鴨は ”オオバン”ではなさそう。 ”キンクロハジロ”のようです。
公園の池(沼)。
鴨が泳ぎ、水面の波紋がゆれています。
波紋の筋が、光に反射しています。
鴨は ”オオバン”ではなさそう。 ”キンクロハジロ”のようです。
公園の池(沼)。
鴨が泳ぎ、水面の波紋がゆれています。
波紋の筋が、光に反射しています。
安行・ふるさとの森
3月下旬なので、絶滅危惧種・”一輪草”の群落を見にやってきました。
少し早かったようで、まだ咲いていません。やはり4月中旬が見頃でしょうか?!
気持ちのいい散策路です。
トンボ池の隣・沼地に咲く ”水芭蕉”。
散策路脇の ”ボケ”満開です。
一輪草に似た ”姫一輪”だそうです。少しだけ群落!
参考:ナビ設定の住所:川口市安行原 2269-1
染井吉野・桜開花 ? in SAITAMA
遊水池周囲 ・・ 開花 未開花&一部咲きから三分咲き
埼玉県の桜開花は ‘3月30日’と予想されています。
熊谷・桜町にある気象台は、桜の開花を、
荒川・桜堤の標準木で宣言します。
It's groovy!
ここは桜の名所、・・・
大宮公園、・・見沼用水西縁水路、第二公園遊水池周囲、芝川堰堤、 ・・・
桜の並木が、四層にも五層にも重なる、桜の新名所です。
もう一つの桜の新名所、荒川の堰堤・桜草自生地から彩湖周辺も、
植えた桜が成長し、桜木がかなり集積して壮観!
・・・ しかし今日は行けません。
西縁水路・側道 ・・開花 一部咲きから三分咲き
何日か前、桜開花予想を、‘3月26日’としましたが、当たっているかどうか、微妙なところ・・・
みもざ
黄色は、かなり強烈で透明感があり、遠目にも目立つ!
・・・ フサアカシア、ギンヨウアカシアなどのマメ科アカシア属花卉の俗称
この花は、太陽を感じる!
Here Comes The Sun - George Harrison
クイックで再生します ↑
Here Comes The Sun : The Beatles
Here comes the sun, here comes the sun,
and I say it's all right
Little darling, it's been a long cold lonely winter
Little darling, it feels like years since it's been here
Here comes the sun, here comes the sun
and I say it's all right
Little darling, the smiles returning to the faces
Little darling, it seems like years since it's been here
Here comes the sun, here comes the sun
and I say it's all right
Sun, sun, sun, here it comes...
Sun, sun, sun, here it comes...
Sun, sun, sun, here it comes...
Sun, sun, sun, here it comes...
Little darling, I feel that ice is slowly melting
Little darling, it seems like years since it's been clear
Here comes the sun, here comes the sun,
and I say it's all right
It's all right
妙な名前の場所に興味を覚えた。清河寺である。
文字は、見慣れた文字だが、読みは難しい。・・‘せいがんじ‘と読む。
清河寺と言うからには、その名の寺がありそう。
調べたら、上尾道路の大宮・花の丘公苑の反対側の田園の中にある。
由来 ・・・地名の裏側を眺めると、意外に面白い。
清河寺は、室町時代初期、鎌倉公方・足利基氏が、病中に見た夢の中で、亡兄・竹若丸が大龍に乗って枕元に現れ、清い水を基氏の顔にかけた。これにより、病気がたちまちに全快したことから、亡兄追善のため、大竜に乗って現れたことから山号を「大龍山」とし、清い水を与えられたことから寺号を「清河寺」としたのである。この縁により、足利家祈願所となり、追って、岩槻太田家からも篤い帰依を受けた。
由来が”祈願寺”で、御朱印となれば、寺は知行地を有していたはずである。
この場合の常は、一般を檀家としないで、知行地により寺を維持している筈である。
従って、檀家の墓地は少なく、あったとしてもつい最近のものであろう。
付近の清河寺の地籍は、恐らく”清河寺”の知行地であろうと思われる。
足利基氏が関わったとすれば、禅宗。宗派は案の定臨済宗 ・・・
基氏は、足利尊氏四男。長兄が竹若丸、次兄が直冬、三男が義詮。
南北朝の内乱で、鎌倉公方・基氏は鎌倉を離れ、入間川に陣を置き、南朝側と戦っている。
そのため、”入間川殿”の俗称があり、その頃指扇は入間川沿いであった。 ・・上記の由来の逸話はその頃のこと。
大龍山清河寺。
地名自体の由来となっている臨済宗円覚寺派の古刹で、円覚寺の霊場である。
所在地:埼玉県さいたま市西区清河寺792
足利基氏 ・・
基氏は、足利尊氏四男。長兄が竹若丸、次兄が直冬、三男が義詮。
足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱が起こると、父は鎌倉にいた嫡男で基氏の兄義詮に次期将軍として政務を担当させるため京都へ呼び戻し、正平4年/貞和5年(1349)に四男である基氏を鎌倉公方として下し、鎌倉府として機能させる。この折、幼い基氏を補佐した執事(後の関東管領)の1人に上杉憲顕がいた。
観応の擾乱のとき、次兄・直冬は、伯父の直義側に付いた。
南北朝の対立の時、基氏は、関東北朝側のケルン(中核)として存在し、北朝側軍事として、上杉家を関東管領として指名し関東の平定を図った。この時基氏は鎌倉を離れ、入間に仮設の陣を置いている。さらに、小手指川原、笛吹き峠と続く新田義宗との抗争の時、東松山にも陣を置いている。このため、関東は、公方、関東管領が、軍事的力量で国人衆を凌駕していた。さらに分裂した上杉家が、同族同士の抗争を繰り返し、それぞれに加担した国人衆も軍事的力量を蓄積できず弱体化して、ついには小田原北条に勢力を取って代わられた。関東に、有力な戦国大名が生まれなかった背景でもある。
円阿弥
円阿弥 ・・えんなみ/えんあみ
円阿弥 ・・この地名に興味を抱くのは自分だけだろうか?
