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鹿塩川と北川露頭とかくれ里

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鹿塩川と北川露頭

 

  ・・鹿塩と北川、この文字に馴染んで知っている人は、地元以外では、かなり少ないと思う。

まず鹿塩・・・
この地区は大鹿村で、昔諏訪大社の神領で、諏訪神社の御調の動物の鹿が多く住んでいたため大鹿と名が付き、鹿は諏訪神社へのお供え物として貴重であったらしい。その地は、所々に塩泉が湧き、明治の頃に塩泉から塩を精製する工場も作られていた歴史もある。その場所は鹿塩(カジオ)と呼ばれ、この地区を流れる川を鹿塩(カジオ)川と呼んだ。
さらに大鹿村は、鹿塩地区と大河原地区に分かれる。この大河原地区からは、小渋川が流れ、やがて鹿塩川を合流し、天竜川へ流れ込む。この小渋川の上流の大河原地区の流れは、天竜川と逆行し、南から北へと流れる。これは、長谷を流れる三峰川も同様で、逆行する。天竜川は諏訪湖を源流に、浜松で太平洋に注ぐ大河で、北から南に貫流する。地図を開いた時、基本は、絶えず北が上を指す。この逆行は、ひとえに、中央構造線の存在に由来する。またこれは、地質学の領域であるが・・・


そして、大河原・・・
大鹿村大河原を有名にしているのは、南北朝時代の、後醍醐天皇の御子の宗良親王が、約四十年ぐらい、大鹿の大河原を本拠地にして、天皇から征東大将軍の称号を貰い、南朝勢力の指揮をした場所だからである。これが、大まかな鹿塩と大河原、・・大鹿の説明である。


北川はその、鹿塩の一部分である。そして、深山幽谷を文字通り風景にした地区である。
従って、この地名を認知している人は、地元を除けば、よほど歴史の好きな人と、地学・地質学の好事家に、昔は限られていた。

 

 ・・北川露頭説明板

最近この地区、大鹿の鹿塩の北川地区がかなり注目を浴びるようになってきているという。
それは、左右の地層帶がぶつかり合う地点、中央構造線の地層の断面がえぐり取られて、古代の姿を露出した、所謂”露頭”が、かなりのエネルギーを発生させているという。このエネルギーは、古い神社の大木の比ではない、凄まじさと言うが、まことに興味深い話で、ついつい体験を希望したくなる。この連中の類は、歴史の学徒でも地質学の学徒でもなさそうだ。おかげで、北川露頭の駐車場は時に満車になり、分杭峠から北川地区を走るR152線(秋葉街道)のこの区間が、国道でありながら二車線をとれない巾狭の道で、溢れた車が秋葉街道を塞ぎ、通行不能になることが度々あるようだ。従って、北川露頭見学者は、分杭の峠の駐車場で、マイクロバスへの乗り換えを強要されるそうだが、・・・本日は、何故か「フリーパス」。露頭の駐車場も、普通、軽の車が三台ぐらい・・・。

うす茶色に見えるのが領家変成帯の花崗岩、緑がかった青色に見えるのが三波川変成帯の緑色片岩

・・・地層帯のぶつかる部分は、砕かれて砂礫にになっています。・・圧力と熱が岩盤を砕いたのでしょうか・・

ここは、ゼロ磁場地帯に近いこともあり、パワースポットとしても有名

・・パワースポットの体験記です・・

・・断層上にいるととても体が温まりました。温泉に入っているわけではないですが、温泉に浸かったときのようなジンジン感が体を巡ります。不思議です。・・手にぶつぶつが出てきました。まるで高級霜降り牛のような色になりました。エネルギーの高い場所に行くとこのような現象がよく起こります。・・30分ほど滞在しましたが、体調がとても良くなりました。この間すれ違った方々は5グループだけです。とてもマイナーな北川露頭ですが、エネルギーのレベルはとても高いと感じました。また行ってみたいと思います。・・

・・・しかし、露頭に立ってみたが、自分にはよく分かりませんでした。

露頭の説明・・・これは、各説明文を要約したもので、当然受け売りです。
・領家変成帯の花崗岩と、三波川変成帯の緑色片岩の間が、地質境界の中央構造線です。暗色に見える地質境界の部分は、幅約1mの断層ガウジまたは断層各礫になっています。
・・領家変成帯は、中央構造線の内帯に接する変成岩帯である。高温低圧型の変成岩が分布する。これは、浜松市天竜区水窪の奥領家と言うところで発見されて名付けられたという。


・・三波川変成帯は、秩父の三波川の発見に由来すると言われる。この地層からは、恐竜の骨が発見されていることから、第四白亜紀から恐竜時代が始まったと見られる。神流川沿いの神流町の恐竜センターは、恐竜の骨と足跡の発見により作られたと聞きます。

よく化石が発見される地層は、この第四白亜紀からと言われます。

 

転記

三波川変成帯の岩石は、海洋プレートが沈む付近の地下15〜30kmで変成作用を受けた低温高圧型の変成岩です。また領家変成帯の岩石は、海洋プレートが地下100km以上沈む付近でマグマが上昇し、高温で変成作用を受けた高温低圧型の変成岩です。ともに三波川変成帯と領家変成帯は、白亜紀に形成された対の変成帯です。 このように、両変成帯の岩石は、水平距離で60km以上、深さの差で5〜20kmkm、離れたところにありました。

 

鹿塩川・・・ ・・ふだんは、穏やかな川で、ヤマメやイワナや鮎が沢山いそうです。しかし塩分を含んだ水質かどうかは、分かりません。たぶん、あまりにも薄められて、検出できないのでは、と思います。

鹿塩川は、まさにその中央構造線の真上、ライン上を流れる川です。先に見たように、地層帯のぶつかり合うラインは、何故か岩盤が粉砕されて礫になり、弱そうです。流れが穏やかの時はまだしも、台風や梅雨時は水嵩を増し、急流となりそうです。それも時を重ねれば、、岸壁を削り、谷を深くえぐっていきそうです。そのために、露頭を顕す場所も多くなりそうです。・・・そういえば大鹿村の違う箇所で、最近また、露頭が発見されたそうです・・中央構造線安康(あんこう)露頭

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  S36災害の時、この北川地区に大洪水と土砂崩れが襲いました。

