味の対象でした。その百貨店は、川越の「丸広」、熊谷の「八木橋」、そしてこの郡山の「うすい」でした。

GMSの思想の骨格は、「地縁、人縁、血縁という煩わしい人間関係から解放された商業空間」と言うことになります。従って、物を買わずに帰ってきても、気を煩うことがありません。このコンセプトは、若者中心に支持を受けて、GMSは爆発的に発展します。
地方百貨店は、この「地縁、人縁、血縁の関係性を、フルに活用しながら、信用というブランドを構築していきます。そのため、地方の良家の子息たちを積極的に雇用します。そして「おらが街の百貨店」という信用を構築していきます。・・・銀行の信用構築に似ているようです。
この信用構築のサイクルが何世代も続くと、その地方の有力者に染みこんでいき、その牙城は強固になっていきます。その極めつきが、「うすい」であったり、「丸広」や「八木橋」だったりするわけです。

今となっては、その創業者一族は、時代に迎合できなくなり退場して、資本と商品の仕入れを都市百貨店にゆだねるようになってしまったようですが ・・・

そんな「うすい」の建物とか売り場をみても、”コンセプト”とか”ノウハウ”は、分かるはずもありません。だって ・・・信用構築というやつは、地道な”種まき作業”の上に咲く花だからです。 ・・・と、分かっていても、集合時間少し前に来て、眺めています。

友人たちと集合して、昼食の時間と言うことで、ここの地元の友人が、郊外の住宅街の中にある、「天ぷら・佐久間」という店に連れて行ってくれました。


ここは、超繁盛店で、福島県内全域から客が訪れると言うことです。
駐車場に車ぎっしり、店内は席待ちで溢れています。待つこと20分ぐらい ・・・


席に着くと、天ぷらコース料理、四回に分けて天ぷらが運ばれてきます。
みんな美味しかったが、特に最後の”エビと小柱のかき揚げ天丼”が美味しかった。


さて、郡山の歴史だが ・・・

中世のこの地方をみると、坂東平氏の平良文の支流がこの地方に居着いたようです。彼等は、石川一族とか薄井一族と呼ばれた同祖分流の同族の小豪族であったようで、やがて戦国期に、伊達政宗の伊達家の配下に組み込まれていったようです。この薄井家は、秀吉の小田原征伐に出征しないで、お咎めで没落して野に下る運命になった。この時、豪農になった薄井家が、郡山・うすい百貨店の創業者に繋がるのかどうかは定かではないが、否定する要素もないので、勝手に郡山・うすい百貨店の創業者一族は、戦国豪族・薄井氏であろうと想像しています ・・・根拠はありません。

江戸時代の幕藩体制下の頃は、郡山周辺は、深い原野であったという記録が残っています。藩領としては、三春藩の方ではなく、二本松藩の方で、二本松藩の代官所が郡山に設置されていたそうです。二本松藩は、維新の時、会津藩を中核とした奥羽越列藩同盟に加わっており、同じ奥羽越列藩同盟の三春藩が、早くに脱落したため、板垣退助の維新軍の攻撃をもろの受け、会津白虎隊と同様の少年隊を組織していた二本松藩は、その少年隊の悲話を残し、語り継いでいます。

郡山の商業都市としての発展は意外と若く、郡山が磐越線の東西線、水郡線の発着駅として機能し始めた頃からと見ていいようです。若い都市としての急激な発展は、急増する土地成金を生みだし、高騰する不動産へ利権が蠢き、治安が悪化していったようで、高度成長期によく聞いた話です。それへの対応策として、文化事業への取り組みに力を注ぎ、今では音楽の分野で一定の成果を上げ、ここの地方の「コーラス」は全国レベルまで上がっているという。・・・いまでは”落ち着いた”地方都市になったようです

白鳥 渡来!

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今年も 白鳥 渡来!

今年も、越辺川に白鳥が来ました


 

白鳥の好む水深は、白鳥の首の長さ以下、かも知れません ・・・??最適・水深30 Cm ?

10羽を確認しました ・・・

今年は、重機が入って川底を浚ったという・情報はありませんでしたので、白鳥の餌は豊富かも知れません!

 

紅葉の名勝・能仁寺

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紅葉の名勝・能仁寺


 

 

 

 

 

 

能仁寺 ・・・ノウニンジ in 飯能市

天覧山から俯瞰 ・・・飯能市街


 

飯能・能仁寺 ・・・

 

大正十一年(1922)埼玉県初の名勝指定。天覧山を背後に、山道の下に名栗川の清流。
禅寺・・曹洞宗 枯山水の庭園は324坪 池泉鑑賞蓬莱庭園として東日本の代表的な名園
新しい歴史としては、戊辰戦争の時、飯能戦争の拠点になって、戦火にあった。
古くは、武蔵七党の”丹党”の本拠地に、丹党の”中山氏”の菩提寺として創建された。

 


天覧山の名前の変遷 ・・・

 

元は、愛宕権現が祀ってあったので愛宕山と呼ばれ、
江戸時代に、五代将軍・綱吉の生母が十六羅漢の石仏を奉納したので、羅漢山と呼ばれ、
明治に、山麓で行われた近衛兵演習を明治天皇が山頂から統監して、天覧山と呼ばれた。

 

能仁寺・天覧山、飯能河原、多峰主山、宮沢湖、巾着田などはビューポイント。
これを繋ぐハイキングコースは、かなり人気が高いときく。


残柿

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残柿


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柿の木に纏わる古老の話 ・・・
 ・・「昔は嫁ぐに当たって柿の苗木は嫁入り道具。その嫁が一生を終えると、大木になったその柿の枝が切られ、火葬の薪やお骨を拾う箸(はし)にされた。 ・・・
古い農家など大きな柿の木は、そんなふうにして代々の女たちが残したもの ・・・」
さらに、「柿の木問答」というものもある。