この人名のような地名は与野にある。
もとい、現在はさいたま市中央区円阿弥。合併により、味も素っ気も薄らいだ。
人名と言ったのは、自分の脳に蓄積された貧弱な知識の語彙から拾うと、
観阿弥、世阿弥、音阿弥という室町期の猿楽師、
つまり能を大成し発展させた人物を連想するからに他ならない。
もっとも観阿弥は、本名を清次といった。
当時流行していた浄土宗の宗派の法名として観阿弥を名乗ったらしい。
北条時宗が、浄土宗を信仰して、法名を”阿弥陀仏”としたのに習い、
清次は、生前法名を”観世音阿弥陀仏”としたが略されて”観阿弥”となった。
これは”号”である。
俳人である‘芭蕉’が俳号であるなら、画家である‘雪舟’が雅号であるなら、まさに”観阿弥”は能号である。
観阿弥に続いた嫡流の”世阿弥”、”音阿弥”も継承した‘号’を名乗った。
しかし円阿弥は地名である。法名で”円阿弥”を名乗る人物がいたかどうかは、かなり興味深いものがある。
円阿弥は、与野の地籍で、大宮に隣接する。
ここは大宮台地の上にあり、荒川の、古くは入間川の氾濫原河原より標高を高くする。
したがって、古より古代人の住居をもつ生活地であったようだ。
付近は、縄文後期、弥生期の遺跡跡、貝塚が多く発見されている。
御屋敷山
円阿弥の地名が文献に登場するのは、中世の頃 ・・・
円阿弥の中心は、どうも御屋敷山のようだ。
御屋敷山と呼ばれた地は江戸時代初期に伊奈氏によって築かれた陣屋跡とされているが、実際には岩槻城主太田氏により築かれた城館を陣屋として再利用したものだろう。
・・・ 岩槻城主太田氏虜の家臣・円阿弥氏が、奉行人として御屋敷山に住んだ、という文章を目にしたのは、円阿弥・日枝神社の由緒からである。
御屋敷山はさいたま市円阿弥の舌状台地斜面に位置し、関東郡代・伊奈半左衛門の陣屋跡と云われている。
円阿弥陣屋
伊奈家三代目・伊奈忠治が、”荒川西遷”の大事業の差配の拠点として、円阿弥の御屋敷山に”陣”を構えたのは確からしい。
伊奈忠治は、関東郡代として赤山に城を構え、赤山道を与野まで引き、その延長線上に、円阿弥陣屋、土屋陣屋を、少し離れて川島に出丸陣屋を作っています。
伊奈家の場合の陣屋は、治水事業の作業の指揮所兼代官・役人の宿泊所の内容で、今で言う飯場も兼ねていたようです。現存する土屋陣屋は、当節の代官・永田氏に払い下げられ、現在に繋がっています。土屋(永田)陣屋屋敷の概容を眺めると、かなり立派な長屋門を持ち、権勢が覗い知ることが出来ます。出丸陣屋の概容も文献から、広大な敷地と屋敷であったと記録(川島町史誌)されています。
資料の少ない円阿弥陣屋も、推して然るべき規模と推察されます。
円阿弥・日枝神社: 円阿弥の鎮守・岩槻城家臣円阿弥氏の郎党・野本氏の勧請?
伊奈家の陣屋は土木作業の飯場?指揮所?
伊奈忠治の荒川西遷の事業のの内容は、まず荒川を、熊谷・久下で締め切ります。水路を開鑿して和田吉野川へ繋げます。和田吉野川は下流の市野川に合流しており、さらに流下して、越辺川を合流した入間川と合流します。和田吉野川以下は既存の水路です。
ここで大工事となるのは、久下の締め切りと吉野川へ繋ぐ開削工事です。さらに、水量の増えた荒川は、そのままでは直ぐに氾濫を起こします。沿岸の堰堤の構築が大工事になります。堰堤の内側の水路の整備が、農作地には絶対不可欠です。上尾、大宮、与野、浦和、戸田、川口の荒川沿いの水田地帯の水路の確保。荒川から取水した鴨川などと、利根川から取水した見沼用水路などがこれに当たります。荒川の西遷は、荒川のみでなく、付帯の水路の工事を含めた総合の治水事業になるわけです。
関東郡代・伊奈家の円阿弥、土屋、出丸の陣屋をみると、同じ方式で、熊谷の久下、吉野川辺りにも、伊奈家の陣屋がありそうです。ありそうですが聞こえてきません。文献に見落としがあるのでしょうか?久下の締め切りは、実行者が忍藩になっていますので、設計と技術指導を伊奈家が行い、忍藩内に、間借りをしたとも考えられます。
円阿弥陣屋の今!
現在、円阿弥陣屋はさいたま市中央区円阿弥の住宅街の中にあります。雑木林の中に遺跡として土塁と空堀が残っていたが、周辺の開発が進み、残念ながら遺構は宅地化により消滅してしまったものもあります。台地の先端部を利用した縄張で規模も案外と大きいもののようです。現在は、雑木林の前に御屋敷山と書かれた木製の札が立てられているが、消滅の危機が迫っている様子。公園化するなどの保存対策が採られていれば良いと思ったが、与野や浦和の再開発は残された僅かの自然も根こそぎ奪ってしまうのでしょうか。
綾瀬川沿い・・ :幕藩体制下の幕府直営地からの年貢米の運搬の水路
綾瀬川
浦和・イオン付近
草加・市内
草加・古綾瀬川と合流付近
伊奈陣屋の余談
○大川戸陣屋屋敷・・埼玉県北葛飾郡松伏町大川戸字新川
・・松伏町の北西部。庄内古川と古利根川に挟まれた土地で 、利根川東遷の拠点。
・・慶長六年(1600)家康が会津の上杉景勝を討とうと出陣し、石田三成挙兵の報を受け江戸に引き返す途次、伊奈忠次に築かせた陣屋御殿。
・・大川戸陣屋御殿、杉浦陣屋 ・伊奈忠次は代官・杉浦定政にその構築を命じ、やがて定政に払い下げた--『杉浦氏文書』
○小菅陣屋・・現東京都葛飾区小菅
・・伊奈氏の江戸屋敷・代官をおいた。
・・将軍の鷹狩りの「御膳所」に供した場所
・・水戸橋付近に河岸あり、 小菅籾藏で綾瀬川で運ばせた米の貯蔵倉庫があった。
○蔵前陣屋
・・浅草・墨田川河岸に幕府の米倉があった。御蔵という。江戸の台所としての機能。御蔵の前の地を蔵前といい、米問屋や役人が住んだと言う。
・・伊奈家はここの奉行として、墨田川の河川管理、集荷・貯蔵管理の責任者として陣屋があった。
・・JR浅草橋駅蔵前口降りて、右橋を越して右側川縁。
参考
★越谷御殿:越谷市御殿町:徳川家康が鷹狩りのために造営。-伊奈忠次が築・管理。