・・・・・写真は、その時の土砂崩れの、爪痕の風景です。場所は、北川露頭のある、まさに山麓上部に当たります。

三六災害・・・・・ 多いときには110戸もの家があったというが、昭和36年の災害(三六災害)当時は39戸だった。三六災害時には、村人は集団キャンプをして救助を待った。1.5km程北に中央構造線の北川露頭がある。・・北川分校 鹿塩小学校北川分校は、土石流に襲われ、いち早く破壊されてしまった。一方、大花沢からの土石流で鹿塩川の河床が上昇し、川沿いの民家は土砂に埋没してしまった。分校は1962(昭和37)年に閉校。北川集落はこの水害を機に、1963(昭和38)年に廃村となった。

 

神社跡   神社の祠の中に、閻魔さまでしょうか?・・・

 

  色んな石碑、下伊那農業高校分校の文字も見えます。

 

かくれ里・・・木地師の村

軽トラでやってきた、農家の夫婦と話をしました。蜜蜂の箱らしきを二つもっています。花の多い所において、蜜をとるのでしょう。かってあったという、北川集落のことを聞いてみました。S36災害で、北川集落は、壊滅的損害を受けて、集落全員が集落を去ったと言います。S36災害の時、この集落は、深山幽谷の奥地でかなり離れており、人里の天竜川流域も被害甚大なこともあり、着の身着のままで集団キャンプし、食料もなく、約一週間救援を待ったと言います。いままでの居住地も土砂崩れで埋まり、木地師の生業のろくろも家も失い、やがて全員がこの地を去ったと伝えられています。

北川露頭の駐車場の所が、木地師の大蔵家の跡地と教えてくれました。ようやく宅地の跡の石垣のみを幾つか残しています。

              

 

下の沢に、人間の手による石の積み替えの痕跡が見えます。どうやら水車小屋の跡に見えます。木地師ですから、水車を使って、ろくろを回していたようです。

 

 昭和三六年  長野県下伊那郡大鹿村鹿塩字北川大字柄山 ・・・この住所は、確かに存在した。

いま、柄山の人々はこの地を去り、地図の上から、柄山の地名が消えてしまった。 ・・・ご冥福を

 

 

 

 


桶谷と柄山 二つのかくれ里

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桶谷と柄山 二つのかくれ里

秋葉街道(R152)をさらに南下すると、分岐に到る。右手にひたすら行くと、中央道松川ICに通じる。左手に行くと、大鹿村中心部の大河原地区に通じる。大河原地区は、南朝の征東将軍の宗良親王の本拠地の所、寄ってみたい気持ちがやまやまなれど、今日は午後6時より、本来の目的の法事が待っていて、PM5:30までにはたどり着かねばならない。そこでハンドルを右に切り、小渋川沿いに下降する。暫くすると、渓谷を見下ろす景観の良いところに出て、駐車スペースもあるようだ。小渋ダムのこの先にあるようだ。この渓谷を渡す橋に、桶谷橋の名前がついている。ここが桶谷なのだ。

桶谷・・・
この桶谷は、古くは王家谷と書き、北条道や北条坂の地名が残り、北条を名字とする四家(1家は分家)があり、頭(上)屋敷、別当、木戸口を名乗っていたという。だが、昭和に「小渋ダム」が出来て沈んだという。さらに奥が四徳で、昔北条時行が潜んだと言われる四徳小屋があったという。・・と書いて、さっと理解出来る人がいるのか、疑わしい。

そこで簡略に、まず北条時行だが、時代を建武の新政頃に遡る。後醍醐天皇の宣下を受けた足利兄弟と新田義貞は、長年続いた鎌倉幕府の北条家を打ち破り、先に後醍醐天皇の政権、そして直ぐに足利幕府を作ることになる。この場合の北条家は、後に小田原で勢力を拡大してくる早雲の北条家と区分するため、前北条家とか北条得宗家と名付けて区分する。ちなみに、早雲が祖の北条家は、後北条家とか小田原北条家とかいわれる。方便である。

打ち負られた北条得宗家には、子が二人いたが、長男が殺され、次男は、北条得宗家の御身内であった諏訪家に守られて、諏訪地方で秘して育てられ成人する。彼が北条時行、一般には相模次郎と呼ばれた得宗家の嫡流である。この地方に隠棲したのは、どうも幼年の頃ではなさそうで、その後の可能性が高い。

成人した相模次郎は、諏訪家と諏訪神党の協力で、中先代の戦いを起こす。信濃国は、鎌倉幕府に恩義の侍が多く、上野、下野、武蔵野の勢力を合流しながら、鎌倉に攻め入り、最初は勝利するが、やがて破れ、信濃に舞い戻る。ここで、足利尊氏と仲違いした後醍醐天皇の南朝と合流し、大徳王寺城で、今一度再起の旗をあげる。ここでも敗れるわけだが、この頃の前後に、この桶谷に隠棲した可能性があるという。成人した相模次郎(北条時行)は当然妻子がいてもおかしくない。

頭(上)屋敷、別当、木戸口は、主家の北条時行かその妻子、別当は経済を差配し、木戸口は門番守衛を意味する。この場合の敵は、松尾小笠原の信濃守護家となる。追っ手の目に付きやすい「王家谷」では、いかにも都合が悪い。そこで桶谷になったという。・・ここから更に山奥に、四徳という部落があるという。ここにも、時行の隠れ家があるという。・・秋葉街道沿いのこの地区は、諏訪大社の神領の内。いずれも伝承だが、桶谷の北条四家は、確認されている事項と聞く。

 

            ・・小渋ダム 日本一美しいダム?ともいわれる 

このダムとダム湖は、赤石山系の伊那山脈を背景に、ダム風景でもっとも美しい一つとされています。そして、幾つかの歴史を湖底に秘めているとも言われています。

この桶谷にあった神社は、小渋ダムに沈んだが、沈む前に大鹿村の神社に合祀されたと聞きます。桶谷の北条四家も、ダムの底に沈んだのかも知れません。そうなれば、もう手の届かぬところとなり、伝承は伝承として、静かに消えていくのかも知れません。

さて、桶谷橋を通ると対岸の生田の方に出られます。ナビで、行く先を、松川東小学校に設定します。山奥で迷ったら、それこそ大変です。右手は眼下に小渋ダムを、左手は落石注意の崖壁、道は1.5車線の狭い道。対向車が来ないことを祈りつつ、出発です。幸い、杖突峠のようなバイクツーリングの集団にも普通車の対向車にも出会わずに幾つかのトンネルを潜ると、小学校前に行き着きました。

ここにも、生田柄山があります。
その昔は、木地師の里、そして、明治大正期は大鹿村へ、物資を運ぶ運搬業の問屋をした人もいたそうです。ここの木地師の血が、自分の中に八分の一ぐらい流れているそうです。孤高の民として、菊の紋章を表し、惟喬親王を敬愛した木地師の末裔です。

         ・・墓を探してみたが五七の桐紋のようで、菊紋らしきが擦れています。

ここで不思議発見です。

墓石の碑銘は、戒名ではありません。「大蔵某+命」と「大蔵某姫+命」の並記です。たぶん夫婦の墓なのでしょう。経済的な理由ではなさそうです。

むかしに、神道では、墓石に、戒名は彫らずに、「本名と命」を彫ったという文章を,かすかに記憶しています。だがその出典も思い出せませんが、確か、神道には”来世という黄泉の世界観”はなく、従って、戒名は異神の宗教の思想であり、忌み嫌ったのではないでしょうか。死後の世界、地獄とか極楽は、仏教の話です。ここの大蔵一族は、神道の信心深い木地師であったようです。

そうしますと、次ぎに述べる「柄山神社」は、かれらにかなり重要な氏神になります。

 ・・転記 4月始め頃?