こんな話を、脳裏に焼き付けてから読むと、


   ○渋かろか 知らねど 柿の初ちぎり  ・・加賀千代
なんとまあ、艶めかしいが、”ずしり”と重くて味がある。
  
   ○里古りて 柿の木持たぬ 家もなし  ・・芭蕉

先日訪問した郡山のある福島県は”あんぽ柿”の産地。値段は、なんと1個¥500前後。
しかし、いまだに残留放射能で出荷停止だそうだ。
そこで、一度確立したブランドを維持継続するために、県外から”蜂谷柿”を導入して作り続けているという。

かつて、全国有数の養蚕地帯であった山間農家は、生糸市場の衰退とともに疲弊化して行ったが、養蚕に代わる新しい農産物の模索は、”あんぽ柿”を見いだした。さらに模索を続け、林檎や梨やブドウや桃の果樹中心の農業経営に、活路を見いだした。


追跡 ・・・その後の○○

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追跡 ・・・その後の○○

1:坂戸市・「島田橋」が復旧の目途

越辺川は、度々氾濫するのだろう。荒ぶる「水神」を鎮撫するための石碑なのだろう ・・・。

類する石碑の中に、庚申塔の碑は存在しない。この地方の、かっての最大の関心事は水害であったようだ。

 

6月の流失以来、冠水橋(=沈下橋)の残骸は、今日も骨組みだけを晒していた。

 

  ・・・ 2014/9/13 日本経済新聞Web刊より抜粋
 「地元の人々の尽力で以前と同様の姿に決まり、関係者は『風景に溶け込み、江戸の趣を伝える橋。スクリーンで再び輝いてほしい』と期待している。 ・・・ 再建費は約6800万円。年内に着工し、来春完成の予定。再び流されないようワイヤを通して強化するなどの対策も検討されているという」

これを読むと、一番の渇水期の12月に工事を始めて、来年の2,3月頃完成の予定と読み取ることが出来る。

橋の姿は、”以前と同様で、風景に溶け込み、江戸の趣を伝える橋”と言うことになっているらしい。


2:”たたら”の痕跡 ・・・砂鉄はあるのか

砂鉄の存在 
  ・・・ 越辺川と原市沼川の場合

越辺川沿いに、坂戸市赤尾という場所があり、赤尾に金山彦神社がある。以前からこの場所は、”砂鉄”の採取場ではなかろうか、という仮説を立てていた。
伊奈町・小室の県立がんセンターの敷地内に”大山遺跡”があり、ここで県内最大の”たたら”が発見された。”たたら”は、昔の「製鉄所」であり、たたらの近くに砂鉄の河床があったのではないかと仮説を立てた。もっと大規模に、鉄の鉱床かも知れないと・・・。大山遺跡の近くの川は、原市沼川である。

そこで、機会があれば、この二つの川から、砂鉄が採取できるかどうかである。
砂鉄の採取には、簡単には磁石にくっつけてとる方法がある。

方法:
1:磁石を用意する。
2:磁石に、直に砂鉄が付かないように工夫する。
3:磁石に、ビニール袋を2重に用意して、
4:河原の砂場(なければ砂利場)を地面に付けて引きずる。
5:この際、やり過ぎは袋を擦り切り破れるので、10mぐらいか、引きずってみる。
6:採取した砂鉄を、袋を裏返して収納する。


この方法で採取した砂鉄?
A:越辺川・赤尾付近
B:原市沼川・大山遺跡付近

越辺川の場合:-----------------------------------

 

金山彦神社 周辺 ・・・

越辺川

砂鉄?

原市沼川の場合:-----------------------------------

 

遠くに新幹線が見える。 原市沼川

砂鉄?

磁石に付くのだから、鉄成分であることは確かだが、砂鉄なんだろうか。
鉄鉱石の砕粉瓦礫のような ・・・

これを、”砂鉄”の採取場とか”たたら”と結びつけるには、コストパフォーマンスの問題を解決しなければならない。
水流比重選別法 ・・・鉄の重さで、より上流に鉄は沈殿し、それより軽いごみや岩石などは下流に流れる。
これが、自然の川では、砂鉄の河床として積み上がり、純度90%の砂鉄鉱床となる。
出雲・斐伊川では、白茶けた河原と黒ずんだ砂鉄鉱床は、一目瞭然であることを写真で見たことがある。
水流比重選別法を使えば、越辺川と原市沼川はどの程度鉄分が取れるのだろうか。興味はあるが、そこまでの実験はしない。

 

ムーミン谷の紅葉 あけぼの杉

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ムーミン谷の紅葉 あけぼの杉

Metasequoia ・・メタセコイヤ(和名:あけぼの杉)
見れば、針葉樹である。
葉はモミに似て線のように細長く、短い。
秋に赤茶色に紅葉した後、落葉する。
樹高は高く、並木になると壮大である。

あけぼの杉が”生きている化石”であるという謂われは、
 ・・・メタセコイアの化石は、日本各地の新生代第三紀層の化石に見られ、
世界的には、カナダ北部など北半球の北極周辺に広く分布している。
日本では、 1939年に関西地方の第三紀層で、常緑種のセコイアに似た落葉種の植物遺体(化石の1種)が発見された。


場所は、ムーミン谷 ・・・
Tove Marika Jansson の童話『ムーミン』の世界観を表現した「子供公園」
 ・・・ 『あけぼのこどもの森公園』 ・・・ まるで”メルヘン”の世界だ ・・・

メタセコイヤの紅葉に包まれた『ムーミン谷』の風景


生きている化石の木が、加治丘陵にあることが、何故か謎めいて、意味深? ・・・

次回は、砂鉄の寺、高正寺と加治丘陵 ・・仏子と加治と金子

加治丘陵の麓にある寺

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加治丘陵の麓にある寺
 ・・・ 砂鉄の寺、高正寺と加治丘陵 ・・仏子と加治と金子


