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円空の木仏 ・・漂泊の木彫りの仏師

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円空の木仏 ・・漂泊の木彫りの仏師


十二神立像・円空・正法院・県立博物館寄託蔵

円空の生きた時代は、江戸時代初期と言われる。
・・「円空は、江戸時代前期の行脚僧であり、全国に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる。 円空は生涯に約十二万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5350体発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、南は三重県、奈良県までおよぶ。」・・Wikipedia

円空仏像・一本彫り・市立博物館

今でこそ、円空の木彫り仏像は有名で人気が高いが、実は昭和30年頃まで、ほとんど無名に近かった。円空人気の火付け役は劇作家飯沢匡で、昭和30年代に飯沢匡氏が円空をモデルとしたドラマを作成し、それがヒットした時らしい。 それまでは知る人ぞ知るというマイナー仏師であった円空がこの全国放送にのったドラマにより日本中に有名となり、それ以後円空は仏像に興味持つ人を魅了する存在の座を保っているという。
さらに輪をかけたのが「歓喜する円空」の写真付き著作を出版した梅原猛であった。
この二人は円空の人物像に隔たりがあり論争しているが、そこには立ち入らない。

円空は、仏像を彫るとき”一本彫り”という技法を使う。この技法は、それまでの木製仏像制作の方法と顕かに違う。京都・奈良の寺院にある仏像は、寄せ木造りで、大勢の職人が手分けして部分パーツを作り、合体させて磨き上げ、漆を塗って装飾して完成させる。形状は、銅などで作った伝来の仏像とほぼ同じだ。これには教科書があったようだ。
円空の仏像は、一本の丸木を縦に割り、鑿を使って彫り上げる。それは、見た目の通り、荒削りな仏像だが、表情が優しい。

茨城県笠間市にある月崇寺の観音菩薩像の銘には、「御木地土作・大明神」という円空の自署がある。木地土は木地師であり、大明神は木地師の守護神である雄鶴大明神をさしているようだ。どうも、伝来の仏像制作の”仏師”から技法を学んだわけでもなさそうだ。

そうだとすると、木を扱う技術の習得が気に掛かる。
出自を調べると、・・・円空は1632年美濃国(岐阜羽島)で生まれています。母は郡上美並の木地師の娘、とあります。父は、郡上星宮神社の宮司西神頭安永と思われます。何か問題があったのか、父親の神社の宮司は、母子を羽島に遠ざけて面倒を見たようです。ところが円空七歳の時に長良川の洪水で母と死別してしまいます。そこで、円空は西神頭家の庇護を受けに郡上に引き取られます。・・・

郡上市美並の伝承 ・・・円空は寛永九年(1632)美濃国郡上郡の南部、瓢ヶ岳山麓(美並村)で木地師の子として生まれたと推定されています。・・少年時代から山野を歩きまわると共に星宮神社の別当寺である粥川寺に出入りし、雑役のかたわら経文や手習いを教えられ、その間に周辺の山々や伊吹山・白山などに登り、山伏修験との交流があったと考えられています ・・・どうも幼少の時、周りは木地師で、木地師は浮遊の民であり、そのような環境であることが見て取れます。後の放浪の仏師・円空の素地はここにあります。
円空の彫刻の技法、山伏の修験、仏法知識は、七歳から三十四歳まで過ごした瓢が岳山麓や伊吹山山中で醸成されたと見るのが合理的です。

それから、二十五年間、たまに戻りますが、北海道から東北・関東・飛騨などへ仏像を作りながらの旅が延々と続くわけです。

円空の仏像は、かなり広範囲に発見されていますが、やはり生まれ故郷の岐阜県が一番多く、続いて愛知県、三番目になんと埼玉県がランクしています。円空は、生涯で十二万体の仏像を彫り、そのうち四千五百体が確認されています。埼玉県内の円空仏は151体。これらの多くは大宮、岩槻、蓮田など、日光御成街道沿 いの地域に集中しており、文献には埼玉で仏像を彫った事歴は見つけられないが、北海道・東北や日光や富岡へ行く道すがら、日光街道沿いで仏像を彫ったようです。特に日光へ行ったときは、四年間関東に滞在したらしく、このときの仏像が、大宮、蓮田、岩槻に存在するようです。

 十二神将像、薬師如来像、 正法院 見沼区南中野

  

 阿弥陀像・、・・・・・、 満蔵寺 見沼区膝子


 十二神将立像、・・・・・、 薬王寺 見沼区島町


 龍頭観音像、他三体・・、 観音堂 見沼区宮ケ塔
 など

数日前、正法院、満蔵寺、薬王寺を訪ねてみました。観音堂は場所不明で届かず。しかし、案内板はあるものの、写真のみ ・・円空の仏像は、県立博物館へ寄託とのことです。
 *寄託 ・・所有権は移動せず、火事・盗難から守るため、さらに公開するために、管理を県立博物館に任せたようです。
 *上記の理由で、県立博物館は、蓮田の矢島家の”円空仏群”を始めとする、市内近郊の円空仏が保管展示されています。


*仏像の写真は、Gケース(ガラス)越しになり、見にくい光の影が出てしまったものもあります。


棟方志功の話

見沼区南中野の正法院へ行った時、住職は留守で、奥様とお話しする機会を得ました。

・・「埼玉で、”円空仏”が発見されたのは正法院が最初だそうです。・・発見から暫くして、棟方志功が正法院を訪ねてきたそうです。・・棟方志功は、”円空仏”を見つけると、両手に抱きかかえ、”円空さんだ・・円空さんだ・・”と円空の名前を呼び続け、感激で泣き始めたと言うことです。・・棟方志功は、円空が好きだったんですね-」

 ・・正法院の奥さんの話はこれだけでしたが、僕には「棟方志功と円空」という命題が、どうも出来たようです。そいうえば、棟方志功の版画絵と円空の木彫り仏の力強さは共通しているように思えます。美術の専門家ではないのでうまく言えないが、内面には共通項があり、表現の媒体(版画と仏像)が違うだけではないか、なんて、二人の作ったものを見比べると、そう思えてなりません。

 

   ○ 円空の 怒髪 天を衝き 雁が飛ぶ        

 

参考:梅原猛(哲学者)『歓喜する円空』
参考:棟方志功『板極道』、『板散華』。棟方は版画と言わず板画という。



梅園の紅梅 

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梅園の紅梅

 

少しだけ、白梅よりも先駆けて ・・・

 

白梅も、遅れまいと・・・

 

○梅一輪 一輪程のあたたかさ  ・・服部嵐雪     「梅の花が一輪一輪咲く(開く)ので暖かくなる、つまり春が来る」という理解と 「きびしい寒さの中で梅が一輪咲き、それを見るとほんのわずかではあるが、一輪ほどの暖かさが感じられる」との意味と ・・・どちらの方が作者に近づけるのでしょうか。

 

追記:円空仏 驚異の作仏数の疑問?

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追記:円空仏 驚異の作仏数の疑問?

さすがに、権威ある国立博物館や県立博物館の「円空仏展」の案内には記載がないが、”円空の仏像制作数は十二万体”の文字が、至る所で見受けられる。
”本当だろうか?”、”十二万体の仏像制作は可能だろうか?”・・・きわめて、素直な疑問が頭に浮かびます。

春日部市小渕の「小淵山観音院」の円空仏群は七体の円空仏があり、中でも聖観音像は高さ196cmと、円空仏の中でも大型です。到底一日では彫りきれないだろうと思います。大宮南中野の正法院の円空仏は、およそ70cmぐらい、これなら1~2日で一体は可能かも知れません。中には50cm以下の小枝に彫ったものもあるようです。仏像を彫る木材を準備していて、朝早くから夜遅くまで彫れば、”小さき仏像”は三十体ぐらい可能かも知れません。よく旅をした円空は、それでも歩きながらの”作仏”はさすがに無理だとすれば、一日一体の”作仏”がせいぜいだろうと想像できます。