松川町生田地区の柄山神社のシダレザクラと神社境内の写真です。柄山自治会所も兼ねているようです。
・・・古くから木地師の桜として有名。樹齢は約200年、根元の幹周りは約4m、高さは約15m。
 
二つの柄山(からやま)について

北川柄山
北川柄山(大鹿村北入地区)は、現在存在しない地区である。明治になって、山の生業でまず3家が住み、やがて入植が増え、最高時40戸弱を数え、やがて全村移転で消えた地区であるからという。昭和36災害によって、家屋全財産が流され、再建が不可能とされたからである。明治以前、北川は小渋川の支流の沢(川)の名前であった。勿論以前は、人が住んでいなかった地区である。移り住んだ人達のもとは、中川村や生田の山の人が多かった、と書いてあった。
北川柄山に住んだ人達は、もと生田柄山のひと、と考えるのは、あながち無理な筋道でも無さそうだ。この北川柄山に最初に住んだ家は、2人は大蔵と呼び、1人は小椋と呼んだ。木地師であったという。・・・大鹿村誌より

生田柄山
生田柄山に大蔵姓と小椋姓を名乗る家もあるそうだ。そこの大蔵家と小椋姓も木地師をルーツに持つとあった。この生田柄山は、江戸時代元禄の頃まで人家と地名を確認できていない。それまで長峯あるいは長峰とだけ呼ばれた地域だったらしい。・・松川町史
生田と大鹿を分離して考えるのは地元の考えと違うようです。大鹿村誌でも生田柄山も生田桶谷も、あたかも自分の村のような記載です。それと桶谷の神社遺産は小渋ダムに沈む前、保管を依頼されたのは大鹿の民族館だそうです。

           ・・生田柄山風景

 

木地師 について
木地師と言う者がある。
生業を木にもとめ、山に住み、主に食器としての椀や盆をつくり、それを里に売って生活していた者達のことである。この者達は、「轆轤(ろくろ)」を使い、円形の器を造ることを得意とした。木も選ばれた。しゃもじやさじやへら等は堅い桜木を、椀や盆などはほうやとちを、箸などは杉を材料とした。生活は小集団単位で3から5家族ぐらいが多かったらしい。

年代は古く、平安時代の話、文徳天皇の長男に惟喬親王(これたかしんのう)がいた。文徳天皇は長男の惟喬に天皇を継がせたかったが、弟に天皇を継がせることになった。異母兄弟の弟の方が外戚の力がかなり強かったためとされる。惟喬親王は滋賀県神崎郡永源寺町の小椋谷に逃れたという。この地の小椋谷で惟喬親王は、木材の木地を荒挽し、轆轤を使って盆や椀などを作る技法を伝えたとされる。また、木地師の伝承では文徳天皇の第一皇子惟喬親王を職能の祖とし、その側近藤原実秀の子孫が小椋氏、惟仲の子孫が大蔵氏になったという。近江の小椋谷にある君ケ畑と蛭谷は、羊腸たる山道の果てにあり、とりわけ木地屋(師)が自分たちの先祖と称している蛭谷の惟喬親王の墓のあたりは、南北朝時代の宝篋印塔が残っており、深山幽谷の気配が濃くたたようところであった。君ケ畑の地名は惟喬親王が幽開された所ということからつけられたというが、さだかではない。

木地師文書と言うものがある。
この木地師文書というもの、「文徳天皇の大一皇子、小野宮惟喬親王が祖神で、この一族の小椋、小倉、大倉、大蔵の姓のものは木地師であるから、この文書を所持しているものは全国の山の樹木を切ることを許す」という免許状である。この文書を持った木地師は日本の各地に散っていった。食器を作る木を求めての旅であるから、ほとんど山岳である。木地屋(師)は関所の通行手形のかわりに、近江の君ケ畑の高松御所の十六の花弁の菊の焼印を押した木札を見せて、関所をまかり通っていたことが、「伊勢参宮道中記」(会津の小椋長四郎家に伝えられた嘉永三年(1850))に記されている。求めた木の多い山を見つけ住み、山の木を伐りつくすと、次の山に移っていった。これを「飛」と称した。木地屋(師)の移動するところ、その足跡を印す地名が生まれた。各地に残る轆轤、轆轤谷、六呂山、六郎谷、六郎丸、六九谷、六六師、鹿路などの地名は彼らの居住したところである。

白洲正子の「かくれ里」の中に、永源寺町の小椋谷に、奉納された道祖神があり、碑の記銘に、奉納下伊那郡大蔵某とあるそうです。今となっては特定しようにも出来ませんが、大平だと木曽郡と名乗る様な気がするので、ここいらの人の様な気がします。定かではありません。道祖神には、道しるべの意味と旅の途中で行き倒れた人の霊を慰める意味を含めたようにも思えます。

生田柄山から、赤石山脈を見上げると、”南信の骨をなし”て、実に”巍巍”として眼に写ります。

             ・・塩見岳       ・・・ 拝

三州街道(R153) 道の駅 信州平谷 ・・・ひまわりの里

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三州街道(R153) 道の駅信州平谷 ・・・ひまわりの里

併設されている「信州平谷温泉ひまわりの湯」「しょうかん亭」「ほっとパークひらや郷(Go!!)」、標高920m

県境、平谷に設営されたこの道の駅は、思いのほか人気者らしい・・・・・

人気の秘密を探って見ると、まず、田舎の風景、自然の豊かさ・・赤石山系の端の山の中だから当たり前・・三河の母なる大河、矢作川の源流付近・・ここがポイントかも知れない・・そして、温泉設備・たぶん鉱泉の沸かし湯だろうが、ことのほか、すこぶる評判がいい・・そして清潔な付随設備・トイレなど、と比較的経済的な食事処など・・・