その寺は、加治丘陵の麓にあった。
加治丘陵の縁に沿って、入間川が流れる。
あの丘陵の向こう側に、多摩川が流れているのは、地図で確認出来ても、距離感が掴めず不思議な気持ちである。

その寺の名前は、”高正寺”。砂鉄の寺であるとも言われる。
むかし、加治丘陵から豊富な砂鉄が流れ出し、この砂鉄を”たたら”で鉄を作る一族がいたという。
武蔵七党の村山党の一支族・金子党というらしい。
金子党は、”たたら”を生業にしながら、武士としての体裁も持っていた。
この武士の集団が、砂鉄の鉱床を発見してここに移り住んだ。
この武士の集団の居るところは、最初”武士所”と呼ばれ、”武士”に変わり、やがて”仏子”となった。
近在に、鉄の加工をするところが出来、そこが”鍛冶”と呼ばれ、やがて”加治”になった。
 ・・・ 以上が、大まかなこの地の地名の経過である。

加治丘陵 ・・・


・・「加治丘陵は入間川のつくった台地と多摩川がつくった台地の間に半島状に突き出したもので、その地質は下位よりの更新世の浅海にたまった飯能れき層、仏子粘土層そして河川堆積物の金子礫層とローム層から出来ています」
 「仏子層 野田地区 ・・凝灰岩の層が広がっています。 ・・この層には、アケボノゾウの足跡が発見され ・・仏子層からは、アケボノゾウ、植物の化石が産出しています」
 「全体的におだやかで親しみやすい景観をもつ加治丘陵ですが、... 加治丘陵の入間川沿いに見られる仏子層という地層の中には樹木化石が密集している「亜炭層」が所々に挟まれています」 ・・・この樹木化石は、主にメタセコイヤだと言われている。
 ・・・この樹木化石は、亜炭となって存在している地層もあり、採掘も行われています。
 「窪田蔵郎氏は、入間川上流の加治丘陵を形成する豊岡礫層に良質の砂鉄あり、その総鉄量は鎌倉砂鉄の約二倍あると発表しています。豊岡礫層は、第四紀白亜期の地層 ・・・」

高校時代、地学を学ばなかったので、門外漢であるが ・・・
 ・・ 加治丘陵は、関東ローム層(火山灰・粘土層)を上部に、第三紀・樹木化石を含む地層があり、第四紀・礫層は砂鉄の含有が多いと言うことが調査の結果判明しているようです。

どちらにしても、加治丘陵の地下の地層のことで、浸食によって地表に顕れたと言うことでしょうか。
仏子の高正寺が、金子氏の菩提寺であり、金子氏が「たたら」であったという伝承はこの地に残り、僅かに墓石に記された法名(=戒名)によって証左とされている事実が残っています。

 


 ・・・豪族金子余市近範 ・戒名を「高正寺殿関叟常鉄大居士」の中の”鉄”の文字は、金子氏が”たたら”であったことの象徴のようです。
今となっては想像しかできないが、かっての仏子付近の加治丘陵は、入間川の近くまで迫り出しており、入間川によって地層の表層部分がはぎ取られて、砂鉄の地層・豊岡礫層を露頭したのか、あるいは高正寺脇を流れる霞沢が地層を削って谷を作り、砂鉄を流し出したのか、果たしてどちらか分かりません。

 

 

仏子の隣は、飯能の阿須ですが、阿須運動公園の所の加治丘陵は、崖状の部分があり、地層が露頭しています。
阿須は、「雨などで. ぬかるみ崩れやすい 崩 (あず) り原」とあるように、” 崩 (あず)”の事ではないかとも思っています。
 ・・・ ここの阿須(=崩)は、雨などではなく、入間川の水流によって崩落したと考える方が合理的な説明のように思います。
 ・・・ ここでは、亜炭が、現在も採掘されているが、砂鉄も採掘できたのではないか。採掘している会社は、駿河台大学の隣に位置する日豊鉱業(株)です。

 

阿須の、最寄り駅は、西武線の”元加治駅”です。
”元加治駅”は、かつて、運搬用の引き込み線が入間川原まで延びていたと言われています。西武線の貨物列車は、今となっては馴染みがないが、”河原の砂利”と名栗川から流れてきた筏の貯木場の木材の運搬用という機能だったようです。
これも想像ですが、その昔から、元加治は筏の”貯木場”で、名栗から運んだ材木と炭をここで一旦貯め置いたのではないでしょうか。そして、”卸”もやっていた。その主宰者は、飯能の材木問屋 ・・・
 ・・・そう考えると、加治(鍛冶)の名前の地名と職業と繋がってきます。
 ・・・しかし、やがて、高技術を持った川口の金山衆(河越一族)に”たたら”と”鍛冶”は集約されていき、入間・飯能の鍛冶文化は終息していった、と見るのは無理な筋読みでしょうか。

次回は、”川口市金山と砂鉄 ・・鋳物の街の源流”を予定します。

巌殿観音の銀杏おち葉 ・・・

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○観世音 銀杏落ち葉の 道しるべ


2014/12/02  東松山市巌殿観音 今年の銀杏も見事です。

敷き詰められた、銀杏の落ち葉のじゅうたん ・・・ ”はらはら”と散り急ぐ”さま”が、自然の織りなす”美術品”

このところの、毎年の、定位置・定時の観測 ・・・ 恒例ながら、冷気が心地よい ・・・

 

 

こちらは、萱葺き屋根の鐘楼付近の紅葉 ・・・ 

 

東松山市岩殿1229  0493-34-4156 巌殿観音 正法寺    坂東三十三観音 第十番札所 巌殿観音巌殿山 正法寺( しょうぼうじ) 宗派:真言宗智山派 ご本尊:千手観音菩薩(観音堂) 阿弥陀如来(本堂)

 

川口市金山町と砂鉄 ・・・鋳物の街の源流

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川口市金山と砂鉄 ・・鋳物の街の源流

川口市金山町の歴史を辿ってみる。

金山神社


 

 ・・・川口の鎮守は川口神社であり、その主祭神は”金山彦命”と言われる。川口の祭りは、「たたら祭り」(=川口祭り)とも言われ、夏場、8月の始めに開催される。そして、そのメーンイベントは、花火とともに、 「たたら流し踊り」.
 この踊りは・・・”土(粘土)でタタラを作り、砂鉄を水で選別するという鍛冶を行う際の手順を連想させるという” ・・・このことからも川口は、”たたら”を鍛冶の神や鋳物の神としても信仰している様子が伺える。 ・・・「金山彦神社」

 この奉納桶は、鋳物?!