円空の生涯を調べると、1632年美濃・羽島で生まれ、七歳の時長良川の氾濫で母を失い、父のいる美濃・郡上の星宮神社に引き取られたとあります。そこから、星宮神社の別当寺・粥川寺に出入りして、木地師(母親の出自)や山伏の修験に馴染んだとされ、三十四歳まで過ごし、木地師の木の扱い、鑿や斧の使い方を習得したようです。この時、練習作として仏像も彫ったものと考えてよさそうです。自身の納得がいくものも何体かあったと見ていいと思います。そしていよいよ旅に出るわけですが、1666年頃と思われます。
それから25年間、漂泊の仏師・円空の”作仏”の旅は、飛騨・高山の千光寺で終わりを告げます。この時、齢60歳前後、以後遠出の旅の記録は残っていません。没年は、1695年となっていますから、余生を郡上近くの若きときに育った所で過ごしたのでしょう。ここまで来ると、創作活動もかなり衰えていたと思われます。

そうしてみると、一日一体で年間365体、25年間で9125体の仏像を彫ったという計算になります。若きときの習作と、余生の時の作仏を合わせて、およそ一万体という計算が出てきます。

では、いったいどこから円空が12万体の仏像を彫ったという、とてつもない話が出てきたのでしょうか。全てではないが一部の県博物館では、”円空仏展”の案内に、堂々と”12万体”をうたって、案内しています。県博物館は、専門の学芸員が存在して居るはずです。どうして、学芸員の知識の穴をすり抜けてしまったのか気になります。

どうも、円空の生涯の”作仏”数が12万体の根拠は、二つあるようです。

 

ひとつは、飛騨・高山の桂峯寺の十一面観音・善女竜王・今上皇帝像の三尊のうち、今上皇帝像の背面に、墨書で銘文があり、擦れて判読不能の部分もあるが、赤外線写真を拡大すると、ある程度読めるそうです。そこには ・・・

 ・・・・・ 元禄三庚午九月廿六日
 ・・・・・ 今上皇帝 当国万仏
 ・・・・・ □□仏作已」

と判読できるようです。
・元禄三年(1690)9.26、この像の現所在地(高山市上宝町金木戸)で円空がこの仏像を彫ったのは確実です。
・当国万仏・の「当国」は、日本の各地で一万体の仏像を造ったと読むことができます。「当国」を飛騨国と読み替えることは可能だが、少し無理があるように思えます。
・次の行一文字目を「十」とも「千」とも読めるがかなり擦れています。次の文字はマに似た形とみて、これが「万」と読む説と「部」のこざと扁(=”阝”)とみる説があります。
・・「万」と読む説は、「当国」を飛騨とみて、飛騨国で一万、全国合わせると十万体を造り終えたと解釈するようです。・・・これが十二万体説の根拠。
・・「部」と読む説は十部仏、たくさんの種類の仏を造ったという意味とします。

文字の解析はさておき、先述の”作仏”が一日一体がせいぜい、を現実的とすれば、十万という大量の造像を伝説にすぎず、「当国」を日本とし、元禄三年までに一万体、あるいはその前後の数で、沢山作ったという円空の感慨の吐露したというのが、説得力があるように思えます。

いまひとつは、円空が大量の仏像を残した荒子観音寺(名古屋市)に残る『浄海雑記』の「円空上人小伝」に
 ・・「自ラ十二万ノ仏軀ヲ彫刻スルノ大願ヲ発シ」とあるのを根拠にしています。
 ・・既に十八世紀末の資料に十二万造仏の記事が見られる。
 ・・・「浄海雑記」全栄(荒子観音寺第17世住職)天保十五年(1844)
 ・・・書かれたのが、円空没後149年後で、伝聞によると思われ、それも高山の桂峯寺の今上皇帝像の背面文字が根拠の可能性があります。

円空の仏像は、飛騨・高山のように背面に墨書があるものもたまにあるが、ほとんどに銘はなく、その彫りの仕様などから円空作と比定されるようです。従って正確ではなく、また簡易な彫りも多く見受けられ、子供の遊び玩具にされたものも多かったようです。その為か、恐らく散逸や破損で、かなり多くが失われたと思われます。
評価は、稚拙をもって評価するのではなく、その作者の傑作をもって評価すべきであり、稚拙が存在しようとも、いささかに円空仏を貶めるものではありません。




参考:背面文字解読の諸説 ・・著作者のみを記します・
①長谷川公茂氏(2012『円空微笑みの謎』)
②池田勇次氏(2003『円空の原像』)
③浅見龍介氏(2013「飛騨の円空展」図録作品解説)
④池之端甚衛氏(共著「円空心のありか」(2008)
⑤小島梯次氏(2009「円空木喰展」図録作品解説より)
⑥梅原猛氏(2006『歓喜する円空』)
⑦伊藤治雄氏(2010『円空の隠し文』)
・・・背銘についても新解釈を提起しておられるので紹介します。


伊藤氏は赤外線写真を拡大して検討した結果以下のように読めると提起しておられます。
「當国万佛 千面佛作已」  ・・とうこくまんぶつ せんめんぶつ つくりおわんぬ(おわりぬ)。 
その部分をA4に拡大した赤外線写真を見ると、伊藤氏の読み方が正しいように思えます。
これが正しいとすれば、十二万体は否定され、漸く”とてつもない数の伝説”が合理的なところへ収まる様に思えます。


円空の生涯:年譜

和暦、西暦:できごと
寛永9年、1632:美濃国(現在の岐阜県)に生まれる
寛文3年、1663:岐阜県郡上市美並町 神明神社の神像3体を造像
寛文6年6月、1666:北海道に渡り、仏像を作る
寛文7年夏、1667:青森に滞在
寛文9年秋、1669:名古屋市の鉈薬師で造像
寛文11年7月、1671:奈良県法隆寺で学ぶ
延宝3年、1675:奈良県吉野の大峯山で修行
延宝7年7月、1679:滋賀県園城寺で学ぶ
天和2年、1682:栃木県日光で高岳法師から法を授かる
貞享元年、1684:名古屋市荒子観音寺で学ぶ
元禄2年3月、1689:滋賀県伊吹の観音堂の十一面観音像を作る
元禄2年6月、1689:再び日光山に登る
元禄2年、1689:園城寺で秘法を授かる
元禄3年9月、1690:岐阜県高山市上宝の桂峯寺今上皇帝像を作る
元禄5年、1692:岐阜県関市洞戸の高賀神社で雨乞い、歌集制作
元禄8年7月、1695:関市の弥勒寺で歿する

両面宿儺像

円空仏の傑作・晩年の仏像の微笑み

・・了

棟方志功 木の精霊への旅路

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棟方志功 木の精霊への旅路


「わだばゴッホになる」 草野心平

鍛冶屋の息子は。
相槌の火花を散らしながら。
わだばゴッホになる。
裁判所の給仕をやり。
貉(むじな)の仲間と徒党を組んで。
わだばゴッホになる。
とわめいた。
ゴッホにならうとして上京した貧乏青年はしかし。
ゴッホにはならずに。
世界の。
Munakataになった。
古稀の彼は。
つないだ和紙で鉢巻きをし。
板にすれすれ獨眼の。
そして近視の眼鏡をぎらつかせ。
彫る。
棟方志昴を彫りつける。
※原文のまま


埼玉新聞10月15日(土)版には以下のようにありました(2011)。
「・・・・市内の寺を見て歩いた時に、簡素な鉈(なた)彫りの仏像や神像が散在することに気付いた。円空作ではないかと考えた秋山さんは、9月に、円空仏に造詣の深い棟方に、仏像などの写真と手紙を送って鑑定を求めた。・・・棟方は約束通り同市を訪れ、秋山さんの案内で、同市南中野の正法院の薬師如来立像・十二神将像などを見て歩いた。棟方は「円空様デシ。間違いなく円空様でゴザイマショ」と、円空作であることに太鼓判を押してくれたという。これが円空仏発見の端緒となった。・・・」
円空さんの彫ったもの抱いて、満面の笑みですね。最高の笑顔です。
棟方さんは円空さんを見て、「オオ。・・オヤジ・・・」って言ったと。


 
**(注)記事中の秋山喜久雄氏は大宮市の円空仏の発見者であると同時に「大宮雑記帳」の著者でもあります。**世界的な版画家で文化勲章受章者の棟方志功と交流のあった旧大宮市市史編さん室長の故秋山喜久夫さん…2011/10/15 00:00 【埼玉新聞】
・・・上記は、大宮の円空仏発見に関わる、棟方志功と秋山さんの逸話であります。大宮・南中野の正法院の奥さんの話とも繋がりました。

大宮の円空仏の発見は、秋山喜久雄であり、その確認が棟方志功であること上記の文から、そして発見の時期は1973年か、その少し前だろうというのが、以下の書から確認出来ます。
 円空学会編『円空研究 Ⅱ 特集関東・東北・北海道』
  1973.6.30 人間の科学社
   ・・秋山喜久夫「随筆/円空さまの祟りとご利益」 113p~119p・・

参考・・

・・県有形文化財(彫刻)指定H6(1994).3.16


○嵐山に円空仏三体 町文化財級の価値
『毎日新聞』1982年(昭和57)9月8日
○おや珍しい円空仏 前鬼と後鬼お供 役行者
      嵐山の農家から発見
『読売新聞』1982年(昭和57)9月8日
『埼玉新聞』1982年(昭和57)9月9日



さて、ここからは感性の世界。木に宿る”仏”は何を語るのか!