もとより、貶すつもりもないが、かなり欠点の少ない道の駅といえようか、と思う。・・こんなに褒めると、道の駅平谷のポチか回し者と思われかも知れないが、それはない・・・・・。

周辺のひまわり畑・・・

 

ここが、温泉施設・・ひまわりの湯、と言うらしい。

 

      駐車場風景

写真では、スペースに余裕がありそうだが、かなり広い駐車場はほぼ満車状態・・・・・。車の8割が、三河ナンバーです。

R153線は、昔三州街道と言われた。つまり、信州と三河を結ぶ道路なのです。県境の平谷の隣は、もう豊田市なのです。愛知県豊田市なのだから、愛知県です。

ですが、塩の道三州街道を、歴史として読み込んできた自分には、どうもすっきり来ません。飯田から豊田まで、表示では約80Kmぐらいになっています。平谷から県境を越える豊田まで20分ぐらいでいけそうです。平成の大合併で、足助や稲武あたりが豊田になっていると言うことでしょうか。

どうも、この車の三河ナンバーの数の多さを見ますと、ドライブ一時間半以内の三河の人達の、田舎的オアシスに、平谷が認定されている様子です・・・冬は、数カ所、スキー場もできたそうですし・・・

 

   ・・平谷の隣村の根羽村は、もとは三河だったみたいですよ。

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五平餅・・

せっかくだからと、近辺の旧跡を見て見ると、平谷には意外と少ない。三州街道を、飯田から辿ると、まず駒場、そして浪合、続いて平谷、そして根羽と連なる。根羽を過ぎると、そこはもう、三河、通称は奥三河と呼ばれる地区となる。奥三河を含めてこの一帯を、勝手に名付ければ、”五平餅食文化圏”となる。五平餅が、発祥を、三河とするのか、信濃とするのか、それは各(オノオノ)が主張しているので、どちらかに組みするつもりはない。五平が作ったのか、御幣に似ていたからなのか、は御幣に似ていたからの名の由来に賛成する。御幣とは・・神社などで、注連縄にぶら下がる、あの菱形状の白い紙の連なりを指し、外界の邪気から聖なる領域を”バリヤー”するものである。・・神社は、御幣により護られた神域・・・・・菓子など無かった時代、五平餅は、”はれ”の時に食する貴重な食べ物だったらしい。

四つの集落・・

駒場(コマンバ)、浪合、平谷、根羽の集落を見ると、駒場と浪合は比較的大きな集落をなし、旧跡も多い。・・・駒場は古代に東山道の古道の分岐点で、木曽を通る東山道の脇往還として栄え、塩の道の宿場としても有名で、現代で言う”トラックターミナル”の昔版の”馬のターミナル”=駒場であったみたいだ。古くは、小笠原守護家の、そして武田信玄の東方の守り、駒場城もあった。駒場は武田信玄の終焉(しゆうえん)の地(長岳寺)もここにある。・・・浪合は、駒場から分岐して足助、岡崎方面に向かう三州街道の宿場である。ここにも信玄は”浪合関”を設けて、織田・徳川の脅威を防いでいたらしい。更に昔の南北朝時代、南朝の将軍、宗良親王が死んだ後、息子の尹良親王は、ここ浪合で、新田軍とともに、幕府軍と戦い、ここで討ち死にしたらしい。尹良親王の墓もあるという。・・この尹良親王伝承はかなり疑わしい点もあるが、南朝軍が幕府軍と戦った痕跡は確からしい。・・・平谷と根羽は、三州街道、塩の道にあり、関の外に存在し、垣外(ガイト)であった。とくに根羽は、信玄によって信濃に属したが、住民は三河を向いているという。

 

 

 

三州街道 塩の道 足助

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三州街道 足助宿 ・・・今は豊田市足助 の街風景です・・・

蔵屋敷の風景は、郷愁を呼びます・・・

 

昔、塩問屋だった、・・・莨屋(タバコヤ)さん

 足助川・・     ・・この川は、巴川に繋ぎ、やがて矢作川に合流します・・

 格子戸の見世  ・・バスの待合、潜ると休憩所と御輿倉、奥は裏通りに・ 

  

           足助城 転記

足助 塩問屋 宿場・・・

三河湾等でつくられた塩は、足助で運搬に便利なように七貫目(約26kg)に俵を包み直したため、「足助塩」、「足助直し」と呼ばれました。塩は一頭の馬の背に四俵乗せて、江戸時代には年間五〇〇〇頭を超える馬が信州向けの塩を運んだといわれます。信州からは年貢米・たばこなどの山の幸が運ばれました。この街道で物資を運搬した人々を中馬と呼び、伊那街道は中馬街道とも呼ばれました。

天和元年(1681)に、七〇〇〇石の旗本本多氏が知行地として陣屋を置き、幕末まで足助町を支配しました。宿場町と商業の中心地として、本多氏が与えた特権などにより豊かな御用商人も生まれました。この時期の経済力が、足助の歴史的な町並みをつくったのです。特権の一つとして、足助町の問屋連中は馬稼ぎ人から「荷ノ口銭」と呼ばれる通行税を徴収したため、江戸時代末期に足助の商人が打ち壊しにあった「加茂一揆」や通行税廃止を求める争い「荷ノ」が起こりました。

明治時代になり、盛んな物資輸送で足助の町はさらに繁栄しましたが、明治四〇年(1907)に国鉄中央線が30km北の東濃地域に開通すると、信州と結ぶ交通の要衝としての役割は全くなくなりました。

足助城

足助城の城主は、鈴木氏で、盟主は今川だったり家康だったりしたようです。武田信玄の三河侵攻の時落とされて、暫く信玄配下の下条氏の守城になりました。この頃、桶狭間の戦いがあり、今川家は信長に滅ぼされます。そして、信玄と駿河の境界線協定を行い、家康は、三河と遠州と駿河の三国の太守になります。大大名への出発です。この境界線の策定をしたのは、信玄側は足助守城下条氏で、家康側は東三河の旗頭酒井忠次であったとされます。

・・・足助の町は、蔵が残る風情のある町でした。不満は、昼時リーズナブルな食事の場所が見つからなかったこと、車の駐車場が見つからなかったこと・・これは当日夜祭のためかも知れませんが・・できれば平谷のように”道の駅”があれば、便利に思います。・・・これで、リターン、帰路につきます・・・

藤圭子 哀悼・・・8/22 ネットのニュースに藤圭子死亡・・が流れました

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今日は、昔よく聞いていた、”暗い歌”を続けて聞いて、暗くなります。暗くなりすぎたら、そこからは、少しずつ明るくなっていくのでしょうか・・・