★会田出羽屋敷:越谷市御殿町:家康が鷹狩りのために造営。-伊奈忠次が築・管理。
伊奈陣屋は、前述の3っつと合わせて、六カ所を確認している。
大工事の時、付近に陣屋を建てるのが伊奈流ならばもっとあるのかも知れない。
桜散る
○ それぞれの 宴の席に 桜降る
良寛和尚の桜の俳句
○ 世の中は桜の花になりにけり
-- 季節が来て、至るところで桜が満開 ・・平明で明瞭 穏やかでいい句です。
○ 山は花酒屋酒屋の杉ばやし
-- ‘呑べい’良寛?。桜が咲いては‘呑み‘散っては’呑み‘・・
○ 同じくば花の下にて一とよ寝む
-- 良寛は、西行の生き様に憧れていたのでしょうか。
○ この宮や辛夷の花に散る桜
-- この宮を氷川神社と置き換えて・・、辛夷は、すでに数日前に散っています。
○ 散る桜残る桜も散る桜
-- 良寛辞世の句。神風特攻隊の愛唱だったことを知ると、かなり切ない・・
○ 苞にせむ吉野の里の花がたみ
-- 時同じくして、春の甲子園が終わった。球児たちは甲子園の土を、今も持ち帰っているのだろうか。
与野の七福神
与野は昔鎌倉街道(現在の本町通り)に発達した古い街です。この街にも七福神をお祀りしている寺社があります。
この街に、開運、諸願成就、健康増進に与野七幅神があります。
与野七幅神 ・・・
福禄寿、恵比須神、寿老神、弁財天、大黒天、布袋尊、毘沙門天
与野市は、平成13年(2001)5月1日に浦和市・大宮市と新設合併を行い、さいたま市が誕生したことにより消滅した。そして、平成15年(2003)4月1日、さいたま市の政令指定都市への移行にあたり、おおむね旧与野市域をもって中央区が設置された。
そうなんです。与野は消滅して、なんら歴史の影を帯びていない無機質の中央区になったのです。 ・・・wikipediaより
昔・・江戸時代のことです、与野は、浦和や大宮よりも賑やかな商業の街だったことを知ったのはつい最近のことでした。大宮に鉄道の駅が創設されて、ターミナル駅として機能を始めると、大宮に人口集積が始まり、浦和は政都として人口が集まり、与野は後れを取り始めます。こうした現在の情況を、昔からだと固定観念として擦り込まれていた自分は、目から鱗の思いでした。
交通・交易の要所・与野
江戸から明治の頃の与野の中心は、今の与野本町と七福神がかたまってある与野公園の辺りで、街道の要所でした。江戸時代の埼玉県のもっとも賑やかな街は川越でした。承前の「円阿弥」でも書いたように川越道の起点です。川越道は赤山道の延長で関東郡代の伊奈・赤山城に通じており、ここから繋がる羽根倉街道は、甲州街道の日野宿への道です。この要所に、与野七福神が位置しているわけです。
与野が街道の要であると言うことは、物流の要でもあると言うことです。街道はある程度分かりましたが、物流の主役の荒川の水運の河岸はどうだったのでしょうか。上流では上尾の開明橋付近に河岸があります。調べると、荒川に羽根倉河岸があるそうです。荒川を越すと羽根倉街道は新河岸川を横切っており、志木の新河岸川と柳瀬川の合流付近に引又河岸があります。
近隣からの米穀類・小麦粉、青梅の薪炭、所沢の壁土、所沢・村山・八王子の織物、甲府の葡萄・生糸などが入間川の舟物流の対象のようです。併せて荒川上流からも、穀物を始めとする船荷のその多くが江戸に運ばれました。途中の与野に、物流が幾分か流れ、与野の市は近在の市に比べて抜きんでて、大変な賑わいだったと記録に残ります。
新しい発見は、所沢の壁土、八王子の織物は知っていたが、所沢・村山の織物は意外の産物です。
与野の観光案内より■上町氷川神社
さいたま市中央区本町東6-7
与野の氏神様の上町氷川神社は、樹齢500年のけやきの大木がそびえ立つ樹緑地帯であります。境内は、鳥居から拝殿、本殿へと北に向かって扇子を開いたような末広がりで「扇の宮」とも呼ばれていました。
【ご利益】(福禄寿)幸福(福)と高給(禄)と長寿(寿)の神(中国の神)
■一山神社
さいたま市中央区本町4-10-14
木曽御嶽講の四大講祖のひとり、一山行者ゆかりの神社。毎年冬至には「ゆず祭り」が行われ、炊き上げや火渡りの行事が有名です。
【ご利益】(恵比須神)商売繁盛の福の神(日本の神)
■天祖神社
さいたま市中央区本町西1-14
与野公園の中にあり、正面入口から右へ少し登ると赤い鳥居と社殿があります。境内には1805年に「天下泰平、国家安全」を祈念した石碑や記念碑があります。
【ご利益】(寿老神)老子の化身で、1,500歳の超長寿を全うした長寿の神(中国の神)
■御嶽社
さいたま市中央区本町西2-5
江戸時代、木曾御嶽講四大講祖のひとり一心行者が開山しました。
【ご利益】(弁財天)唯一の女神で、学問・芸術・財運の神(インドの神)
■円乗院
さいたま市本町西1-13-10
鎌倉幕府の武将・畠山重忠が創建した名刹。山門右にある高さ30mの多宝塔は見応え充分です。
【ご利益】(大黒天)右手に小づち、左肩に袋を下げた蓄財の神(インドの神)
■円福寺
さいたま市中央区上峰4-7-28
室町時代からの古刹。本堂には江戸中期の木造阿弥陀如来像や毘沙門天、不動明王を安置しています。
【ご利益】(布袋尊)未来予知ができる福徳の神(中国の神)
■鈴谷大堂
さいたま市中央区鈴谷8-4
入口にある六地蔵は1667年造立。仏堂には阿弥陀如来像(江戸中期)や聖観音坐像(室町)などが安置されています。
【ご利益】(毘沙門天)鎧・兜を身につけた知恵と勇気の守り神(インドの神)
うこんの桜
季節は移ろい、八重桜の咲く頃となりました。
新宿御苑の”八重桜”は、もう見頃でしょうか。
染井吉野などは、まず花が咲き、花が散る頃に葉が出てきます。
八重桜 ・
”八重桜”は、花が咲く頃、葉が見えます。
八重桜と同じ頃、”うこんの桜”も花が咲きます。
うこんの桜
ぬぬぬ・・・!