粗々しき風貌と優しきまなざし!
女体菩薩は、母性菩薩なのか!
円空と棟方志功は、”円空仏”をとうしてなにを語らったのか?


棟方志功「二菩薩釈迦十大弟子」


棟方志功「三尊仏の柵」


棟方志功「半跏趺坐菩薩の柵」


棟方志功「不動明王」


既成の秩序からかけ離れた意匠は、怠惰をむさぼっていた美意識をずたずたに切り裂きます。
これでもか・・・・・   これでもか・・・・・・、 と。

大宮・普門院

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大宮・普門院

由緒 : 今は昔・・、応永三十三年(1426)の正月のある夜のことである。
武蔵国一ノ宮、氷川大明神(現、氷川神社)の神主、岩井常陸介が不思議な夢を見た。
 ・・ 白髪の老翁が枕元に立って、「いま社頭に一人の高僧が仮寝の夢を結んでいる。この方は希有な知識があり、高僧である。よってこの方をこの地にとどめて布教せしめよ、西方の観音堂に案内するがよい。」 ・・ といい終わると消えた。・・神主は目覚めて、そ夢を不思議に思い、社頭に行ってみた。 ・・ と、一人の僧が社殿で寝息をたてている。この寒夜に安眠できるとは、よほどの修行者 ・・この僧こそ曹洞宗の巨匠、月江正文禅師であった。 ・・これが普門院創設の端緒となった。

時の領主・金子駿河守大成は、寺号を経『観音普門品偈』の普門をとって普門院として、自らの城郭地に開基し、月江正文禅師を迎えた。
大宮・大成 ・・・地名の裏を覗くと、”大成”の由来が見えてきました。地名に、人名が残る例は幾つかありますが、共通しているのは、その領主が地元民に愛されていた証のように思えます。

*氷川神社の神主・岩井家は、おそらく物部系流であろうと推定する。神道・大明神の最高位は大祝であり、大祝は、”おおほうり”と読む。それに準じるの神職が祝であり、いつの時代にか、”ほうり・祝”が”いわい”に読み替えられて、岩井家になった、とする推論である。・・・しかし根拠はない。

この寺は、幾つかに顔があるが、・・・

この寺は、江戸末期の幕臣・小栗上野介の菩提寺で墓がある。しかし小栗の墓は三つある。

小栗上野介は上野・倉渕で斬首されたが、普門院の寺小増が密かに盗み帰り、当地に埋葬したという。
当時逆賊の汚名があり、密かに埋葬するも目立たぬように、丸石にしたという。

小栗上野介・・ 
小栗上野介は文政10年生まれで、二千五百石の幕府直参であった。秀才であった彼は、万延元年三十四歳の時井伊大老から日米通商条約の遣米使節の一員としてアメリカへ派遣された。帰国後、外国奉行、勘定奉行、江戸町奉行、歩兵奉行、海軍奉行と数多くの役職を歴任。・・慶応四年、鳥羽伏見の戦いに敗れた将軍徳川慶喜に対し、主戦論を強硬に主張して、その職を解任された。以後、薩長維新から、幕府強硬派の主導者として睨まれ、追跡される。上野介は、上野・権田村(現、倉淵村)で捕縛される。「農兵を養成し謀反を企てようとしている。」として逆賊として烏川原で斬首刑となった。四十二の歳だった。
こうして、幕府側の開明派の俊才は、幕府側に生まれたが故に維新側から睨まれて散ったという。

・・大成館跡, 金子駿河守大成が居住したと伝えられる室町時代の館跡。 形状は正方形で面積は三万平米に及ぶ。土塁・空堀・水堀等の遺構とその残影が境内西側にあったが、今はない。

大成館(大成城)跡:当時の面影はない

『新編武蔵風土記稿』・・「普門院、上野国白井村多林寺末、大成山と号す。本尊正観音。開基は金子駿河守なりと云。永享七年(1435)八月廿四日卒し、幻公庵壽居士と諡せし由寺記に載たれど、その事跡詳ならず。又當境内は駿河守の城跡なりともいへり。」
  ・・境内にある金子駿河守の墓・・「是も文字摩滅して詳ならず。永享の二字わづかに読べし。」とある。
『新編武蔵風土記稿』・・「古は金子庄とも称せしよし伝ふれど、當村は昔金子駿河守の知行なりしゆへ誤りいへるならん。又大成は彼駿河守の名乗りともいへり」
・・普門院門前には「金子」の表札を出した大きな家が一軒あった。金子駿河守と繋がるかどうか、は詳しからず。

普門院からそう遠くない地に櫛引氷川神社がある。荒脛巾(アラハバキ)を祀ってあるという。さらに天目一命も祭神にしているという。

櫛引氷川神社


荒脛巾(アラハバキ)は、産鉄と関係があると言われるが、普門院のある大成に鴻沼川が流れ、川に架かる橋は”鍛冶橋”といい、この川沿いは”鍛冶屋堤”と言っている。

確かに、由緒書きに”アラハバキ”の文字はあるのだが、祠は見つからない。(右拡大図)


『新編武蔵風土記稿』には・・「鍛冶屋堤、今は堤もなし、昔鍛冶の住せし処と云」という記録が残る。

鴻沼川:この川の堰堤は、かって鍛冶屋堤といったという。鍛冶橋は、この辺りだが、見つからない。

そういえば、少し前、入間川の沿岸の”砂鉄の寺”を調べたことがあった。

 参照:(2014-11-28 22:28:41 | 歴史) 加治丘陵の麓にある寺 
      ・・・ 砂鉄の寺、高正寺と加治丘陵 ・・仏子と加治と金子

 

入間・仏子の金子家は砂鉄の寺・高正寺の開基で加治・鍛冶族。普門院の開基の金子家は付近に鍛冶橋や鍛冶屋堤を持つという。
偶然にしては、不自然に思う。まして、江戸期に関東郡代の伊那忠治の荒川の東遷までの中世に、入間川は足立の郷・氷川神社の氷川の原の懐深くまで剔り込んでいたのだ。入間川流域を制していた金子党が武蔵一宮の氷川の原を金子党の翼下に治めることは極めて容易に思う。そこで金子一族のことを調べて見た。

 

普門院の”金子駿河守大成”は、武蔵七党の村山党の一支族・金子党の系流なのかも知れない。それにしても、なぜ入間川流域を勢力範囲にしていた、製鉄氏族・金子一族が、武蔵一宮の近くに出現しているのか、それも鍛冶の職業を伴って ・・ この歴史的背景は大変興味を惹かれます。金子駿河は、金子家光のことだという説もあります。

 