 

ふじけいこ  ゆめはよるひらく &

http://www.youtube.com/watch?v=PpRthIn_IvM

あさかわまき よがあけたら・・

http://www.youtube.com/watch?v=PpRthIn_IvM

あさかわまき かもめ・・

http://www.youtube.com/watch?v=2rI9xaT42nE

りりー わたしはないています・・

http://www.youtube.com/watch?v=WnK0LtfVm2o

ちあきなおみ かすばのおんな・・

http://www.youtube.com/watch?v=WnK0LtfVm2o

ふじけいこ かすばのおんな・・

http://www.youtube.com/watch?v=Oy35M5jcDFg

あさかわまき くらいにちようび・・

http://www.youtube.com/watch?v=aLiz6nYJT0I

かるめんまき ときにはははのないこのように・・

http://www.youtube.com/watch?v=f6I-Shd9Oqk

 ふじけいこ シングル・・うたいくつか

 

・・・ビートルズも、、たまにジャズも好きですが、こういう演歌も、好きでしたよ ・・・       哀悼・拝 

 

三才山 小日向付近 ・・・御射神社

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三才山(ミサヤマ)は松本市と上田市の境に存在する山であり、隣接は美ヶ原である。

所は、松本市の奥・・・

ここへの興味は、三才山の女鳥羽川沿いにある小日向という集落が、この地方の小豪族、小日向氏の住居ではないかという、歴史的な興味からで、あるいは何の関係もない場所かも知れないが、とりあえず訪ねてみようか、という程度であった。痕跡は残っていないかも知れない、と言う不安はあった。

歴史書に、松本に小日向源右衛門があり、高遠の保科正俊の娘が小日向に嫁ぎ、また小日向源右衛門から正俊の嫡男正直のもとへ、側女が来ているという。少し時が立った時、正直の嫡子正光と真田昌幸の娘との夫婦に子がなかった時、跡継ぎ約束で、保科正俊の娘と小日向源右衛門の子の小源太を養子に迎えている。その小日向家の屋敷跡と小日向家の墓でもないかと、当たりをつけて来たのだが・・・・・・さらに欲を言えば、保科正俊の所在不明の墓があるのではないかと・・・・・

ひとえに歴史的興味である。

  これは、三才山トンネルで、有料のトンネル。国道R254・・・

R254は、長い国道。三桁国道としては、R125とともに、首都圏でかなり交通量が多い国道で、走る区間により、違った名前を持っていることでも有名。埼玉県内は川越街道、群馬県では富岡街道、長野県に入ると佐久街道と呼ばれる。国道R18の脇往還でもある。

さらに延長すると松本まで繋がる。昔この道は松本上田往還と呼ばれた。あるいは上田松本往還なのかも知れないが・ 。つづら折りの長い峠道で、難所でもあったという。それが、R254が整備され、三才山にトンネルを掘り、かなり往来がし易くなったという。

聞けば、このルートの所要時間は、高速とほぼ同じ、というではないか。高速の松本市街への入口付近は、常に渋滞している。時間帯により、このルートの方が早く着けそうな気がする。もともと目的地はこのルート沿い、東部湯ノ丸で高速を降り、R254の道をたどる。

三才山トンネルの松本側出口付近が、三才山小日向という地名である。ここが小日向か・・・・・最近松本からのバスも、少し下の稲倉(シナグラ)までで、小日向橋のバス停は、廃線で、バス停を寂しくしている・・・

歴史的な建造物を尋ねると、城跡と神社だという。

 城跡の城の名は、三才山城。城主の名前すら覚束ない。どうも、小笠原氏の出城は砦のようで、あるいは小笠原家臣の赤沢氏の出城であるかも知れない。

       三才山城入口、民家脇の坂道。  城跡の地図

来たついで、と思い、急坂を登ってみたが、途中から獣道みたいになり山中に消えていく・・・これではまずい、と思い、諦めて引き返す。もともと城跡の探索は目的にはないのだ・・・

歴史考察・・・

この三才山小日向地区は、古くは、御射(ミサ)神社の神領の本郷六村の一つとされた地区であるそうだ。後に小笠原家が信濃守護として、伊賀等荘より府中(=松本)に移ってきて、その家中の赤沢氏が稲倉に城を構えて、この小日向を含む本郷六村も領内としたらしい。この赤沢氏は、小笠原家の別流(別家)らしい。そういえば、武士の嗜み、「弓馬の礼法」を作ったとされる小笠原家は、惣領家ととに赤沢家が実務を担当し、ともに、この「弓馬の礼法」を作成し、将軍家及び天皇家に、「礼法」を教授すべく、京に上り、赤沢家はそのまま京に居着いたとされる。あな赤沢家の片割れが、稲倉城の城主だったのかと・・・

さらに、御射神社

   御射神社鳥居・・・

この神社は、秋宮と言うらしい。と言うことは、春宮もあることを意味する。当然秋宮が奥の院と言うことになる。境内を彷徨くと和歌の奉納案内版がある。そこには、和歌とともに詠み人、諏訪社大祝某の記名もある。なるほど、御射神社と諏訪社大祝の二つの確証で、ここは諏訪社・・・、参詣の子供連れに、この神社は諏訪神社ですか、と尋ねたら、「そうらしいが、地元ではないので詳しくは分からない」とのこと。

また、彷徨いていると、老婦人、というか農家のおばさんと話ができた。このおばさんが話し好きな人で、神社近くの人は、比較的新しい移住者で、古くからの人は城山の麓の地区にいるらしい。小日向を名に持つ家は、旧家どころか、どこにもないという。狭い地区なので皆顔見知りだという。また、地区の旧家は、柳沢一族だという。「ほら、あの家も、その家も、あそこも、柳沢・・」という。御射神社の春社は、浅間温泉郷の奥にあるという。古い墓地はどこ・・・には、小日向橋を神社に向かう、橋を越して右手の丘の上・・・行ってみたが、沢山の道祖神の他は、柳沢ばかり・・・小日向はない。

小日方家探索は、むなしい結果に終わる。・・・・・小日向が真田の家臣で、領有地に小日向を見るが、そこではないと思う。・・小日向家が、保科正貞と良好な関係があり、飯野藩近くに移住した可能性はある。・・小日向家が、御射神社の宮司で春社・浅間温泉郷に移る住んだ可能性は・・・課題は残ったが、小日向探索は、ここまで・・・

  ・・御射神社境内1  ・・御射神社境内2

御射神社境内3

 