うこんの桜(八重桜)の葉を、とくとご覧あれ!
葉の色は浅黄色、大きさも丁度いい ・・・
”桜餅”を包む桜の葉は、これか! ・・・
なにか、得心したような気分でした。
まだ、つぼみ が多い ・・
”うこんの桜”の”うこん”は、鬱金のことです。
”うこんの桜”は、‘緑’色に見えます。
実際は、緑ではなくて黄色なのだそうです。しかし緑に見えてしまう。
この淡黄色が香辛料の”鬱金”に似た色なので、‘うこん”の桜となったそうです。
うこん:英語名ターメリック (turmeric)。
うこんの桜は、別名を”ギョイコウ(御衣黄)”ともいいます。
うこん桜と御衣黄は、もともとは違う桜なのですが、
学者でなければ、一般人は同じものとしているみたいです。
実際、素人には見分けが困難で、比較するにも希少過ぎて事欠きます。
◆黄桜考 ・・・
京都・伏見の酒に、”黄桜”があります。
この‘黄桜’は、うこん桜の別名で、
造り酒屋の社長が、うこん桜を大変好んでいて命名したそうです。
またこの酒造に、長年懇意にしていた漫画家の清水崑がデザインしたカッパが、
イメージキャラクターとして採用され、宣伝に一役買ったそうです。
そんな逸話を知ると、つい花見酒は”黄桜”にしてしまいそうです。
○御衣黄を 杯に浮かべて 花見酒
つい、清酒・黄桜を”よいしょ”してしまいましたが、
黄桜の”回し者ではありません。縁もゆかりもありません。
花は盛りを過ぎると淡緑色から赤味を帯びてきます。
上品な色合いの花で、別名「美人桜」とも呼び、
幸せを呼ぶ桜と言われているそうです。
山吹の群生
○山吹の花咲く里に成りぬれば
ここにもいでとおもほゆるかな ・・西行
ここに咲く山吹は一重花です。実がなります。
実の(蓑)ない、八重山吹とは違います。
○ほろほろと山吹ちるか雨の音 ・・偽芭蕉
○世の中は 朽ち葉の色目 愚痴の闇 ・・庄
菜の花の川
・・ 司馬遼太郎の「菜の花の沖(全六巻)」を捩ったわけではありません。
見沼のほぼ中央を貫流する芝川の両側土手に、覆い尽くすように咲き乱れる菜の花を見て、恐らくは”からし菜”だろうけれど、”菜の花の川”と名付けてみました。
芝川は、”悪水”と呼ばれています。こう呼ばれると、なんだか”汚い川”のように聞こえます。
実際きれいな川ではありませんが、芝川の名誉のために誤解の部分を取り除こうと、多少の反論を試みてみます。
悪水
関東郡代・伊奈家の治水に事業の文献を辿ると、時折‘悪水’の表現に出くわします。その意味は、井沢惣兵衛の干拓の事業を例にとれば、見沼(=御沼)の干拓のとき、泥沼であった泥地の、必要部分の水量を残した余分の水を排水する水路のことを悪水と言っているようです。この時点では、炊事や洗濯で出た生活排水の汚水の意味は含まれておりません。もし出たとしても、人口集積が疎らで、少量汚水は悪水の中でやがて浄化されて、ほとんど問題が起こらなかったのでしょう。排水路(=悪水)は干拓には絶対不可欠のようです。
やがて現代に至ると、悪水は昔の田圃を潤すに余りの排水路の意味を離れて、生活排水、汚水の意味に変わっていきます。
この昔の悪水の意味を踏まえないと、沼地や湿地や氾濫原の干拓事業を正確に理解することは出来なく、違和感を覚えることになります。
見沼の田圃を貫流する水路は、東西の用水は上水であり、低地を流れる芝川は悪水であったわけで、芝川が不当な悪評を受けないためにも正しい理解が必要です。
同様の悪のつく言葉が、現代と異なるものに、中世の悪太郎とか悪源太とかがありますが、これも悪人の意味ではなく、荒々しく元気のある幼年、壮年の男児を表している言葉です。
一輪草
4月も中旬になりました。
一輪草を見に、安行原の「ふるさとの森」へやってきました。
今年二度目の訪問です。
前回3月の下旬に来たときは、”一輪草”の影も形もありませんでした。
一輪草
思ったより、可憐です。
群落 ・・・
思ったより小規模です。
‘うな垂れ‘ています。
太陽に向かって、花開き、姿勢を正すのだそうです。
午後の方が、しっかりした姿勢の”一輪草”が見られるのかも知れません。
ふるさとの森・万葉植物園
一輪草の群生地の前庭に、万葉植物園があります。
八重桜・普賢象が咲いています。ほかの八重桜との違いは分かりません。
普賢象には、名札がぶら下がっていました。
”あきるる野”に、”伊奈”がある。
・・・
武蔵五日市(現あきる野市)と東京を結ぶ道を「五日市街道」と云う。
近世以前には「伊奈道」と呼ばれていたらしい。
この道が知られるようになったのは徳川家康が江戸入城からで、江戸城整備に欠かせない石工の職人をここ伊奈村から呼び寄せたことから始まる。
・・・
あきる野市は、なぜに”あきる野”と名付けられたか不思議であるが、
地籍:五日市1081に鎮座する「阿伎留神社」に由来し名付けられたものだろう。
阿伎留神社
この神社は、熊野神社系? 八咫烏が祀ってあるという
また、地籍:伊奈1573に「岩走神社」というのもある。
岩走神社
この地籍の‘伊奈‘と岩走神社には、
”信州伊那谷の石工達が移り住んでこの神社を開いた”という伝承が残る。
この伝承の”伊那谷の石工達が移り住ん」だ時期を平安期としているのは、
自分の貧弱な知識からして矛盾を感じるが、
おそらく、硬質の石材を求めて渡り歩く石工の集団があり、
平安時代に伊奈の石工の一部がここに定住し、家康の江戸入府にともない、縁戚をたよった高遠の石工がさらに移り住んだと言うことだろう。江戸城石垣の奉行が保科正直であり、伊奈道が石材と石工の往来の道と言うことは、この裏付けと言うことになるのではないだろうか。
昔の、伊奈村、伊奈街道
・・・ 武蔵五日市と東京を結ぶ道を「五日市街道」と云うが、近世以前には「伊奈道」と呼ばれていた。
この道は、徳川家康が江戸入府で、江戸城石垣に欠かせない石工の職人を保科正直に命じ、高遠から石工を呼び寄せ、ここ伊奈村に住まわせたことから始まる。
秋川渓谷
その伊奈村は、秋川沿いの、山が迫る平地を耕す農村として、そして地元で切り出された石を利用した石臼・石碑などを作る村として、隣の五日市村より大きな存在であった。「伊奈道」と呼ばれる所以である。