『新編風土記稿』には「境内は(金子)駿河守の城跡なりともいへり、今も東北の方に、から堀など残り住居の跡なる事知らる」と言う記述がある。そもそも新編武蔵風土記稿とは、文化・文政期(1804-1829)に編まれた武蔵国の地誌です。境内は、普門院の境内のことで、江戸時代には城跡があり、空堀などがあって住居跡を示している、とあります。
源平合戦の頃・・・
鎌倉時代少し前 金子彦十郎家忠(入間の豪族、武蔵七党の村山党に属し、多摩から指扇辺りまでを領地)は、源頼朝の平氏打倒に抵抗し、河越重頼や畠山重忠らとともに平氏に与していたという記録が残っています。坂東平氏が、頼朝に抵抗したのは最初だけで、やがて畠山重忠を中心に坂東平氏は、頼朝に靡いて行きます。金子党も、例外ではなく頼朝の御家人になっていきます。
やがて時が経ち、室町時代・・・
入間川流域を拠点にしていた金子党の金子家範は加治の瑞泉寺に館を構えます。瑞泉寺には金子一族の宝篋印塔が今も残っているそうです。入間川・仏子には、家範の子金子親範が住み、砂鉄の寺・高正寺を開基しています。
この頃、大宮・指扇は入間川の下流でした。入間川流域に勢力を伸ばしていた金子党は、金子家範の末裔を指扇に置き、金子山城を作って居城としていたようです。大成城は、金子山城の支城的存在で、城と言うより、職業氏族・鍛冶集団の中心的館ではなかったか、と思われます。この領主が、大成城の金子駿河守家光で、その祖は金子家範であり、武蔵七党の村山党であり、金子党でありました。

 

この金子駿河守は、金子駿河守家光とあり、他書に金子駿河大成ともあるが、家光が名を示し、大成は法名であろうと思われる。
この指扇の金子氏は、戦国時代に金子彦十郎の代になって、河越氏と争い敗れ滅亡したと伝えられている。

 

 

普門院・伽羅の木

これほどの大きなキャラは珍しいという。幾星霜を過ごしてきたのやら ・・・


 

入間川と入間様

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入間川と入間様

写真:入間川・加治付近

「入間様」という奇妙な物言いは、実は狂言の中にある。
正直申せば、歌舞伎も狂言も浄瑠璃も・・・その他の古典芸能については、言葉を知っていても、興味もなければ知識もない、無知文盲の輩を自覚している。従ってテレビにその類が写れば、自然とチャンネルを変えるか消すかする方に手が動くというありさま。
こんな自分が、狂言・「入間川」をたまたま読み、「入間様」に、突然興味を抱いた。「入間様」は、”いるまさま”ではなく、”いるまよう”と読む。

狂言・「入間川」 ・・
シテ 大名:山本東次郎、アド 入間の何某:山本則俊、小アド 太郎冠者:山本則秀

左側が大名の山本東次郎氏・重要無形文化財保持者(人間国宝に)

前知識:・・予備知識として、入間川の名に伴い、、その当時、「入間様(いるまよう)」といって、言葉遊びが流行っていたことを頭に入れておく。・・この”入間様”というのは、全く逆の意味を言う”逆さ言葉”のことだという。例えば、楽しい時に「楽しくない」、怒っていないときに「怒っている」、泣いているときに「笑っている」、そんな言葉のキャッチボール遊びを下敷きにして、この狂言は始まります。
あらすじ・・
そこで登場するは、ちょうどあたりを通りがかった「入間の何某」。
大名は、地元の何某に渡り瀬を尋ねます。
「入間の何某」は・・「このあたりは川底が深いから、もうすこしむこうで川を渡りなさい。」親切にも、渡り瀬を教えるのですが、大名は、まるで無視して、太郎冠者や何某の止めるのも聞かず、目前の川瀬を渡りはじめます。・・案の定、深みの石に足を取られて、濡れ鼠になる大名。途端に、大名は激昂して、入間の何某に向かい刀に手を掛けます。
「大名」は・・「入間の何某と名乗るなら、当然、入間様を使うはず。入間の者が、ここは深いというならば、浅瀬の筈。大名をまんまと騙して濡れ鼠にさせた罪は重い。手打ちにしてくれるわ!」
さて、入間の何某はピンチ! どのように切り抜けるのでしょうか?
件の入間の何某は、これに騒がず、「なら、どうする?」と問えば、
「大名」は、・・「弓矢八幡、成敗いたす」と誓わせ、
「入間の何某」・・「やら心安や」と述べます。
つまり、「成敗いたす」は、入間様にしたがって意味を考えると「成敗しない」と言うこと。
大名が入間言葉を持ち出したのを逆手にとって「成敗する」と誓わせたので逆に成敗できないだろうという理屈です。
ここから逆さ言葉を使っての応酬になります。
命を助ける、助けない。忝ない、忝なくもない。物を与えても、祝着にもござらぬ・・・などなど、やり取りが続いて、大名は様々な物を男に与えます。
そこで入間の何某が、頂き物を持って帰ろうとすると、大名が引き留め「入間様を除けて真実を言え」と持ちかけ、男が「身に余ってかたじけのうござる」と言ったのをタネにして、与えた物を取り返し退場する。

読み終わってその時は、なんで入間川が”逆さ言葉”なのか、なんで逆の意味が”入間様”なのか、皆目見当がつかなかった。
だが、物語自体は、洒脱で面白い。本当にあった話とも作り話とも取れるが、娯楽としては、秀逸のもののように思えた。中世・鎌倉・室町・戦国の題材だろう。その頃は防御のため、川に橋を架けなかったそうだ。しかし大名が登場するのは、秀吉以降の時代になり、そこは辻褄が合わないが、狂言の文化は江戸時代に花が咲くから、地頭とか豪族を大名に書き換えたのだろう。とりあえず、訝しげなところをそのままにして、暫く忘れていた。

最近、見つけた埼玉南部の古墳群地図を眺めていた。
考古学の趣味は、あまり熱くはないが、多少持っている。地図を見ながらあれこれ考えるのは楽しい。

写真・旧入間川(毛無川)水系

大宮、浦和、鳩ヶ谷、川口、さらに都・足立区にある古墳群は、弥生時代に集中し、合計すると500を超えるのだろうと推定される。あるいはもっと多いのかも知れない。
古代の食料採取は、海辺や川辺が容易であったのだろう、このことは貝塚から発見される貝殻を中心とする様々な骨から想像することができる。飲料水と川魚も、重要な生活の糧であったのだろう。
古墳群を見ると、植水、側ケ谷戸、大久保、土合、白幡、新郷、谷塚、伊與などの地名の下に古墳群の文字が付いている。その側に旧入間川が流れているのだ。旧入間川は、鳩ヶ谷辺りから毛無川に名前が変わっている。入間川の水路は、伊奈郡代の荒川の西遷で、荒川に変わったが、それからずいぶん前の古代・弥生時代の話である。縄文時代を加えないのは、関東平野の海岸線の南下が弥生時代の寒冷期と重なるという結論が出ているからだ。古墳群のある所は縄文期は全て海の底。

毛無川・入間川の流域 ・・こういう文書も見つけました。

毛長川は川口市の安行慈林に端を発し、鳩ヶ谷市境を下り、川口市江戸袋付近から草加市にかけて、東京都足立区との境をなして東へ流れ、綾瀬川に注ぐ小河川ですが、かつてこの川筋を入間川が流れていた頃はかなりの大河でした。足立区の伊興遺跡付近では当時川幅400m程度の河道があった事が分かっております。
古墳時代の入間川は利根川水系の主流であり、川越市付近から、さいたま市の旧大宮市西部、旧浦和市の大久保、文蔵地区を通って川口市の芝、鳩ヶ谷市の辻、里地区に至り、三ツ和を経た後に現在の毛長川に沿って流れ、足立区の千住付近で東京湾に注いでいたと考えられています。
旧入間川は両岸に自然堤防を発達させ、これら低地部に沖積平野を形成して行き、古墳時代になると足立区北部迄はほぼ陸地化したと考えられております。
草加市西地総田、東地総田、足立区舎人、伊興、花畑等の遺跡は弥生時代終末期~古墳時代初期にかけてほぼ時を同じくして出現しており、古墳時代に入って、低地部の陸地化に伴い、人々がこの自然堤防上に生活圏を拡大していった様子を伺い知る事ができます。

写真・旧入間川・東遷前

確認の意味で、伊奈郡代の荒川東遷前の河川図を眺めてみました。
河川は、関東平野奥地の各山岳部より、扇の要のように江戸に向かって絞り込まれていく様子が見て取れます。これでは雨期に、江戸周辺で、洪水が起こるのは必然です。利根川と荒川を分離する事業は、希代の大事業です。この関東平野の河川図に、その絵を描き実行した人は偉業です。伊奈関東郡代に尊敬を禁じ得ません。