ミサ山のこと・・・

かって、地図で三才山の文字も見て、”ミサ”やまと読むのだと知って、キリスト教関連の山みたいだと、面白がって、すぐに忘れた。今回に、この付近に来た時、山の名前は直ぐ思い出した。そして、この御射神社に出会う。御射神社の御射の読み方だが、多くは”みしゃ”と読み、”みさ”とも読むらしい。この地の御射神社は、”みさじんじゃ”と呼んでいるという。創建は古いが、資料が無いため、年代は確定できなく不詳とされるが、平安末期の吾妻鏡に浅間社が見えることから、平安かそれ以前よりの存在が予想される。それぞれを勘案してみると、三才山の名は、御射神社のある山から由来し、名前は後付けのように思える。

 ある御射山神社

諏訪大社と御射神社あるいは御射山

御射山は御社山、御斎山、三才山とも、多少ややこしいが同義とされる。それは、諏訪神社の神事、生け贄用の狩りの山を示すとされる。これを表現するのに”射る”を文字に含めた”御射山”が、もっとも神事にふさわしい山の名前のようだが、のちに変化して一般化しても不思議はない。この神事のために、生け贄用に、狩り場で射られる、二つ角の動物は、鹿である。そういえば、諏訪神領の南部奥地にある大鹿村は、いかにも鹿のいそうな村であった。

と、ここまでは、諏訪神社あるいは諏訪大社に関心のある方は、ご存じの基礎的知識の範囲。

神社には、眷属が一対社稜を護るという風習がある。この場合の眷属は、俗に”家来”と訳してもいいが、より正確には家来一属という種族と理解した方がよい。神社を護る眷属に、狼や蛙は希で、その多くは”狛犬”という。御射神社の眷属も、その”狛犬”である。よく見ると、いや、よく見なくても、これは普通の犬ではない。毛がふさふさして、ライオンに似ている。神社の歴史は、紐解くまでもなく、古代から存在している。確認できる”存在”の資料でも、物部守屋の時代からは確かだ。それ以前より日本にライオンがいた痕跡は、嘘でもない。とすれば、ライオンを見た人が、日本に伝えた。それも、神社とか、神道に関わった人が・・・と考えるのが筋道がたっているように思える。他に考えようがあるのだろうか。だが、神社とか神道は、日本独自のとか日本古来のとか、ずっと考えてきた。

”ミサ”、”狛犬の獅子”、”生け贄の神事”、これらの日本の神社に関わることが、何処かの国から来たとすれば、どこの何という宗教なのだろうか、これは興味があるテーマだと思う。ただ、深入りすると出口のない、カオスの沼に溺れてしまいそうな気がするので、そこそこにと肝に銘じて・・・

想像はつくが、まず”生け贄の神事”と”ミサ”という言葉から・・・

旧約聖書では生贄の子羊の血は、イスラエルの民を護り、救うものであった、とあります。それは神の儀式であり、神の食事でもあったようです。この儀式のことを”ミサ”と呼んだらしい。このことを、古代ユダヤ教の解説書から辿ってみると、「古代ユダヤ教には生贄(いけにえ)の風習があったようで、ユダヤ教およびキリスト教の聖典である旧約聖書には、罪を贖(あがな)うために子羊などの生贄を捧げる習慣についての記述が散見されます。たとえば『レビ記』には、”生贄を捧げ、穢れのない子羊の血を振りまく”とあります」。聖杯はこの場合、子羊から出る血を受け止める器で、聖なる儀式に使うための道具で、かなり重要であったようです。日本では、羊がいないため、山野に生息する鹿が代用されたと見るのは、極めて自然な成り行きです。・・・この生け贄儀式は、神の食事儀礼として”ミサ”と呼んだみたいです。

古代ユダヤ教を受け継いだキリスト教・・・参考

罪を贖(あがな)うため儀式は、イエスによって変形されて、キリスト教に受け継がれます。イエスの十字架への磔の刑は、自らを子羊になぞらえての”生け贄”の儀式です。キリスト教において、この「子羊の血」の代わりとなったのがイエス・キリストの血、すなわち赤ワインでした。 最後の晩餐の席で、イエス・キリストはパンを取り、「これがわたしのからだである」といい、杯をとり「これがわたしの血である」といって弟子たちに与えたとされています。キリストは「神の子羊」とも呼ばれるように、人間の罪に対する贖いとして、キリストが未来永劫に生贄の役割を果たすと考えられており、キリスト教徒たちは、穢れのない神の子羊であるイエスの血によって、すべての人間が免罪され得ると考えています。このことを聖体変化とか聖体拝領と呼んだようです。

ただ、この”生け贄”の儀式に、鹿を供物にする日本の神社は、諏訪神社しか確認していません。他の神社がどうなのか、また昔の儀式にはあったのか、興味のあるところですが、今は分かりません。諏訪神社は、かなり原始的な儀式を継承しているのは確かです。

次ぎに、古代ユダヤ教の死生観を見て見ます。

「一般的な宗教に見られる「死後の世界」というものは存在しない。最後の審判の時にすべての魂が復活し、現世で善行を成し遂げた者は永遠の魂を手に入れ、悪行を重ねた者は地獄に落ちると考えられている。」

これは、日本の神道の死生観とかなり類似しています。神道では、死後も”魂”は霊魂として地上に残り、邪気を払って永らえれば、祖霊として存続するとされています。仏教のように、死後の世界があったり、輪廻転生といって「なにかに生まれ変わる」という、死生観はありません

またユダヤ教は、内面的な信仰に頼らず行動・生活や民族を重視し、また唯一の神は遍在すると考える傾向があるため、ユダヤ教の内部にはキリスト教的、またイスラム教的な意味での排他性は存在しない、といわれています。これも、神はみんな仲良し、八百万(やおよろず)の神の、神道に類似している点です。

また、ユダヤ教がイスラエルの地に生まれた宗教と考えるなら、獅子の姿をした狛犬のモデルがライオンであってもおかしくないし、モデルを見てからのデフォルメは納得が出来る事です。

渡来氏族の秦氏(はたのうじ)の一部は、原始キリスト教徒であるという、説があります。この真偽は分かりませんが、日本神道の形成に影響をあたえたという事例は幾つもあります。このブログに秩父地方を回った時の渡来人秦族の末裔を幾つか見ました。神社創建にも関与して事例も確認しています。その時は、ユダヤ教的な習慣まで、見つけることが出来なかったのですが、可能性としてはあります。

これも、真偽が疑われていますが、明治天皇の言葉に次の様な下りがあります。・・・・・「私は天皇の権限で日本という国を調べた結果、日本は、神道である。しかし神道は、本来はユダヤ教である」

 

 



 

 