秋川の大きな蛇行箇所を境にして、川上が五日市村で、川下が伊奈村となる。
江戸の人口増加に伴い薪・炭の需要が高まると、上流の五日市村は山に近く、その集散地として有利となり、石工の村の伊奈より栄えていった。
かって、石材や石工の往来が主役であった江戸への道・伊奈道は、熱源の炭や薪の輸送が多くなると、五日市街道と名前が変わっていった。江戸時代後期か明治の頃のことである。
五日市のこと
秋川渓谷の急流を駆け下った秋川は、やがて平野へ降りる。平野へ出た秋川は直ぐに大きく湾曲する。上流から、急流となって流れていた秋川は、流れの速度を急速に緩め、淀む。ここが多摩山林の木材の筏や山地で作った炭の集積場になった。この集積所の近くを、秋川に沿った檜原街道が併走する。
まず、阿伎留神社を中心に檜原街道に、‘炭の市’がたった。次ぎに、絹が市に加わり、農産物を加えて市が活況していった。秋川、檜原から産出される”炭”は、一大消費地・江戸の需要を充たしていった。”炭”の供給地になったのである。
五日市は、月の五日にする”市”のことで、この地の地名になった。江戸の初期、伊奈村より寒村の五日市は、江戸の発展・人口の急増とともに伊奈村を凌いでいった。これが村の大半を山地にし、多摩の山岳に入口に位置する五日市の歴史である。
・・・ 引用 伊奈石のあらまし(原文そのまま)
伊奈石とはどんな石か
伊奈石は硬砂岩と呼ばれる堆積岩の一種である。柔らかで細工がし易いが、磨いても磨いても艶が出ない。色は灰色が多いが、古くなると青みがかってくる。二、三百年も雨ざらしになっていると摩滅が甚だしくなり、そして層状になって剥離する。
あきる野市・玉林寺・石庭
伊奈石の用途・シェアー
伊奈石は臼を主として、五輪塔、宝筐印塔、墓碑、板碑、石灯籠、供養塔、石像など、仏教石造品が時代の移り変わりにつれて盛衰はあったであろうが生産(が続け)られて来た。その他、建物の土台、石段、踏み台、井戸枠、沓脱ぎ、手洗水鉢などの土木・建築材として使われた。五日市郷土館展示の馬つなぎ石や貴志島神社大黒天などは変わった用途として面白い。・・・以下略。
はなみずき 花のトンネル
・漢字:花水木 (マメリカヤマボウシとも)
・英語: dogwood ・・樹皮の煮汁がイヌの皮膚病治療に使用されたから、という説
・花弁に見えるのは総苞。色は白、ピンク
その多くは、街路樹にされる。
花水木 ・・白き桜に似て・
このように、花のトンネルになるのは珍しい。
長野市へは、学生時代から数えると100回を下らないほど行っているが、実は善光寺には、近辺をかすめただけで、外からしか眺めたことがなかった。かなりの失態である。
出没したのは、権堂などの繁華街と裾花などの学園の周辺と川田・若穂などの郊外だけであった。
学園の周辺は、友人の住むへ潜り込み、郊外へは姉の住居で惰眠をむさぼった。若き時代の、熱き心のあったときにであった。
その時は、どうも一事に偏執し他事に心を遣る余裕がない状態で、風景や歴史を無意識のうちに無視したのであろうか。
さて、善光寺が「ご開帳」であるという。
この「ご開帳」は七年に一度という。そして、やや謎めいている。
牛と羊の年の「ご開帳」・
善光寺の七年に一度の「ご開帳」を調べて見ると、実は六年目ごとに「ご開帳」することが分かった。今回は”平成27年4月5日〜5月31日”で、前回は”2009年(平成21年)4月5日(日)〜5月31日(日)”ということのようである。干支で言うなら、丑年と未年がご開帳の年度に当たるらしい。
それにしても、「ご開帳」期間の参詣の人数が、650~750万人という凄まじい数である。この人たちが、日本一と言われる?門前町に溢れかえるという。
秘仏の謎・?
「ご開帳」と言うからには、日頃お目にかかれない秘仏を、期間を限定して、参詣できるように、拝仏できるように開示する行為のようである。
この開示が、ご本尊ではなくてご本尊の「身代わり本尊」というから、話がややこしい。
この「身代わり本尊」は「前立本尊」といって、鎌倉時代に作られて以来、秘仏の本尊の身代わりを勤めてきたという。実に1800年間、身代わり本尊を勤めたわけである。しかし、ご開帳の身代わり・「前立本尊」も奧座におわして、遠目からしか眺めることが出来ず、本堂前に回向柱なるものを立てて前立本尊と回向柱を糸で結び、一般の参詣は、この回向柱に触れることで、仏と縁が結ばれて功徳を受けることが出来るという、これまたややこしい縁の結ばれ方のようです。
牛に引かれて善光寺参り・
この回向柱のことが記録が残るのは江戸時代で、上田から松代へ移封された”真田藩”が、善光寺を領域内にして保護し、ご開帳の度ごとに、松代領内から”回向柱”を切り出して善光寺まで運んだ、という記録が残ります。この運搬に”牛‘が使われたそうです。
・・・牛に引かれて善光寺参り・の逸話は、・・・牛の角に布を取られ、その牛を追いかけていると善光寺まで来てしまい、善光寺の仏が光っておったので有難く思い、善光寺を信心するようになった・・・ という話ですが、余り合理的な辻褄でなく逸話に信憑性は感じられません。むしろ、松代・真田藩が、回向柱を牛で運んだことが話題になり、・・○うしとのみおもひはなちそこの道になれをみちびくおのが心を・・と言うような御詠歌もあって、後世の作家・浮世絵師、東都錦朝楼芳虎が、教訓説話として創作したのではないでしょうか。説話の元になった信州・小県郡は、松代に移る前の真田藩の領域で、美ヶ原の麓の村。真田藩が関わっていることが、多少気になります。
善光寺の秘仏・「一光三尊阿弥陀如来」・
「一光三尊(いっこうさんぞん)阿弥陀如来」は、ひとつの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ、善光寺独特のお姿をされています。
白雉五年(654)以来の秘仏であります。・・善光寺ホームページより
この秘仏は、絶対秘仏といわれ、門外不出。善光寺の貫主(一番えらい人)でさえ拝観を許されていないそうです。・・本当かな?