この河川図を見ていて、一つだけ異形の水路をとっている川を見つけました。概ねの川は、水源から多少の蛇行を繰り返しながらほぼ東京湾に向かって流れ注いでいますが、入間川だけ、右上に流れ、やがて右下に流れています。
これだと、・・・
青梅から大宮氷川神社に向かうと、ほぼ東から西へ一直線に向かうとすれば、最初に入間川を渡るときは、水流は”右から左”へ流れ、氷川神社近くの入間川を渡るときは、流れは”左から右”に流れています。同じ川の、”逆さの流れ”です。その頃、そんな道があったかどうかは知りません。


ああ・・これが「入間様(いるまよう)」なんだ。

入間川・出丸橋付近

梅園の梅と福寿草 & 貝塚

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梅園の梅と福寿草 & 貝塚


安行梅園 (in 植物振興・梅園)

大変珍しい、夫婦枝垂れ梅の木 ・・・梅の実が二つ重なる

梅の実

この梅の木が神社にあると御神木とされ、祭神の御神徳により子授けの霊験があると伝えられています。
その場合、御祭神は、木花咲耶姫で瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の妻とされることから二命が祀られることが多いそうです。
・・・しかしここは神社ではありません。

梅園 ・・・

 

 

福寿草

○ 風花の 舞い落ちてさき 福寿草  ・・庄


白鳩椿 名前がおもしろい

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安行梅園に隣接した貝塚

安行の貝塚 ・・・猿貝貝塚

安行氷川神社の脇の道を神社裏の広場に沿って北に向かって数分歩き、ブロック塀が途切れた地点の左手に森に入る小径があり、その小径を約50m入った辺りから、左側斜面に貝殻を多数見ることができます。・・この貝塚は縄文時代後・晩期の遺跡で、外環自動車道の建設に伴い発掘調査が行われました。・・隣接する猿貝北遺跡では昭和56年の発掘調査で、平安時代の製鉄炉6基、奈良時代後半のものと思われる住居跡2軒など多数の遺跡・出土品が発掘されています。

貝塚風景

少し分かりぬくい場所 ・・・

安行氷川神社・隣接で安行氷川公園。まずここを目指します。

少し下って行くと、左に小径があります。貝塚への道。

貝が散らばっている

猿貝貝塚の貝殻 ・・・泥を洗い落とした状態

この穴は、たたら跡? 墓?

隣接の、猿貝北遺跡からは、たたらの跡が発見されたそう!、どこからが北遺跡か分かりません。

 

ここは、大宮台地の端っこです。縄文時代は半島で、海に突き出た状態ではなかったかと想像しています。

この先、川口・新郷にも貝塚(大規模)が発見されています。低地の方は、弥生と古墳時期の遺跡群が、かなりの数散在しています。


 

翌日談 ・・・
猿貝北遺跡の場所も分からぬままで、なにか消化不良のよう、気分的に冴えません。
そこで、翌日発掘に携わった人のブログをネットで見つけました。


確認したのは、猿貝北遺跡 住所:安行大元805
かなり近くに持宝院という寺があります。持宝院住所:安行大元803


それに下記の文書と猿貝北遺跡図面があります。
「この遺跡は外郭環状道路の建設工事に伴い、埼玉県埋蔵文化財調査事業団が1981年10月から1983年7月まで、記録保存を目的として、発掘調査しました、大宮台地の東南の鳩ヶ谷支台にあり、川口市安行(大元)に位置しています、埼玉県選定重要遺跡の猿貝貝塚と隣接しています。」
「猿貝貝塚の北側には、東から西へと沖積谷が深く入り込んでいます、猿貝北遺跡は、この沖積谷とその谷頭、およびその沖積谷と挟んで猿貝貝塚と向かい合う洪積台地にかけて立地しており、遺跡全体の範囲としては、猿貝貝塚を含めた範囲が想定できますが、製鉄遺構が存在するのは、猿貝貝塚と向かい合う台地の南側傾斜面です。」*図面地図は、北が上ですから、南側傾斜面はおかしいように思いますが・・

 

猿貝北遺跡図面

 

これで何とかなりそうです。
ぬぬ!図面を見ると、猿貝北遺跡のほぼ中央に、外環自動車道が走っています。猿貝貝塚と猿貝北遺跡は谷を挟んで向かい合う形・・・遺構の真上に自動車道が建設されたようです。かなり複雑な気持ち ・・・

 

上記は、猿貝北遺跡の端っこの部分 

製鉄遺構は、砂鉄の存在が前提です。この台地・大宮台地の鳩ケ谷支台は泥炭が確認されることから、砂鉄の礫層が存在するのかも知れません。あるいは、旧入間川が、上流から砂鉄を運んできたのかも知れません。
それにしても、川口は、鉄に関係する歴史の多い所です。


河津桜、いま二分咲き ・・・

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河津桜、いま二分咲き ・・・

 

春は名のみの 風の寒さや ・・
しかれども 河津の桜 
見沼用水の岸辺に 二分に咲いて、・・
やがての春を 僅かに告げる

春近し の季節になった。


早春賦 作詞者:吉丸一昌、作曲者:中田章

春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

・・

情景は、安曇野あたりの早春。
この郷の中学校(現・高等学校)の校歌を作りに来た吉丸が、
安曇野の寒さ、そして春の暖かさを詠ったという。

吉丸一昌
大分県臼杵市出身。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。
文部省・尋常小学唱歌編纂委員会の作詞委員会委員長。


河津桜の特徴
一月下旬から二月にかけて開花する早咲き桜である。
花は桃色ないし淡紅色で、‘染井吉野’よりも桃色が濃い。
また花期が一ヶ月と長い。


きさらぎの望月の花は何?

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きさらぎの望月の花は何?


春の花の和歌というと、強烈な印象で、深く記憶に刻まれた西行の歌がある。

  ねがはくは花のもとにて春死なむ
           そのきさらぎの望月の頃  ・・西行

‘きさらぎ'は如月、‘望月’は満月で、二月の満月の頃に咲く花という。
如月(=二月)の満月のころなので、つい梅の花だと思っていた。しかし、この和歌の解説に目を触れる機会があると、おしなべて、‘桜’を示しているのだ。

・梅の写真

・・・西行のころは旧暦。旧暦の”メカニズム”を知りたくなった。旧暦は、明治の初めまで使われていた、といいます。
旧暦では、月齢0になる瞬間を含む日を毎月のついたちと定めるため、日付と月齢が連動していました。月齢のカレンダーは月齢0の瞬間を含む日を「月齢0の日」として表示していますから、どの日でも単純に表示の月齢に1を足せば旧暦の日付となります。つまり、月齢0の日はその月の1日、月齢14の日は15日、月齢29の日は30日という。かなり合理的で分かりやすい。

写真:月齢

そうすると、‘そのきさらぎの望月の頃 ’は二月の15~16日を指していると判断できます。二月中旬と言えば、早咲きの梅の季節です。しかし、解説は、‘桜’だと言っています。

この違いは、恐らく旧暦と新暦の”タイムラグ”にありそうです。 
新暦は、地球の公転を基準にして、地球から見れば、黄道を1周すれば1年とします。1年は、365日と1/4となります。満月の日を、旧暦と新暦で対比させた表が以下です。

2015年(平成27年度)新暦・旧暦満月対比
・・・満月・・・新暦・・・・・・旧暦・・・・
1::満月::1月5日(月) :11月15日
2::満月::2月4日(水) :12月16日
3::満月::3月6日(金) ::1月16日
4::満月::4月4日(土) ::2月16日
5::満月::5月4日(月)::3月16日
6::満月::6月3日(水)::4月17日
7::満月::7月2日(木) ::5月17日
7::満月::7月31日(金)::6月16日
8::満月::8月30日(日)::7月17日
9::名月::9月27日(日)::8月15日
9::満月::9月28日(月)::8月16日
10:満月::10月27日(火)::9月15日
11:満月::11月26日(木)::10月15日
12:満月::12月25日(金)::11月15日