 ・・・たたらの炉を作るには、良質の粘土が必要とされます。この粘土は、川口で荒川と合流する"芝川”が運んできたようです。

川口神社 ・・・氷川神社

 今でこそ、人口が40万を裕に超し、50万に届こうとしているこの都市は、”さいたま市”が大合併をする前は、埼玉県で最大の人口を誇る都市であった。だが、この人口密度の多さは、調べて見るとそれほど昔からではない。


 江戸時代に、広重の浮世絵に描かれいる、日光御成街道の川口宿は、”川口の渡し”で、対岸の岩淵宿とセットになり、一つの宿とされていた。 ・・・これは想像だが、荒川の東遷前の江戸以前の入間川の時代、川筋はもっと西の、今の赤羽駅辺りを流れていたのではないかとも思う。

広重の浮世絵の”川口の渡し"の時代に、”川口は金山町と本町におよそ300戸・・"と記され、周辺はのどかな田園が広がっていたという。
その後の人口の急増は、「キューポラの街」鋳物産業の隆盛と、荒川で僅かに隔てたのみ、都内への近接という事での”ベッドタウン”としての利便性が後押ししたものと思われる。

では、何時の頃から、川口が"砂鉄"の街として栄えたのか?

かっての砂鉄採取場 ・・今は自動車教習所 遠景の橋は京浜東北・高崎・宇都宮JR各線 ・・・

 ・「川口宿金山町および善光寺(川口市)の下を流れて荒川に合流する芝川で、古代の秩父川(別名荒川)であり ・・ 鍛冶集団河越氏一族は良質の砂を求めてこの入間川のほとりの川口へ移住したのである」

かっては、身近に”善光寺参り"が出来るとあって、賑わった川口善光寺。火事で、改装したため”昔の面影”無し。


 ・「鍛冶師の葛西氏 隅田川流域は古代より砂鉄を採取していた土師族の居住地なり。沙石集に「故河西ノ壹岐ノ前司(清重)と云しは、秩父のすえにて、弓箭の道ゆりたりし人なり」と見ゆ。葛西氏が秩父氏の一門を称していたのは、東国の鍛冶統領秩父氏の配下であって、川越氏、稲毛氏、江戸氏、豊島氏等と同じく鍛冶集団である」
 ・・・沙石集・しゃせきしゅう・は、鎌倉時代中期、仮名まじり文で書かれた仏教説話集。十巻、説話の数は約150。無住道暁が編纂。弘安二年(1279)に起筆、同六年(1283)成立。・・日本古典文学大系(岩波)85、に収録
 ・葛西氏の名は、★源平盛衰記に「武蔵国住人葛西三郎重俊」と。★吾妻鑑卷一に「治承四年十一月十日、武蔵国丸子庄をもって葛西三郎清重に賜ふ」
 ・名栗地方の木材を西の川で流す。西の川は、名栗川(入間川)を意味し、この川の下流流域に川西族とも称して存在した。やがて、彼等は”河西”になり"葛西"に転じた。 ・・・豪族"葛西氏”は、秩父氏の末裔支族と言われる。

上記の文献の寄せ集めを、沙石集成立の1283年を起点とし、家康の江戸入府までを、時系列に整理し直して、再構築すると以下のようになる。
 
*名栗川(=入間川)流域にいた、桓武平氏の末流秩父平氏の支族が、鍛治氏の拠って立つ砂鉄鉱床を求めて、入間川下流域に展開した。その場所は、入間川(=墨田川)と江戸川(=古利根川)の間の地帯と思われる。 ・・・葛西一帯、葛飾とも呼ばれる。
*鎌倉幕府成立期に、葛西氏は、頼朝に与して戦功を上げ、奥羽の太守として移封する。
その時、鍛治氏の職業集団は、残ったのか移封に付き添ったのかは不明。川口が、葛西氏の領分だったのかも不明。
*移封に伴って、空白になった葛西の領土は、桓武平氏の同族・千葉氏(平良文系流)が領分する。
*この頃、桓武平氏の系流・秩父平氏の氏族の河越氏(=畠山氏と分流)が、川口・金山に砂鉄を求めて移住する。・・・恐らく一族の一部、”たたら”を生業とする集団。
この集団は、”たたら”の技術と鉄鍛冶の技術は優れていたのであろう。
この”たたら”河越氏は、川口に移住前は、砂鉄の川、入間川、小畦川、越辺川流域に展開していたと思われる。
*広重の浮世絵”川口の渡し”の所に、渡し船は一艘、他多数の筏流しが描かれている。川沿いに、善光寺が見えるが、信州まで行かなくても、"善光寺参り”が出来ると言うことでたいそうな人気であったという記述があり、その善光寺前に、砂鉄取りの小屋が何軒も軒を連ねていたという。
この砂鉄の採取は、江戸時代の荒川の東遷以降、水流が増して思わしくなかったのではないだろうか。 ・・・大正時代の川口の鋳物の製造には、「出雲より砂鉄を取り寄せた・・・」の記述が見受けられる。

 

片羽の白鳥

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白鳥の川 越辺川の昼下がり


 

川に遊ぶ?いや餌を探す白鳥

 

片羽の白鳥 

右の方 ・・・か!