この門外不出については、基本的にはその通りですが、・・戦国時代、武田と上杉が川中島で争ったとき、上杉が優勢だったとき秘仏は越後へ、武田が優勢だったとき甲斐へ運ばれたそうです。この説は”眉唾物”であり、甲斐へ運ばれた秘仏は”複製”だったのではないかと言われており、甲斐善光寺に鎮座する「一光三尊阿弥陀如来」は、その時のものだ、とされています。
それより信頼性の高い説は、織田信長が、武田を攻めて信州に侵入したときに、善光寺の秘仏を持ち帰り、信長が亡き後は、幾多の人の手に渡り、最後に秀吉のもとに行き着いて、秀吉は功徳多い秘仏を身近に置いておこうと「方広寺」に奉納したが、晩年病気がちになったのは、善光寺の秘仏を善光寺から移した祟りからだと噂になり、漸くもとの善光寺に秘仏を戻したと言われる。・・こちらの方は、記録に信憑性があり、事実のようです。
門外不出の”一光三尊阿弥陀如来”の秘仏も、こんな受難の歴史があるようです。
善光寺の宗教性・
無宗派だそうである。
白雉五年(654)といえば、「寺院派の蘇我馬子」と「神社派の物部守屋」とが争っていた時代の直ぐ後で、法隆寺(607年)の少し後になる。
日本最古の寺院は、飛鳥寺や四天王寺と言われるが、これらの寺は、仏教伝来・伝搬の新羅系仏徒の生活拠点兼政治活動拠点で、寺院の体裁をとっているものの発祥はどうも生臭い。法隆寺も政治活動の拠点で、聖徳太子の拠点でもあったようだ。「蘇我馬子・厩戸皇子(聖徳太子)」と「物部守屋・藤原一族」の政争の最中に、後に善光寺の秘仏になった阿弥陀入来の仏像は、物部氏によって難波の堀河に棄却されたのだという説もある。真偽を辿るのは難しいが、時代としては、推古天皇の時代に仏像は存在したことが確認されている。朝鮮半島から渡ってきたことは事実としても、作られたのは天竺だという説がある。その、”一光三尊阿弥陀如来像”が、本田善光に難波の堀で拾われ、長い旅の後、芋井の郷(長野市)に仏像は安置され、少し後に善光寺が建立されたとなると、仏像自体は日本最古であり、善光寺も最古の寺とほぼ同時代としてもよさそうである。こういうのを表すのに、日本の表現にはないが、西洋では”もっとも古い寺院の一つ‘という言い回し方がある。言い得て、妙な表現である。
最古の寺の一つの善光寺は、天台、真言の宗派以前に存在する。従って法隆寺と同じように無宗派となるわけである。
実際の善光寺の運営を見て見ると、貫主は天台宗の名刹から推挙された住職であり、運営の「大本願」は尼寺で浄土宗、住職は「善光寺上人」とよばれ、ほぼ公家の出身で、現在は鷹司家の出である。無宗派ではあるが、思想的色合いは”浄土宗”が一番近いのかも知れない。
山門と伽藍は特徴的で、東西南北に「四門四額」を配し、東門は「定額山善光寺」、南門は「南命山無量寿寺」、北門は「北空山雲上寺」、西門を「不捨山浄土寺」と称する。
伽藍は、天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊、寛慶寺( - 善光寺山内寺院の一つ、善光寺別当の栗田寺とも)を加えると実に40を数える。
天台宗の「大勧進」と浄土宗の「大本願」
一向一揆の起こった愛知県の三河の農家には、「聖徳太子絵伝」「善光寺如来絵伝」が飾られ、宗派は浄土真宗だという家がかなり多いらしいが、これは何を意味しているのだろうかと昔考えた。その時の疑問の収斂は、仏教信仰という巾の広い概念の中に、その時代の流行の”浄土真宗”があり、あるいは浄土宗があり、一般的には矛盾がなく信仰が同居していたのではないだろうか。浄土宗や浄土真宗と禅宗二派(臨済宗や曹洞宗)とは対立関係にあったのだが、善光寺は包括的前提であるがゆえに、矛盾ではなく受け入れられていたのではないだろうか。これが当時の庶民の感覚であり、今に続いているのである。
例えば、秩父札所三十四カ所巡礼の結願の暁には、あるいは東国札所百カ所巡礼の結願の暁には、集大成として”善光寺参詣”があるのは、そういうことではないのだろうか。この巡礼の札所寺院の宗派は様々であり、その集大成が善光寺であると言うことは、包括的前提とか包括的優位性とかの言葉でしか説明が付かないのである。
善光寺のご開帳の”回向柱前の法要”の儀式は、浄土宗一山の儀式であるという。
このややこしい”不思議”の解読は、上記のように結論してみたが、そんなに自信があるわけではない。ただ、浄土宗の包括的前提である善光寺の存在は、なにも三河地方に限定されたものではなさそうに思えてならないのだ。
『善光寺縁起』とは・
お釈迦様が印度・毘舎離国の大林精舎におられる頃、この国の長者に月蓋という人がありました。長者の家はたいそう富み栄えておりました。しかし、長者は他人に施す心もなく貪欲飽くなき生活をしておりました。ある日、お釈迦様は長者を教え導こうと自らその門を叩かれました。
さすがにお釈迦様のおいでと聞き、長者は黄金の鉢に御馳走を盛って門まで出ました。しかし、「今日供養すれば毎日のように来るであろう。むしろ供養せぬほうがよかろう」と急に欲心を起こして家に入ってしまいました。
月蓋長者には、如是という名の一人の姫君がありました。両親の寵愛は限りなく、掌中の玉と愛育されておりました。
ところがある年、国中に悪疫が流行し、長者の心配もむなしく如是姫はこの恐ろしい病魔にとりつかれてしまいました。
長者は王舎城の名医・耆婆大臣を招くなどあれこれ手を尽くしました。しかし、何の効き目もありません。万金を投じ人智の限りを尽くしても及ばぬ上は、お釈迦様に教えを乞うほかはないと親族たちは申し合わせました。
長者は初め不本意でした。ですが、我が娘の病苦を取り除きたい一念から遂に大林精舎に参り、お釈迦様の御前に進み、従前の罪障を懺悔し、如是姫の命をお救いくださるようにお願い致しました。
お釈迦様は「それは我が力にても及ばぬことである。ただ、西方極楽世界におられる阿弥陀如来様におすがりして南無阿弥陀仏と称えれば、この如来様はたちまちこの場に出現され、姫はもちろんのこと国中の人民を病から救ってくださるであろう」と仰せられました。
長者はお釈迦様の教化に従い、自邸に帰るとさっそく西方に向い香華灯明を供え、心からの念仏を続けました。この時、彼の阿弥陀如来様は西方十万億土の彼方からその身を一尺五寸に縮められ、一光の中に観世音菩薩・大勢至菩薩を伴う三尊の御姿を顕現され大光明を放たれました。