上記の表に依れば、、‘そのきさらぎの望月の頃 ’は、「満月:4月4日(土) :2月16日」となり、新暦では、4月4日(土)になります。
そうすると、梅の時期は終わり、‘桜’の季節と言うことになります。

桜の写真

西行は、何故この様な和歌を作ったのでしょうか、叙情的、情緒的な感性の賜なのでしょうか。否定はしませんが、そこに宗教的な意味合いもあるように思えます。

西行は、仏教に帰依した僧侶であり、仏教の祖は釈迦尊です。
この釈迦尊の”入滅”(物理的には死去のことですが、仏教の死生観と深く関わっているので、単純に死去としない)の逸話があります。
これが、「釈迦涅槃図」で、沙羅双樹(さらそうじゅ)のもとで入滅されたという、絵画です。この涅槃が、頭の中にあり、自ら’入滅’を釈迦尊になぞらえて、あるいは憧れて、この歌は作られたのではなかろうか、と思われます。

夏椿、沙羅双樹の木の写真(転用)

沙羅双樹の木は、日本では育たない様です。(一部に、温室の中でのみ存在する)
代用として、”夏椿(白椿)”がありますが、’桜’とは似つかないようです。
西行としては、釈迦尊の入滅の環境設定に、沙羅双樹を、’桜’に置き換えて、歌を作ったのだろうと思います。

東光寺・涅槃図(転用)

平家物語の冒頭
・・「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」・格調高い文章ですね!
・・平家物語は、物語と言うよりも、世界に誇る”叙事詩”ですね。

沙羅の木  ・・森鴎外

褐色の根府川石に.
白き花はたと落ちたり、.
ありとしも葉がくれに.
見えざりしさらの木の花。

  ・・・褐色・・かちいろ、根府川石・・小田原近くの根府川か?石は庭の踏み石に。

西行

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西行

吉本明 ’西行’ 吉本明全著作集7・作家論1 勁草書房
・”西行小論”・「荒地詩集1957」昭和32年(1957)
・”西行論断片”・「帖面・10」昭和36年12月(1961)
ちなみち、’西行’が単行本として出版されるのは、1998年のことである。

この本の、この頁を開くのは実に48年ぶりになる。
’西行’のことを、吉本がどう捕らえていたか知りたくなった。以前に読んだときの感想は、ほぼ無 いに等しい。というよりも、あの頃は、和歌とか仏教とかにそれほど関心が行かずに、おざなりの読 み込みであり、記憶に薄かったのか、あるいは’共同幻想論’に凡庸な頭がついて行かず、ついでに ’西行’も途中で放棄したかのいずれかである。吉本の他書にはある、傍線も書き込みも、この書に はないのである。

改めて、・・・

”西行論断片”
昭和36年頃の吉本と言えば、記憶が正しければ、かなり政治情況に発言をしていたが、私生活にお いては”泥沼”であったように記憶している。つまり、職を失っている時期で、恋愛も三角関係の情況の最中で、精神的にも経済的にも、疲弊しきっていたような状態であった。
この様な状態は、やがて解決していくが、その頃は・「出口の見えない暗闇のトンネル」の真っ直中 であったのだ。
やがて、経済的基盤の方は、完全予約制の”試行”の発行、恩師・遠山啓からの仕事の斡旋で解決し ていくき、三角関係は相手方の離婚の了承で解決していく。
詩人で思想家の吉本は、一部に熱狂的支持者がいたとしても、彼の本の出版の環境は芳しいものではなかったことは想像出来る。

”西行小論”
昭和36年の吉本明と、その頃彼の書いた’西行’論は到底無関係には思えない。
昭和36年の吉本明は、泥沼にあった。そして、’西行’を書いた。’西行’を書いて、吉本は泥 沼の解決の糸口を見つけようとしたとは思えない。西行の出家とそれに纏わる情況と自分の混沌を重 ね合わせ、おそらく自分の情況を整理したのではないかという伏が見受けられる。げんに、吉本は、 現実情況からの脱出を試みてはいないのだ。西行のように、武士社会を”アウトロウ”したとしても 平穏が待ち構えていないことを知性が知っていたかのようである。

西行が生きた時代は、平安末期、保元平治の乱を経て、鎌倉幕府成立と続く時代である。貴族社会の 没落と勃興する武士社会の狭間の中に、北面の武士であった西行は「あさましき」政争を繰り返す貴 族社会と武士社会を嫌って出家したという。
この西行像は、瀬戸内寂聴・”白道”では、史実に忠実に押さえた表現で、西行の人間像を描いてい る。あるいは、西行の出家の原因が”失恋”にある、というのも認識の根底においても、あからさま にしないで、俗世から離れられずに、淡々と描かれている。もう少しあからさまなのが、白洲正子・ ‘西行‘で、吉本明の‘西行’は二人よりも早い。

○世の中をすててすてえぬここちして都離れぬわが身なりけり

この西行の現実世界への素直な未練は、「未練がありすぎるからかえって厭世的になるという逆説的 な心」に追い詰めていく。
西行は出家僧であり、各地を行脚し、漂泊して山岳に衣を求めるゆえに、歌は自然を扱ったものが多 い。しかし現世への未練が根底に潜むので、叙景の間に潜む叙情は潤いを含むものになる。これが、 西行和歌の本随なのだろう。

鳥部野と言う所は京都の葬送の地。鳥部野を詠う西行の和歌は意外と多い。

○鳥部野を心の中に分けゆけばいまきの露に袖ぞそぼつる
○亡き後をたれと知らねど鳥部山おのおのすごき塚の夕暮れ

西行の葬送の地・鳥部野は、なにも静かに眠っている祖霊や死霊や昔の亡き人ではないのだ。鳥部野 には、つい先に内乱で命を落とし、山野にゴロゴロと屍をうち捨てられた死人武者や飢餓のため餓死 したりした兵火の犠牲者だったりするのだ。「鳥部野を心の中に分けゆけば」・・・この先の思想の行 く末が、西行の死生観に繋がっていく。

死生観というのは、とりもなおさず、現世の生き方の世界観のこと。
ここで吉本明は、浄土宗の世界観と結びつけていきます。ちょうどその頃、中世思想の体系的な宗 教観がかたまりつつある時期と重なります。「源空が浄土宗を開いたのが安元元年(1175)」でした 。源空から親鸞へ続く浄土宗は、西行の”子供歌””恋歌””生活歌”の中に「現実上の基盤、思想 上の基盤の骨格を表示し始めす。動乱と厭世と幼児がえりの心を通って、親鸞の逆説的であり、単純 な信仰へと繋がっていきます。

 ○あそびをせんとやうまれけん
  たわぶれせんとやうまれけん
  遊ぶ子供の声聞けば
  我が身さへこそゆるがるれ
               ・・・・・梁塵秘抄

 ○いとほしやさらに心のおさなびてたまきれらるる恋もするかな
 ○君したふ心のうちは稚児めきて涙もろにもなる我が身かな

上の謡いと和歌を比べると、親鸞より西行の方がはるかに苦くはるかに論理的で、そのくせかなり強 靱な思いが醸し出されています。子供歌の範疇を超えています。

 ○憂かるべきついの思ひを置きながら仮初めの世にまどふ儚さ
 ○一つ身をあまたの風の吹ききりてほむらになすも悲しかりけり

ここまでくると、出家僧に思えない恋歌です。壮絶な秘匿の恋の雄叫びです。
ここまでくると、平安貴族の流れを踏む藤原定家や同時代の思想家・鴨長明の内面性とかなりかけ離 れた所に、西行は位置してきます。長明の西行に対する評価は知りませんが、定家は西行を高く評価 していたようです。ただ定家の和歌理論の幽玄体や有心体の範囲にはまる西行の歌は乏しく、定家の 歌が時代の流れだとしたら、西行の歌はかなり独立していたのではないでしょうか。

”西行論断片”
定家の歌論の書・「愚祕抄」に”仙洞の歌合わせ”のことが書いてある。
この歌合わせに西行が参加したとき、「西行は、気ままに旅をしているときに優れた歌を作る。それ ならば、座を設けて西行を外へだすな。外へ出すと、いい歌を作られてしまう」。こうして、歌合わ せで作った歌に、西行はいい歌が作れなかった、と言う話である。