 

 

 

高遠町 藤沢片倉・古屋敷付近  ・・・守屋の里

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o盆前・帰省の途中・・・

松本で高速に乗り、諏訪ICで降りて、杖突街道、峠へ・・・本の知識で得たイメージ、杖突街道の名が示す急坂の難所より、いくらか穏やかな坂を登り切ると、林間ながら、なだらかな下り坂となる。

進行の右側、恐らくこの山は”守屋山”・・御神体の山・・・

由来の案内板・・・文章

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守矢社 村社 本村の北片倉にあり、東西五間南北五間、面積二十五坪、
祭神物部守屋大連を祭る、勧請年月不詳、祭日六月廿二日、


由 来

(中略)日本書紀にあれば、當(当)昔大連子息等、遥々遁(のがれ)来て、
信濃國伊那郡藤澤に蟄居(ちっきょ)して世間の人不交(まじわらず)、許多
(あまた)の星霜を経て、漣々(れんれん)子孫蕃息(はんそく)して大連の霊
を拝し祭りて氏神とし、家も數(数)戸に分かれても、尚昔を思戀(恋)して
家名に守屋を唱え来りしならん、氏神守屋神社附近を字古屋敷と記したる
は、往昔大連子息より、數代當所に住せし屋敷跡なりとぞ、亦(また)其傍
に、字五輪原とて古墳あり、抑(そもそも)、最初守屋氏来住せしより千二
百八十餘(余)年の今世に至ては、末孫七十二戸に相成。只可惜(おしむべ
く)事は寛永年間に村方焼失の砌(みぎり)、古書重器(ちょうき)等皆灰燼
(かいじん)せしと申傳(伝)へり、
社宮司小社同所にあり東西五間南北四間面積廿坪、
山王小社同所にあり(社地略)、
権現山神小社同所にあり(社地略)、
山神小社同所にあり(社地略)、

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物部守屋大連を祭る・・と書いてあることから、祖霊は物部守屋か?・・

簡略すれば・・・物部守屋の子孫が、はるばるこの藤沢に、蘇我入鹿の追っ手から逃れてきて、長い年月を隠棲して子孫を継承してきましたが、守屋一族も”守屋”の名を継承して、一族も家数戸になり、祖霊を氏神として祀ることにします。この守屋の子孫が住んだ氏神守屋神社附近の屋敷跡を古屋敷といいます。その隣の五輪原には(この地の守屋子孫の初代を祀った)古墳があります。最初に守屋子孫が、この地に住んでから1280年以上経ち、今では子孫一族は72戸になりましたが、残念なことに寛永年間(1624-44)に火事があり、村が焼失し、古書や重器が皆焼けてしまったと言う申し伝えがあります。・・神社内には宮司の建物と合祀した三つの神社があります。・・・こんな内容でしょうか・・

              守屋神社 里宮・

              ・・転記

                   雪ちるや 穂屋の芒の 刈り残  ・・ 芭蕉 

友人に俳句を詠むのがいまして、つい芭蕉の句を添えてみました。思いつきです。自分は俳句は作れませんし、深い理解も出来ませんが、これは、かなり好きな一句です。夏のいまとは季節も違います。芒は薄(ススキ)のことで、穂屋は芒を敷き詰めた神の座るところ・・座所を意味するそうです。穂屋の芒は、そのままなのか、編んだのか分かりません。”刈り残”も、”刈りのこり”なのか、”刈りのこし”なのかも分かりません。なにか凜とした空気が漂い、まだらな白と土色の色彩世界に、穂のもつ豊かさと、すすきと刈り残の寂しさの、二つが漂う神の座所・・芭蕉は神社に、こんな印象を持ったのでしょうか。

みれば、狛犬が一対神社を護ります。この神社は諏訪大社と関係が深そうですが、割愛します。

 

高遠町藤沢付近 保科の里 ・・石像の祈り 

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 高遠藤沢 御堂垣外 本陣・・

 

   ・・本陣は藤沢家が勤めた

藤沢谷 ・・むかし、保科正満が藤沢に来て、武士を棄て帰農した。保科正則の弟かも知れないという。土着して改名をした言う。恐らくは・・・(藤沢正満・藤沢邑主)。しかし、定かではない。

貴船神社・・・

  ・・昔は、”貴布弥”神社・・・こう書いたのか

 

   転記、藤沢御堂垣外の風景・・・

 

石像の祈り・・・

それにしても、石像の多い所・・・いたるところに・・

庚申塔・・

庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまであるが、申で猿だから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の猿を彫り、村の名前や人の氏名を記したものが多い。仏教は、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。神道では、猿田彦神が彫られることもある。また、庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。さらに塞神として建立されることもある。・・

・・・左下に猿が二匹”み猿、きか猿”、右は三匹の猿”いわ猿、み猿、きか猿”・・・


     ・・・文字だけの庚申塔・・・

 

  高遠石工の名人”守屋貞冶”の地蔵尊。 これは建福寺にありました。

 

・・石仏では無い様な気がしますが・・

 ・・手を繋いだ双体像です・微笑ましい

 一面四臂の青面金剛仏に三猿

 

・・三面六臂、腕は一本欠けています

 

・・不動明王でしょうか

 

個人的には、顔や手の多い仏像は、現実離れして、あまり好きではありません。出来れば一面二臂がいいのですが。民衆信仰には、十一面観音が多く見られます。なぜだか分かりません。

高遠は石工の町と言われています。

石工は、石仏、石灯籠、石階段、石垣、地蔵など石を細工するもの何でも作ります。一番多いのは、やはり墓石なんでしょうが。名人”守屋貞冶”は、そのうち石像、仏像の名手でした。緻密で柔らかい表情は、いまでも、仏の優しさを訴えてきます。高遠の石工は、石の造成物作成の時、いつもかり出されます。江戸城の石垣を作る時も、保科家を通して、石垣築造の指揮にかり出されています。この地が貧しかったので、出稼ぎも多かったようです。高遠石工の使った石は、少し緑がかった石で、長い風雪に耐えるようです。この高遠の近くに、石の産出場があるのでしょうね。

 


高遠の街並み 寺院,、神社 ・・・

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高遠に来たのは初めてである・・・。

歴史好きから、伊那忠次を知って、その関連で保科家を知り、色んな本を漁っている内に高遠は、来てもいないのに旧知の町になっている。今日は、時間がないので、町の有名旧跡と雰囲気だけになりそうだが・・・

本音の行きたいところは、峰山寺と遠照寺と台殿あたりの諏訪神社だが、峰山寺以外は下準備が不備で、地図案内が覚束ない・・・おそらく残念・・・

 ・・高遠の観光地図・・おそらく歩いて回れるところでしょうか?