今年の早春のこと、対岸の坂戸・赤尾か島田あたりで、餌を探している最中、野良犬にやられたらしい。

渡り鳥 ・・・故郷へ帰らず 留鳥になって住み着いたという。

そういえば、白鳥見学の際に、「犬を連れた見学への”注意書き”」が、やたらと増えている。

 

 

浦和レッズ 2位 決定

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it’s a pity!

2位 決定

SAITAMA URAWA

RED DIAMONDS

 

今宵は、酒場で、残念会 !!

それにしても、G大阪は、降格の危機から、あれよあれよ!と勝ち続け、優勝。

見事 天晴れ !

 


清洲会議と松姫

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清洲会議と松姫

「あんれ・・まあ!!」 ・・・

12/6夜、TVで、三谷幸喜の”清洲会議"を見た。
内容は、面白いことは面白いのだが ??

TV 清洲会議

清洲会議
 ・・・ 戦国時代、信長が明智光秀の謀反に合い、本能寺で”横死”した後、西国出征の秀吉が、信長の武将の誰よりも早く取って返し、光秀を征伐した。これよりの課題は、織田家の跡目をどうするか、信長の領分をどう配分するか、・・・今後の権力構造を決定付ける重要な会議・・清洲会議であった。会議の参加資格者は、柴田勝家、丹羽長秀、秀吉、滝川一益 ・・滝川は、東国で後北条との戦いで苦戦し参加が遅れる。滝川の代わりに、‎池田恒興が選ばれた。 ・・・ 織田家の跡目に、勝家は織田信孝(3男)を推し、秀吉は戦死した信長の嫡子・信忠の子・三法師を推す。この時の、裏の駆け引きも面白いが、正統性の強い三法師に決まると、秀吉は三法師を膝に載せ、織田家臣団に挨拶をさせる。本来は、幼い跡目の三法師への挨拶だが、あたかも新主人の秀吉への臣従の挨拶のようであった。・・・
 ---以上が史実であるようだが、ドラマには「所々史実とは異なる作り話」を入れてある。TVを見ての感想と評価を読んでみると「作り話」までが、史実であるかのように受け取られている。

清洲城

柴田権六が、あそこまで”あほであった”かどうかの誇張や、お市の方が、あそこまで秀吉を嫌っていたかの誇張は、とりあえず許される範囲と言うことにする。

小説・清洲城

しかし、三法師の母、信長の嫡男・信忠の正妻を、信玄の娘・松姫にしたのは史実に反する。 ・・・恐らく三谷幸喜は、分かっていて、あえて松姫にしたのだろうと思うが ・・・これを史実と信じる評価をあまりに多く見ると、なにか危うく感じてしまう。・・・これは違うのだ!


松姫のこと ・・・

松姫を演じた 剛力彩芽

おいたち
松姫は、永禄4年(1561)に古府中(甲府市)のつつじが崎の屋敷で生まれました。父親は戦国時代の武将の一人で甲斐の国(山梨県)を中心に活躍した武田信玄、母親は油川信友の 娘です。永禄10年(1567)11月、松姫が7歳の時に織田信長の11歳の長男信忠(幼 名:奇妙丸)と婚約しました。結婚のお祝いわいの品は、帯や布地、織物、金・銀の細工物、虎やヒョウの毛皮など豪華な品々がやりとりされました。この時代の身分の高い人たちの結婚は、「政略結婚」といって、家同士どうしの結むすびつきを強めるために、本人の意思と関係なく親が決めていました。結婚式まで相手の顔を見ないこともありました。


かなしみ、そして旅立ち
元亀2年(1571)、松姫が11歳の時に母が亡なくなり、翌年には武田家と織田家が敵・味方に分かれてしまったため、信忠との婚約が解消されてしまいました。原因は、三方が原の合戦の時、織田の軍勢が武田と敵対していた徳川の軍勢に加勢したためでした。
さらに、天正元年(1573)4月には父・信玄が亡くなり、織田家は武田家を滅ぼそうと攻せめるようになりました。武田家が滅亡する天正10年(1582)1月下旬、松姫は、留まっていた兄・仁科盛信の高遠城に織田軍が攻めてくるとの知らせに、兄・盛信の3歳になる姫を連れて高遠城を逃れました。その後、、新府城に行って兄・勝頼の4歳になる姫、人質として預かっていた小山田信茂の4歳になる姫も加わえ、少ない供を連れて逃げ延びていきました。高遠城(伊那市高遠)から始じまり、新府城(韮崎)→入明寺(甲府市)→開桃寺(今の海島寺・塩山市)→向獄寺(塩山市)→ 金照庵という古寺(八王子市上恩方)まで、 幼い姫たちを連れ、そしていつ敵に見つかるかもしれない旅は、精神的にも肉体的にも大変なものでした。
6月2日、本能寺の変が起こり、武田家を滅ぼした織田信長、信忠が亡くなってしまいました。その年の秋、金照庵から心源院(八王子市下恩方)に移り、髪を切って尼になり、信忠をはじめ、武田家一族の人たちの冥福を祈りました。


▲鶴巻橋の松姫像尼になって名前が「松姫」から「信松尼」に変わりました。松姫、22歳のことです。松尼の「信」は、信忠の妻であるという意味が込められていると伝えられています。


信松尼と信松院
心源院で8年間の 修行をつみ、天正18年(1590)の秋、御所水の里(今の台町)に移り住みました。尼としての生活を送りながら、11、12歳になった3人の姫たちを育て生活するため、朝から晩まで 働きました。収入は、寺子屋で近所の子どもたちに読み書きを教えたり、織物を作ることから得ました。もちろん、織物はカイコを育て、糸をつむぐことから始まります。これらの松姫の織り方が、八王子の織物の発展につながったと言われています。
また、かつて武田信玄につかえていた大久保長安は、松姫が八王子にいることを知り、彼女のためにりっぱな草庵(今の信松院がある場所)を贈りました。元和2年(1616)、松姫は56歳で亡くなりましたが、生前の願いがかない、この草庵はお寺にされ、「信松院」と名付なづけられました。このお寺には、松姫のお墓、江戸時代のなかごろに作られた木造の松姫坐像、日本最古の木造の軍船模型があります。この軍船模型は東京都の指定文化財になっています。境内には布袋尊がまつってあり、毎年1月の1日から15日まで八王子七福神巡りの一つとしてにぎわいます。また、毎年7月には「ほおずき市」がおこなわれ、夏の風物詩になっています。・・・八王子図書館