これは、当時の西行の周りの人が描く固定観念の西行像である。
これはこれで面白いが、案外西行は遊び事が好きで、ユーモラスな存在であったのだろう。
西行の和歌の本質は、基本が生活の歌であり、それを根っこにした”恋歌”や”情景歌”であった。

寂聴は、西行の出家を”失恋‘と見ています。

○いはれ野の萩がたえまのひまひまに このてがしはの花咲けにけり

野原に一面に萩の花が咲いているが、萩の絶えたところに柏の花がさいている、というなんだか平凡 な歌である。平凡ではあるが、懐かしい気分である。おそらく、旅の見聞を相当積んだ後の、凡庸な 風景がいとほしくなった晩年の作であろう。悟りの境地であったかどうかは、どうでもいいのだ。

さて、吉本明の‘西行’を読んで、西行が解けたのでしょうか。正直よく分かりません。当時泥沼 化した経済基盤と三角関係の状況から脱出の糸口は見つけられなかったにしても、文学表現者として 、生活者への視座は、かなり揺るぎないものになっていったという情況だけは、確信して言えると思 います。

白洲正子の視座
白洲正子は、”ねがわくは花の下にて ・・・」の歌の前に、次の二つを配して解説しています。

正子は、西行の漂泊の跡地を自ら辿り、歌と風景から西行の心象に迫ります

○うきよには留めおかじと春風の散らすは花を惜しむなりけり
○諸共にわれをも具して散りね花浮世をいとふ心ある身ぞ

白洲正子には、どうしても、浮き世の未練を引きずった西行であったのでしょう。


 

こう書いた後、前回に書いた「きさらぎの望月の花は何?」の内容は、あれで良かったのだろうか?


○ ねがはくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃  ・・西行


少なくとも、釈迦尊の入滅の時の”涅槃図”に関係する教義的な宗教観とはかけ離れた西行像しか見えてこないのだ。この歌が、確実にある種の宗教観に裏打ちされていることは確かだが、来世への輪廻の思想があるとは到底思えないのだ。あるのは、出家はしたものの、現実世界に未練たっぷりの西行の終焉の姿の、極めて逆説的な美学の世界の、時間軸と空間軸を、あの様に表現したと、・・・。



寒緋桜 開花寸前

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寒緋桜 開花寸前

寒緋桜・別名台湾桜 ・・濃い桃色を特色とする早咲き系の桜

今日は啓蟄 ・・・旧暦だと2月5日ころ
早咲きの桜は、咲き始めています。
   ・・・ 場所は見沼用水路の岸辺、見沼用水は東西に2本流れていますが、ここは西縁。

      水・温み、しかし風冷たく、

河津桜・満開寸前です

 

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蕗の薹

今日は啓蟄 ・・・
薹がたった蕗の薹

食べ頃は過ぎたか!

白鳥の旅立ちの季節・・

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白鳥の旅立ちの季節・・

Merci de nous avoir montré la belle apparence .
Je suis joyeusement souhaiter le voyage vers le nord du pays .
(美しい姿を見せてくれてありがとう。元気に北の国への旅をお祈りしています。)

弥生三月の中頃、空晴天にして穏やかなとき、白鳥は北国へ帰るという。
この数年、毎年目を愉しませてくれた白鳥に、別れを告げにやって来た。
去年も3月の今頃来たが、見送りは、どうやら毎年の行事のようになっている。

越辺川、下流域近く、川島町の八幡橋(冠水橋)からやや上流 

・・・十二月に100羽を超えていたというのに、今日数えれば僅かに11羽。

帰りしなに、駐車場に「日テレのロケ車」が止まって、
カメラマンと同行者と二人ずれが降りてきた。

恐らく、数日前の「白鳥、ボーガンに射られる」のニュース取り上げだろう。
新聞記事としては、”読売”と”毎日”に載ったらしい。
傷ついた白鳥は、東松山の獣医が手当したという。どうやら命は救われたようだ。

ボーガンの矢を抜こうとしている白鳥(転用)

今年は、白鳥は災難続きで、去年に帰りそこねた白鳥が、
犬に片羽をやられ、今またボーガンで射貫かれた。
酷いことをする人もいるものだ。

傷が癒えたら、白鳥は北国へ帰れるのだろうか!

島田橋の復旧

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島田橋の復旧

追跡 ・・・その後 2
去年の6月28日、大雨で、坂戸の島田橋が流失しました。
映画やTVにも度々登場する橋です。
昔の雰囲気を醸し出す”懐かしい橋だったので惜しみました。
坂戸市も、この橋を惜しみ、復旧の予算をつけたところまで確認しました。
予算は年度切りです。復旧は3月末までが年度内。


今日は楽しみに確認に来ました。

工事は始まったようです。

完成形の姿は、今のところ想像すら出来ないが ・・

ひと安心


参考;過去ブログ


追跡 ・・・その後      2014-11-22 13:59:52 | ひとりごと

追跡 ・・・その後の○○  

 坂戸市・「島田橋」が復旧の目途

流失した島田橋、その後・・・ 2014-07-01 15:36:19 | 日記

流失した島田橋、その後・・

 

新郷若宮公園・新郷貝塚

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新郷若宮公園・新郷貝塚


首都高・安行ランプ付近・・
 ・*ランプは正式名ランプウェイ(rampway)の略・高架高速に一般道から合流する坂道のこと。

新郷貝塚は、縄文時代後期、この付近最大の貝塚である。ここいらの貝塚はほとんど発掘せず貝が散乱する小山を残して、自然のまま存在する。傾斜地部分は崩壊の恐れから一部発掘し縄文住居跡が数基見つかっているが、往古の姿をとどめおいた風景は、保存の方法として優れていると思う。ここに市は公園を付設した。
尚、この貝塚の内容は、淡水系のシジミなどがほとんどを占め、アサリやハマグリは少数という。縄文後期、海岸線は南下して遠く、付近は旧入間川が水路を作っていたと思われる。貝塚の所在は、台地(大宮台地・鳩ヶ谷支台)に属し、やがて弥生期になると、低地部分・鳩ヶ谷地区は陸地化して弥生人が移り住み、古墳時代までに、円墳を中心にした多くの古墳群が存在した。

(高校時代の覚え方;弥生は紀元を前後して+-4,古墳は後2、縄文は前20、単位は100年 ・・今思うと懐かしいが縄文20は怪しい)


ちなみに、新郷若宮公園・新郷貝塚の地籍は、川口市東貝塚という。

貝塚・案内板

 

貝塚  

 

貝塚の貝殻が散らばって・


かなりの急斜面の蹴落とし。この前が海原だったのだろう・・

 

公園内小径


新郷貝塚碑

若宮の由来を覗いてみると、貝塚と公園のある場所に、かって”若宮山王神社”が存在したらしい。明治維新政府の政策・「郷村一社の政策」で、若宮山王神社は隣接の”峯の八幡”に合祀されて、”若宮”の地名だけを残すにいたった。峯八幡は付近で一番大きい神社で、村社ではなくこの地域の郷社になっている。創立は古く平安期で、新羅三郎源義光が東征の折、この地に陣を構えたことが発端で、戦勝祈願のため宮を創設したと言う伝承が残る。宮の別当寺は、神社に隣接する”新光寺”で、新光寺の名付けは”新羅三郎源義光”の冠と尾の文字・新と光を当てたという。‘新羅三郎’は新羅神社で元服した三男坊、八幡太郎義家の‘八幡太郎’は‘八幡宮で元服した長男のことと覚える。諸々から源氏は産鉄族、秦系の渡来人説があるが定かではない。

大宮台地&支台 地図 濃い緑の部分は縄文中期まで海で、台地に細く突き出た入江の台地に貝塚は存在する

大宮台地の古地図を眺めると、”入江”の台地に貝塚が存在する。
波穏やかな入江は、豊潤な川や海の食料を供給してくれたに違いない。また台地に生い茂る団栗も貴重な食料だったのだろう。

 

新郷若宮神社付近は、植木農家が多い。

さすが、植木屋の紅梅の枝振り!

 

サンシュウか?これも魅せる木立!