すると国中に流行したさしもの悪疫もたちまちにして治まり、如是姫の病気もたちどころに平癒いたしました。長者はもとより一族の者は皆喜ぶことこの上なく、如来の光明を礼讃いたしました。
長者はこの霊験あらたかなる三尊仏の御姿をお写ししてこの世界に止め置くことを発願し、再びお釈迦様におすがりいたしました。
お釈迦様は長者の願いをおかなえになるため神通第一の目連尊者を竜宮城に遣わされ、閻浮檀金を竜王から貰い受けることとしました。
竜王はお釈迦様の仰せに従い、この竜宮随一の宝物をうやうやしく献上いたしました。
さてこの閻浮檀金を玉の鉢に盛ってお供えし、再び阿弥陀如来様の来臨を請いますと、彼の三尊仏は忽然として宮中に出現なさいました。そして、阿弥陀如来様の嚇嚇たる白毫の光明とお釈迦様の白毫の光明は共に閻浮檀金をお照らしになりました。
すると不思議なことに、閻浮檀金は変じて、三尊仏そのままの御姿が顕現したのでした。長者はたいそう喜び、終生この新仏に奉仕致しました。この新仏こそ、後に日本国において善光寺如来として尊崇を集める仏様であったのです。そして、この三尊仏は印度で多くの人々を救い結縁なさいました。
時は流れ、百済国では聖明王の治世を迎えておりました。この聖明王は月蓋長者の生まれ変わりでした。しかし、王はそれとは知らず悪行を重ねておりました。ところが、如来様が百済国へお渡りになり、過去の因縁をお話しになると、たちまち改心して善政を行なうようになりました。
百済国での教化の後、如来様は次なる教化の地が日本国であることを自ら告げられました。百済国の人民は老若男女を問わず如来様との別れを悲しみ、如来様が船で渡る後を追う者さえありました。
欽明天皇十三年(552年)、尊像は日本国にお渡りになりました。宮中では聖明王から献ぜられたこの尊像を信奉すべきか否かの評議が開かれました。
大臣・蘇我稲目は生身の如来様であるこの尊像を信受することを奏上し、大連・物部尾輿、中臣鎌子は異国の蕃神として退けることを主張しました。
天皇は蘇我稲目にこの尊像をお預けになりました。稲目は我が家に如来をお移しし、やがて向原の家を寺に改め、如来様を安置し、毎日奉仕いたしました。これが我が国仏教寺院の最初である向原寺といいます。
さてこの頃、国内ではにわかに熱病が流行りました。物部尾輿はこれを口実として、天皇に「このような災いの起こるのは蘇我氏が外来の蕃神を信奉するために違いありません」と申し上げ、天皇の御許しを得て向原寺に火を放ちました。
炎々たる猛火はたちまちにして向原寺を灰燼にしました。ところが、彼の如来様は不思議にも全く尊容を損うことがありません。そこで尾輿は再び如来様を炉に投じてふいごで吹きたてたり、鍛冶職に命じてうち潰させたりなどしました。しかし、尊像は少しも損傷されることはありませんでした。
万策尽き、ついに彼等は尊像を難波の堀江に投げ捨てました。その後、蘇我稲目の子・馬子は父の志を継ぎ、篤く仏法を信仰しました。そして、これに反対する物部尾輿の子・守屋を攻め滅ぼし、聖徳太子と共に仏教を奨励しました。ここに初めて仏法は盛んになりました。
聖徳太子は難波の堀江に臨まれ、先に沈められた尊像を宮中にお連れしようと、その御出現を祈念されました。すると如来様は一度水面に浮上され、「今しばらくはこの底にあって我を連れて行くべき者が来るのを待とう。その時こそ多くの衆生を救う機が熟す時なのだ。」と仰せられ、再び御姿を水底に隠されました。
その頃、信濃の国に本田善光という人がありました。ある時、国司に伴って都に参った折、たまたまこの難波の堀江にさしかかりました。すると、「善光、善光」と、いとも妙なる御声がどこからともなく聞こえました。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現しました。
如来様は、善光が過去世に印度では月蓋長者として、百済では聖明王として如来様にお仕えしていたことをお話になりました。そして、この日本国でも多くの衆生を救うために、善光とともに東国へお下りになられることをお告げになりました。善光は歓喜して礼拝し、如来様を背負って信濃の我が家に帰りました。
善光は初め如来様を西のひさしの臼の上に御安置し、やがて御堂を建てて如来様をお移しいたしました。ところが翌朝、善光が参堂いたしますと、尊像の姿はそこにはありません。慌てて家に帰ると、いつのまにか最初に御安置した臼の上にお戻りになっておられました。そして、善光に、「たとえ金銀宝石で飾り立てた御堂であろうとも、念仏の声のないところにしばしも住することはできない。念仏の声するところが我が住みかである」と仰せになりました。
また、善光は貧困で灯明の油にも事欠く有様でした。そうしたところ、如来様は白毫より光明を放たれ、不思議なことに油の無い灯心に火を灯されました。これが現在まで灯り続ける御三燈の灯火の始まりといわれます。
如来様の霊徳は次第に人々の知るところとなり、はるばる山河を越えてこの地を訪れるものは後を絶ちません。時の天皇である皇極帝は、善光寺如来様の御徳の高さに深く心を動かされ、善光と善佐を都に召されて、ついに伽藍造営の勅許を下されました。
こうして、三国伝来の生身の阿弥陀如来様を御安置し、開山・善光の名をそのまま寺号として「善光寺」と称しました。以来千三百年以上の長きにわたり、日本第一の霊場として国内津々浦々の老若男女に信仰されるようになりました。
・・・ 善光寺 「善光寺縁起」より 原文そのまま
これを読むと、・・縁起書そのものは、多少の装飾・創作がなされていそうです。事実、善光寺縁起については、細部が異なる”異説”も存在します。何れが正しいかの詮索は、それほど意味がないように思えます。
肝要の部分は、善光寺が、仏教伝来の初期に関わり、仏教と神道の抗争に巻き込まれ、難産の後に建立されて、広範囲の信仰を獲得していった事歴の方です。
信仰の対象という観点からは、仏像への信仰が本意であって、寺院という建物への信仰は副次的産物の筈です。
そう考えると、善光寺への信仰は、仏教への信仰の源流と見なすことも出来そうです。
これは新たなる発見でもないようです。
天台宗も真言宗も、浄土宗も臨済宗も、どの宗派に属する仏徒達何れも、歴史を辿れば、善光寺は”仏教の母なる存在”であることを認めていた伏があります。
これを理解した上で、善光寺を見ると、少し違った風景が見えてきそうです。
善光寺は”葵”の紋!