 
松姫は、大変美しい方だったという伝承が残っています。それと、織田の高遠城攻めの後、八王子へ逃れていた松姫のもとへ、織田信忠から、改めて正妻に迎えたい、という書状が届き、松姫は心待ちにしていたと伝えられています。その直ぐ後に、本能寺の変が起こり、信長と信忠は"横死”しました。”本能寺の変”を聞いた松姫は、一生独身を決意し、尼僧になったと伝えられています。何故か、この逸話からか、女性に圧倒的に人気が高いそうです。こうゆうのを、"純愛”というのかもしれませんが、所謂”歴女”という人達からかなり評価の高い歴史上の女性のようです。

大宅文庫・越生別館

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大宅文庫・越生別館


大宅文庫

大宅文庫・世田谷本館

世田谷八幡山にある”大宅文庫"は、社会派ルポルタージュを書く「ジャーナリスト」にとって、宝島であるという。

”立花”然り、”猪瀬”然り、 ・・・

大宅文庫 ・
 ・・・ 公益財団法人 大宅壮一文庫(おおやそういちぶんこ)は、大宅壮一が亡くなった翌年の1971年、膨大な雑誌のコレクションを基礎として作られた専門図書館「大宅壮一文庫」を運営する公益法人。
 ・・・ 大宅コレクションは週刊誌をはじめとする通俗的な雑誌を、大宅独特の視点と方法により索引づけられている。件名別、人名別の「雑誌記事索引総目録」が刊行されているが、普通の雑誌記事索引では見られない記事を拾っているところが貴重である。
当初は1日平均2人に満たなかった利用者は、1976年発生したロッキード事件で多くの報道関係者が押し寄せて以来、多くのジャーナリストやライターに愛用されるようになり、現在[いつ?]1年間でおよそ10万人の利用者があるという。 ・・・wikipediaより

今日は、昔から興味があったので、「大宅文庫・越生分館」に寄って見た・・・
越生分館の方は、 ・・蔵書数 - 書籍約7万冊 
 ・開館 - 祝日を除く火・水・木曜日、11:00~16:00(昼休み 12:00~13:00)の筈である。

世田谷本館の方は、蔵書数 - 雑誌約1万種類、約70万冊 といわれている。

恐らく、評価が定まっていない現代史の、”隠された真実”が、雑誌の方に、莫大な数で埋まっているのだろう。まさに宝の山 ・・・
立花隆の・「田中角栄研究~その金脈と人脈」や猪瀬直樹の・「ミカドの肖像」、「天皇の影法師」など、ここの雑誌類に多く触発されたらしい。・『マガジン青春譜-川端康成と大宅壮一』
特に猪瀬は、ここにかなりの頻度で通ったらしい。

大宅文庫・越生分館

行ってみると、意外と分かりぬくい。
「ゆうパークおごせ」手前の十字路を右に30m、細い脇道を上った高台にある。
たまたま、通りかかった”お巡りさん"がいたので、漸くたどり着けた次第 ・・・
脇道の口にも案内はない。いたって不親切で、公開しているといえど、来訪を拒んでいるが如く ・・・

夏休みも長かったが、既に冬休み ・・・ 残念!

所在地 〒350-0415
埼玉県入間郡越生町上野2845-2
TEL:049-277-1151

和紙の町・小川町

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和紙の町・小川町
  ・・・ 細川紙 -ユネスコ無形文化遺産に登録世界遺産認定


  
 ・小川和紙の起源は古く、一説には約千三百年前、当時の武蔵国に渡米した高句麗人により伝えられたのが始まりとされています。昭和61年より優良県産品に認定され和紙のやわらかさと色合いが好評です・

 == 現在の小川町で漉かれている紙が「細川紙」と呼ばれ始めたのは江戸時代中期といわれ、それまでは「武蔵紙」と言われていました。

 ・・・ 和紙民芸品製造・鷹野製紙所 ・・・
 ・・・ 埼玉伝統工芸会館 ・・・
 ・・・ 和紙製造元・窪田紙業有限会社 ・・・ 小川和紙センター
 ・・・ 小川町和紙体験学習センター ・・・
 ・・・ 紙すき場 町に15軒ある生産者 ・・・

小川町の”小川”の由来 ・・・
 ・・・ 槻川の支川であることから、兜川は「小川」と呼ばれていたことがあり、 それが小川町の名前の由来になったとも言われている。 ・・ 小川町を中心とする比企郡の和紙産業を支えたのは、兜川と槻川の清流だった ・・
 和紙の製造には、どうやら”清流”が必要だったようで、小川町の兜川と槻川は、さらに”佳き酒”も生み出したようだ。 ・・小川町は、県内の「酒どころ」としても有名。"帝松"の造り酒屋に、何回か寄って、その都度日本酒を求めることがある。

なお槻川上流は、東秩父村になり、小川町と同様に”細川和紙"の産地として、ユネスコ無形文化遺産に登録された。

小川和紙の歴史  ・・
 ・・・ 小川和紙の起源は610年に高麗の僧「雲徴」が製紙技術を伝えたのが最初といわれ、正倉院の古文書には八世紀に ... 小川町で手漉き和紙が盛んになったのは原料の楮が自生していたこと、恵まれた槻川の清流、ときがわ町の慈光寺など多くの寺で、盛んに写経が行なわれたため、これが小川和紙の発祥と関連がある ・・・と言われています。

 ・・・ 小川町和紙体験学習センター ・・・

和紙体験センター 入り口

レトロな建物 駅付近の細い道

 

道の駅にある・伝統工芸館


紙漉の道具

カラフルな和紙

細川紙の作業工程

すかしに花や葉が・・こんなのも

和紙で作ったファッション衣料・雨で濡れたら ??