 

公園脇道・白梅、紅梅、寒椿・・・

一時間ぐらいの散策では足りないが、春を告げる木々が気持ちよい。

菜の花

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菜の花

 

『朧月夜』(おぼろづきよ)
文部省唱歌。作詞高野辰之、作曲岡野貞一。
--------------------
1:
菜の花畠に、入日薄れ、
見わたす山の端(は)、霞ふかし。
春風そよふく、空を見れば、
夕月かかりて、にほひ淡し。
2:
里わの火影(ほかげ)も、森の色も、
田中の小路をたどる人も、
蛙(かはづ)のなくねも、かねの音も、
さながら霞める 朧月夜。
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懐かしい唱歌である。
「唱歌誕生」瀬直樹によれば、風景は‘北信濃’の春だそうである。
もっと特定すれば、北信濃・飯山の風景で、戦前飯山は菜種油の産地であったらしい。
二番の鐘の音は、作詞の高野辰之が一時下宿していた飯山の寺だという。
おぼろ月は、大陸からやって来た‘黄砂‘のせいだという。
季節は、今よりもっと後の満月の頃 ・・・

もう、既に春の景色であるが、北信濃の風景とはいかない。
朧月夜でもなければ、黄砂も飛んでいない。
菜の花の畑の規模も小さいのだろうし、凜とした山からの冷風も違うのだろう。
しかし、春の叙情は間違いなく感じる。
もうすぐに、桜も咲くのだろう ・・・

in 近くの公園にて

 


寒緋桜、八分咲き ・・

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   寒緋桜、八分咲き ・・

例による、定時定点観測です。

釣り鐘状の花が特徴で、学名のcampanulata は「カンパニュラの様な」と言う意味で、花が下向きに咲く所になぞられて名付けられた。中国語でも「鐘花櫻花」と呼ばれる。
沖縄県で野生化し、沖縄で「桜」と言えばこのヒカンザクラを指すといわれる。

 

河津桜は、満開 ・・

染井吉野は、3月25日頃か? あと10日 ・・・

白もくれん

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  白もくれん


一輪咲いて、ほかはつぼみ!の 白もくれん


もくれんの 艶やかありし白妙!

背景の常緑樹は、イチイであろうか?伽羅であろうか?伽羅であれば香木・・・

別名を‘アララギ’というが、そういえばそんな名の短歌の雑誌があったような?

  ○白もくれん 落花に歪む 池の月 ・・庄

京の地図

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 :京の地図 

写・京の地図 平安京

京の葬送の地

最近、明の「西行」を読み、また峯八幡の由来で「新羅三郎源義光」を調べて、鳥部野と新羅神社が頭に残っており気にかかっていた。

ある時、京の地図を見ていた。なんとわなしに、‘ボー’と地図を眺めるのはかなり好きである。調べようと思ったわけではない。ただ、鳥部野と新羅神社の位置を確認したかっただけである。

鳥部野は京の葬送の地である。鎌倉、室町の戦乱を思い浮かべて、単純にその頃からの葬送の地であると思い込んでいた。思い込みも激しいが、だが違った。もっと前、平安京の頃かららしい。
京都には、葬送の地は三カ所あるという。

鳥部野(鳥辺野・とりべの)
化野(あだしの)
蓮台野(紫野・れんだいの)

*化野など、地元の人か京都の歴史に詳しい人でしか、読み方を知らない。

鳥部野は、京都東山に位置し、清水寺の背景の山野。
化野は西山・・、蓮台野は北山・・
今でこそ、墓地の体裁を整えているが、鎌倉期までは戦乱の死者や窮乏の餓死者が京中の街角に溢れ、屍が通行のじゃまになるからと捨て置かれた場所なのだ。屍は土を被せるでもなく山積みに置かれ、土に還るのを待つのみ・、肉食・雑食の鳥たちの啄みの対象でもあった。風葬のことである。

写・清水の舞台

清水の舞台は、屍を谷へ投げ込む場所であった。その谷は鳥部野である。時が経ち、清水の舞台は”投げ落とす”から”飛び降りる”という表現に変わった。
その頃、天台宗や真言宗に弔いの思いはあったが教義はなかった。
・・・ 救い難い世相を救済する、は ・・まず埋葬から始まる。衆の安心は、来世は極楽であると言うこと。念仏をひたすら唱えれば、衆すべからく極楽に行ける、と ・・・

化野の入口に念仏寺がある。京都嵯峨野に当たる。法然が念仏道場としたのが発祥である。


京の不思議

京の地図を見ていると不思議なことに気がつく。

写・左京区右京区・京の図

右が左で、左が右なのだ。
地図は、上を北に置くのが約束。
京の中心から右側が左京(区)、左側が右京(区)。逆さまなのだ。
そもそも、平安京を作った人は誰であろうか?その人は、なにを考えていたのだろうか。
平安京は、中国の、唐の都市を模して造られたことで知られる。してみれば唐人が設計したとする可能性が高い。中華思想は中国が中心だとする考え方である。そうすると玄関口は日本海になる。
日本海側から京都を見れば、右は右、左は左 ・・・と言うことになる。

写・日本海流・半島

古来からの渡来人の日本へのルートは、島伝いに九州へ来るルートと、半島から島伝いに出雲へ来るルートと半島から海流を利用して出雲から若狭までの海岸線にたどり着くルートが考えられる。大量の日本への渡来は、技術文化の伝達のためなどは圧倒的に少なく、主に勢力争いの果て敗残した氏族が、生命の危機を覚えて、丸ごと日本に逃避したと見ることが合理的だ。その場合、最後のルート、海流を利用したと見ることが一番正確だろう。
兎に角、文明・文化の玄関口は日本海側であることは間違いない。平安京時代以後、京都北に位置する小浜あたりが一番適しているとおもえる。

 

新羅善神堂(新羅神社)

新羅三郎源義光が元服の儀式を行った新羅神社は、滋賀・大津の三井寺の中にあった。新羅神社は”新羅善神堂”という。

三井寺
 ・・・ 天台寺宗総本山三井寺(園城寺):所在地: 滋賀県大津市園城寺町246

写・新羅神社

写・三井寺(園城寺)

新羅神社は、そんなに珍しいものではないが、京都に求めると、やや困難である。それも、神社と言うより三井寺の一社格・仏閣としてあるので、人を惑わす。
これは、神仏習合のなせる所なのだが、なぜに廃仏毀釈を生き延びたのか、その経緯に詳しくない。建築様式的には流造の神社本殿。何故にこのように複雑かは不明。
三井寺の由来を見て見ると、源氏の源流が少しだけ垣間見えてくる。

 

小米花

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 小米花

 

○白水の 流れた跡や 小米花    東都菊明(一茶の若年の俳号)
○滝落ちて 白き飛沫や 雪柳   庄

雪柳が咲き始めました。
小さき花を集め、純白はこぼれそうです。
俗名は、小米花とも米柳とも。なるほど米に似ています。あげくには小米桜ともいいます。
枝振りは、林立するもあり、枝垂れるもありです。
雪柳は、枝垂れる方に贔屓して付けた名前なのでしょう。

散るが易く、桜より短命のことはご存じでしょうか。

最近、花の散る‘さま’を意識しています。
  ○雪やなぎ 苑をしろくし ひと死せり 山口誓子

参考:
   沈丁花、  ○庭石に 花こぼしをり 沈丁花  ・富安風生
   花蘇芳、    ○風の日や 煤ふりおとす 花蘇芳 ・滝井孝作  : 花蘇芳・・はなずおう

   ゆすらうめ、○万両に ゆすらの花の 白き散る ・正岡子規
   李花、      ○わが園の李花か 庭にちる はだれのいまだ のこりたるかも  ・大伴家持 : 李花・・すもも
   椿、     ○赤い椿 白い椿と 落ちにけり  ・河東碧梧桐
   山吹、   ○ほろほろと 山吹ちるか 滝の音 ・松尾芭蕉

菜の花と桜の共演!

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菜の花と桜の共演! ・・・ in 近くの公園で

早咲きの桜は、‘熱海桜’でしょうか。詳しくは分かりません。
菜の花と桜が咲いています。
桜色は、染井吉野より白っぽく見えます。

 

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