葵の文様 と 善光寺葵紋
”葵”の紋と言えば、徳川家の”三つ葉葵”が、まず頭に浮かびます。しかし、徳川家のルーツを辿ると、徳川家はもともとは”葵”の紋ではありません。家康の祖先は、後醍醐天皇に味方した新田義貞に繋がります。しかし、上野の新田家の紋は「一つ引両」であり、素直には繋がりません。徳川家のルーツは、新田家の分家筋・世良田家流で得川家と言われ、群馬県の太田辺りに源流を持つと言われています。そういえば、太田市に”徳川町‘というのがありましたが、ここが源流かどうか、定かではありません。南朝側に与した得川家の家康の祖先は、足利尊氏に追われて、遊行僧となり、長阿弥・徳阿弥と名乗って諸国を放浪したすえ奥三河へ流れ着きます。ここで、ここの豪族の酒井家に保護されて養子になり、さらに酒井家の領内の松平家が嫡子がなかったため、松平家を継ぐことになります。この酒井家の領地が、奥三河の加茂郡であり、松平家は加茂神社の神官だったわけで、ここで加茂神社の紋”葵”の紋を使うようになります。
ようやく、徳川家の”葵の紋”が出てきました。
しかし、京都・上下・鴨神社の”紋”は、「双葉葵」です。
地方の加茂神社の神官は、そのまま「双葉葵紋」は使えません。地方の神官達は、そこで「茎葵紋」を使うようになりました。
この三河地方には、徳川家の重臣で、やはり徳川四天王の一つの本多家があります。徳川大名を20くらい輩出したあの本多家です。有名なのは、家康の幼少からの参謀・相談役の本多正信ですが、本多家も又加茂神社の神官家が出自となっています。当然、この本多家の家紋は、「茎葵紋」です。
長くなりましたが、ようやく”義光の寺”・善光寺と三河・本多家が繋がりました。善光寺の開祖・本田善光の末裔が、三河・本多家と言うことになります。従って、本田家・本多家の家紋・寺紋は同じだと言うこと。真偽のほどは分かりませんが、三河・本多家は、善光寺の末裔だと信じていたようです。
本田善光が、善光寺を開基した後の系譜を追っかけてみると、善光寺開基の後甲斐の国司に任命され、その後京都へ召還されています。この数代後に血流は途絶えて、空いた本田家の名跡に藤原系(一説には加茂系)の三河・本多家の祖先が入り、本多家を継承します。この本田家は九州に流れて定住しますが、足利尊氏が建武の新政途中で後醍醐天皇と反目し、九州まで落とされます。この尊氏が、九州で、反撃を開始するときに尊氏側として参加し、京都まで攻め上り足利政権を作ります。この功績により、本多家は三河に土地を与えられて、豪族として存立していきます。これは、三河・本多家の家歴ですから客観性が乏しいが、前半の本田善光の名跡を継いだ辺りはやや怪しいが、その他は信じていいのではないかと思っています。
善光寺の寺紋・茎葵紋がいつ頃から使われ始めたのか、定かではありません。ゆえに、権力を持った本多正信が、江戸時代から、善光寺に「茎葵紋」を使わせた可能性もあるわけで、あるいは歴代の善光寺の貫主が”加茂神社の加茂一族‘であった可能性もあるわけで、何れが正しいか、あるいは正しくないかは、よく分かりません。
さてさて、これだけ歴史があると、是非に秘仏”一光三尊阿弥陀如来”を拝顔したく希うが、それが叶わぬとなれば”前立観音”を拝みたくもあり、今年行ってみることにします。
善光寺の御詠歌
○身はここに 心は信濃の 善光寺 みちびきためへ 弥陀の浄土へ
○埋もれし難波の池の弥陀如来 背なに負いめす本田義光
4月・卯月の花
・卯の花 ・・うつぎの花
・おからの煮物
・さつき
・かきつばた
・つつじ
・あやめ
朝 6時の散歩道 ・・・
なぜか、みな艶やか!
”しゃが”と”木鼻彫刻”
in 卯月の正法寺 巌殿観音
しゃが
参考:しゃがの群落 慈光寺
木鼻彫刻
木鼻とは「木の先端」という意味の「木端(きばな)」が転じて「木鼻」に書き換えられた
ものです。頭貫などの水平材(横木)が柱から突き出した部分に施された彫刻などの装
飾をいいます。
「大仏様木鼻」には象鼻・獅子鼻・獏鼻などがあり、「禅宗様木鼻」には渦紋・植物紋
などがあります。我が国が誇れる独特の建築意匠です。
獏 ・・中国から日本へ伝わった伝説の生物
体は熊、鼻は象、目はサイ、尾は牛、脚は虎。昔に神が動物を創造した際に、余った半端物を用いて獏を創造したと言われている。獏は悪夢を喰う。転じて、”邪除け”。
正法寺の祠の彫刻
木鼻彫刻・獏
鶴 ・・破風彫刻
物見山のつつじ in 東松山
ゴールデンウィーク 中の平日 ・・
物見山のつつじ
天気、晴朗にして風もなし ・・
ぼつぼつ ・・・名勝の仲間入りに!
総持院は、牡丹の寺
・・・ さいたま市緑区南部領辻にある真言宗・総持院は、牡丹の寺として ・・・
寺の庭先、竹藪前の”桐の木”は切り倒されてなくなっていました。”桐の花”は、もう見られません。