 ・・・ 和紙民芸品製造・鷹野製紙所 ・・・

・・・ 小川和紙センター

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東秩父村の細川・和紙については、こちらをどうぞ ↓

東秩父村「和紙の里」紙漉き農家

猪瀬直樹が再び作家として ・・

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猪瀬直樹が再び作家として ・・・

「さよならと言ってなかった  ・・わが愛 わが罪」マガジンハウス・\1300+税;10月30日刊

 

その前に、メールマガジンを配信して頂き、「断章 妻ゆり子の思い出」を全20章、自分としては、かなり丹念に丁寧に読んだつもりである。
発刊本は、「断章 妻ゆり子の思いで」に、「第三章 走り抜けて」を追加して構成し直している。

猪瀬の若い頃を知っている自分としては、道路公団民営化の辺りからマスコミに登場するようになるが、この間が空白であった。この空白の期間の瀬の生き様を、メールマガジンと今回の発刊本は空白の穴を埋めてくれるようであった。そこには、自分の知らなかった”瀬”があった。

いい内容である。

いくぶん傲慢であると見られていた”瀬”の、心情の吐露の様子は、あの時の周囲からの全面砲火に耐えて、無二の理解者への思いに馳せていく。
そして、ゆり子さんと歩いた足跡を辿り、苦楽を共にした記録を思い起こしながら記述していく。 ・・・ここには、あの”傲慢”も”高飛車”もない。マスコミに露出していた“瀬”とは別物のようだ。
 ・・・ 実は、この”傲慢”でも”高飛車”でもない、“瀬”の側面は、むかし知っていたような気がする。何時の頃からか、突っ張って”ディベート”をするようになっていった。 ・・・そうか、奥さんのことを書く時に、鎧は要らない、鎧を脱いだのか ・・?

ただ、”傲慢”でも”高飛車”という評価は、多くは部下である都庁職員とか、出版社の直接担当者の具体的イメージのようである。このことは、余りいい事ではないにしても、瀬が行った業績のへの評価とは関係が無い。”傲慢”でも”高飛車”のマスコミのミスリードが、瀬の行った業績の評価を汚していったように思う。・

そして ・・・
「第三章 走り抜けて」
この章は、メールマガジンの「断章 妻ゆり子の思い出」に、追加された章 ・・・
この章には、徳州会病院の徳田虎雄理事長からの献金問題の経緯が詳細に記されている。あの時、疑問に思っていたことを答えてくれているだろうか、と気に掛かり、読みました。

というのは、1月の始めに瀬の5000万円疑惑について”ブログ”にアップしている。
以下がその時のブログ ・・・
○猪瀬直樹 ism      2014/01/07
○猪瀬直樹 ism 最後に・・ 2014/01/15
この二つの間にもブログの書き込みはあるが、それは瀬の著作から、瀬の考え方の骨組みを考察してみた内容で、疑問に思うことは最初と最後に集約させてある。
その時の疑問と疑惑は、解消できたのであろうか。

その時の疑問・疑惑に対して ・順不同

*1:「・・・初めての選挙と言うこともあり、資金面で不安もあり、5000万の金を借りました・・・使った言葉は、正確には覚えていないが、要旨はこの通りだったように覚えています。
・・このことは、正しいか否か別にして、納得出来る説明でした。
要するに、あまり金の掛かるような選挙はしてこなかった。
・・そうすると5000万の金は使わずに済みます。準備した3000万の金も余ったのかも知れません。猪瀬氏の最初の会見を思い出します。」
 ==>概ね、想像した通りの内容でした。違和感はありません。それで罪状があれば甘受すればヨシ。特に瀬に”聖人君子”を望んではいません。

*2:「猪瀬氏支持の関係者に挨拶回りの時、徳田虎雄に挨拶に行った・・何故?」
 ==>徳田虎雄との、利権がらみの”贈収賄”なんて、当初から瀬がマスコミに登場してきた経緯をみれば、あり得ないことだと思っていました。”贈収賄”は、瀬の生き様と合いませんし似合いません。

*3:「猪瀬直樹の判断基準は、ウェットな面を持った近代合理主義者」
 ==>この判断は昔も今も変わりません。

*4:「未だよく分からないのが、彼の政治的主張のスタンス。少なくとも石原慎太郎のもとで副知事をして、そこから政治家猪瀬直樹が生まれたこと。こうしたエッセーへの、いくつかの共感と石原慎太郎は、どうも結びつかない」
 ==>この部分は、いまだによく分かりません。たぶん”ナショナリズム”のとらえ方の部分だと思いますが、石原慎太郎と瀬では、でてくる決断が違ってくるように思えます。石原を評価している部分と違う部分を、どこかの機会に顕かにして欲しいものだと思います。
 ・・・瀬の方が、もう少し合理主義的かな ・・。その意味で、橋川文三はよく分かります。

*5:「時折走ることのある高速道路の、最近のサービスエリアは、昔のと全く違ってきました。場所により”コンビニ”もあります。おいしい”パン”も焼きたてです。この頃は、ドライブ疲れの”休憩所”から、エリア内のしゃれたショップ目的の方も多いと訊きます。道路公団民営化のあとの競争の原理が働いて進化しているように思えます。恐らく、経済的規模も、昔とは比較にならないくらい大きくなっているのでしょう。これは、明らかに猪瀬直樹のお陰でしょう。猪瀬氏本人が言えば、自慢話で嫌みになりますが、ほとんどの人がそう感じていると思います。」
 ==>最近、地下鉄で携帯が使えるようになって、大学生や高校生が喜んでいます。例えばこれも瀬の功績なんでしょうが、これは時代の流れなので、他の人が知事でも同じことをやったのかも知れません。しかし、東京都の発電所の計画は、”瀬的発想”の賜のようにも思えるのですが ・・・。他にもあるが割愛 ・・


瀬が、5000円で知事を辞めて、50億の費用をかけて選挙を行い、新しい都政になりました ・・・。
上記では、5000円が”たわいもない”単純ミスで、褒められたことではないのは確かですが、”鬼の首”でもなさそうです。そして ・・・・・都政は良くなったのでしょうか。
”鋭い切り込み方”のない、この歯がゆい現実を見ていると、もどかしさを感じて複雑な心境です。
 ・・と言っても小生は都民ではありません。

読み通してみると、あの時の疑問に、ほぼ答えてくれているようです。

もとに戻って ・・・
「さよならと言ってなかった  ・・わが愛 わが罪」 再び言います。いい内容です。
「ゆりこさん」へ、冥福を祈ります。

赤山歴史自然公園の計画 ・・川口

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赤山歴史自然公園の計画 ・・川口

 

概容・首都高初の「ハイウェイオアシス」の計画
 ・・・ ハイウェイオアシスとは、高速道路上にある一部のSA・PAに連結されている、道路区域外の都市公園・地域振興施設等の呼称である。高速道路の料金所を出る事なく、隣接する公園・レクリエーション施設を利用出来る。HWOまたはHOと略称される。・・・wikipediaより
 ・・・ 有名どころ 
  ○道の駅オアシスおぶせ(小布施総合公園)・上信越自動車道
  ○道の駅富楽里とみやま・富津館山道路
  ○道の駅富士川楽座・東名高速道路・上り線のみ
  ○佐久スキーガーデンパラダ・上信越自動車道・スキー場として有名
  ・・・ 関東近辺のみ

(仮称)赤山歴史自然公園の基本設計が完了しました  ・・・2014/06/20
 ===>概算事業費は約180億円を予定しています。平成29年4月に完成予定・・・

 

~(仮称)赤山歴史自然公園及び(仮称)川口市火葬施設の基本設計がまとまりました~
平成24年3月の都市計画決定、首都高速道路株式会社との事業連携を踏まえて、今年度、実施してきた(仮称)赤山歴史自然公園及び(仮称)川口市火葬施設の基本設計が完了しました。

(仮称)赤山歴史自然公園の完成予定図

 ・・内容・・・
 ・・・公園、火葬施設、高速道路PAの調和
・ 約 10.9ha の区域に、公園、火葬施設、高速道路PAの3つの施設が立地する
世界的にもめずらしいプロジェクトであり、計画全体の一体感や統一感を保ちつ
つ、利用者の動線や視線を十分に配慮して、各拠点施設や大池・緩衝樹林・中島
などを配置しています。
 ○公園内外の回遊性の確保
・ 高速道路PAに隣接して周辺施設への周遊バス発着所を設けるとともに、赤山
オアシスゾーンから公園ゾーンへの入口部分に、公園や地域の情報発信施設、公
園を見渡せる展望テラスを配置しています。
 ○「植木のまち川口」ならではの公園
・ 地元の植木の専門家の方々とのワークショップを重ね、周辺の開放植木圃場「オ
ープンナーセリー」と連続する、日本ではじめての公園を計画しています。
・ 公園の随所に、江戸時代から続く伝統的な植木と近年の国際色豊かなモダンな
植木を織り交ぜた植栽を行うとともに、赤山オアシスゾーンや(仮称)地域物産
館において、植木や花鉢・ミニ盆栽などの販売スペースを計画しています。
 ○広域的な集客の確保
・ 高速道路を降りずに公園や地域を散策することができる、首都高初のハイウェ
イオアシスを計画しており、赤山オアシスゾーンと公園ゾーンの合計で、年間約
350 万人の来訪を見込んでいます。
・ 赤山オアシスゾーンにおける物販・商業イベント、(仮称)歴史自然資料館に
おけるアートイベント・映像・展示、プレイロットにおける子ども向け大型遊具、
(仮称)地域物産館における植木販売・各種教室、水源かん養育成樹林における
環境学習など、市民はもとより、首都圏からの広域的な来訪者の多種多様なニー
ズにも対応できるよう、各施設を計画しています。
○赤山オアシスゾーンの施設概要
・商業休憩施設(建築面積 約 2600m2・地上2階建)
諸室: 店舗(物販・飲食)、休憩室、情報発信施設 等
・イベントテント広場(建築面積 約 700m2・地上1階建)
○公園ゾーンの施設概要
・(仮称)歴史自然資料館(建築面積 約 400m2・地上1階建)
諸室: 展示室 等
・(仮称)地域物産館(建築面積 約 600m2・地上1階建)
諸室: 植木展示・販売スペース、集会スペース 等
○駐車場の概要
公園東側駐車場(高速): 約 150 台(この他、既存川口PA駐車場 119 台)
公園東側駐車場(一般): 約 70 台

植木の郷の「植木園」

赤山城(赤山陣屋)跡・治水事業の名門・伊奈郡代の屋敷跡

 赤山陣屋を見守る神社

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 ・・ PAに隣接してと言う表現があり、かつ圏央道・首都高に隣接し、東北道から離れているので、PAと言うことは、川口PAのことでしょうか。
 ・・ モデルにしたのは、長野自動車道の小布施PAに隣接した「ハイウェイオアシス」とのことです。

これは、参考モデルの「小布施ハイウェイオアシス」


 ・・ 力の入れ方は、相当なもので、埼玉の大都市、”川口”を、植木の郷 ・・自然をアピールして、歴史上の偉人・伊奈郡代をからめて、”鋳物の町”にかわる、もとい・並ぶ、川口のアピールのようです。
 ・・ 小布施と同じように、”スマートIC”で高速道への出入りが可能になる計画のようです。
 ・・ 現状は、宅地造成でどんどん自然が破壊されています。

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