メインの城は、今日の予定には入れません。

街並み風景をいくつか・・・

        

 蔵造りの家や店が点在する、懐かしい街並みです。いつまでも残して欲しいような気持ちになります。

 次は、建福寺・・

本堂、前に守屋貞冶の地蔵がありました(前回掲載)。

 

        ・・山門です・・・手入れの届いた寺で、背景に山を背負っています。

 

          墓地に墓が三基。

左から順に、諏訪御料、保科正直、保科正光 の墓です。

恐らく建立の順序も、この通りだと思われますが、武田勝?の母が、なぜ並んでいるのか、考えても分かりません。それと、保科正俊と保科正則の墓がどこにあるのかも、興味があります。二人とも戦死したわけではないので、墓が無いのを、ずっと不思議に思っています。

次は蓮華寺・・・

本堂・この寺は、日蓮宗です。”絵島”は敬虔な日蓮宗徒であったようです。

  ・山門 ・絵島の墓 ・絵島の像

江島の墓は、大正5年に田山花袋によって発見されるまで、世間からは全く忘れられていました。

 

 次は、満光寺です・・

 本堂・

松が見えます。”極楽の松”と言って有名だそうです。一度見ると「極楽に行ける」とか・・・

 

 ・・鐘楼門、この方も有名、さすがに立派。

 

 

 

 ・・山門 ・・お堂

 

・・保科小源太の墓   内藤家の墓。

保科小源太は、保科正直の妹の子です。正直の跡取り、保科正光は子がいませんでした。そこで、正光は、嫡子予定で、小源太を養子に迎えました。ところが、信玄の娘の見性院から、幸松の養子を依頼されます。幸松は、将軍家光の弟(後の正之)です。結局正之が相続し、小源太は秘されたまま暮らして、早死します。運命のいたずらなのか、悲劇なのか・・。

満光寺は、高遠藩内藤家の菩提寺です。内藤藩は、特に六代目、七代目が名君だったと言われています。内藤藩主の墓地が、ここにあります。

 

 

次は、峰山寺・・ほうざんじ

本堂・ 

 ・・こちらは、学校のようです?

この寺の背景の山は、月蔵山と呼びます。

ここ峰山寺には、高遠ゆかりの名士の墓がある。「高遠藩の藩学の祖」と言われる阪本天山、その門人で、「高遠の学」を完成させたとされる中村元恒、元恒の孫で「日本の林学の祖」と言われる中村弥六などである 

 

    大きな墓があります。文字は擦れて読めません。

おそらく、高遠藩主だった鳥居家の藩主の墓?だと思います。

この寺のもとは、文明寺と言います。保科正俊の参謀の文明寺某の寺です。和尚なので、保科家の家臣とは少し違いそうです。その時代の痕跡が少しでもあれば・・・と思ったのですが、簡単に分かるわけありませんよね。正俊の”鉾持除けの戦い”で活躍したそうです・・・「槍弾正の逆襲」・中村彰彦

文明寺は廃寺となって、鳥居家が藩主で高遠に来た時、鳥居家の菩提寺で再興したそうです。

 

次は、鉾持神社・・

 

  ・・長い石段です。高遠の鎮守でしょうか。

この山を背に、この神社と建福寺と蓮華寺が並びます。

 

 

 

藤沢・黒河内荘 溝口あたり ・・・

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高遠から、白山トンネルを潜り、しばらく行くとダムが見えてくる。・・・ここが美和ダム 

そして、これが美和湖・・・

上流で、モーターボートとラフティングをやっているのが見える。ラフティングは急流でやるスポーツだから、初心者への手ほどきも知れない。

三峰川のダムやダム湖なのに、なぜ美和ダムなのだろうか、訝しがって地元の人に尋ねると、湖底に沈んだ集落が美和というのだそうだ。このダムは砂防ダムが主たる目的だという。つまり、三峰川は、地層帯の合わせ目、中央構造線の真上を流れ、土砂崩れや谷を削った土砂が河床を積み上げ、河床が積み上がれば氾濫が起こりやすくなる。その悲劇の歴史を繰り返して、ようやく砂防ダムにたどり着いたという。さらに、三峰川から分流して、東春近に流したおかげで、畑作ばかりの東春近に水田が出来たという。もともと、自然を破壊してコンクリートのダムを作るのは好きではないが、地元の悲劇を知れば、納得しないわけにはいかない。

その美和湖のほとりにある、道の駅

・・道の駅 南アルプス村長谷 と言うのだそうだ。大きくないが、まとまっていて小綺麗。

”パン屋さん”が人気、アルプス村の名から、勝手にイメージするのは”チロル”風・・・

さて、次は溝口へ

      ・・暫く走って、宗良親王の名と常福寺の名を見つける。

常福地本堂・・

 

 ・・かなりの数の馬頭観音です。

南北朝時代、南朝の宗良親王を守って倒れた、上野(群馬・太田)の新田一族の無名戦士の墓とも言われています。南朝が不利の時、続々とこの地に秘匿して、再起を待ったとも言われています。何割かは、この地に住み着いたとも、大徳王寺の戦いで北朝側に敗れたとも言われています。

・・寺の裏山のお堂。名前はありません。

 

大徳王寺城 城跡

赤い屋根が常福寺になります。

南北朝時代の終わり頃、大徳王寺の戦いがあったことは、何冊かの古書で確認されていましたが、場所の特定が出来ませんでした。 昭和15年になって、常福寺の屋根裏から、宗良親王の関係する仏像や他が発見され、常福寺の裏山(=御山)が、大徳王寺跡だろうと推測されるようになりました。この時の南朝側は、北条時行と諏訪頼継だったようで、宗良親王は戦いに参加していません。

その後、この地を訪れた親王は、襲われてこの近くで死んだと言われています。

 

   ・・御山の遺跡の案内板と宗良親王の墓へ続く石段・・

  宗良親王のはか・・・

    ・・卵石は、坊さんの墓を意味します。

                                                                   合掌

 

 

 

 

 

 

橋立堂 そそり立つ岩山 ・・・秩父巡礼

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札所28番 橋立堂

・・橋立堂の背後にそそり立つ岩山、石灰岩で出来ているそうです。迫力満点。

橋立堂は、明治以前は14番今宮坊の末寺で修験道の道場、明治5年の修験道禁止令に伴い、曹洞宗の寺院となった。めずらしく、馬頭観音が本尊であるそう・・・境内に白馬の像がありました。
この立地環境をみれば、いかにも修験行者が好みそうな場所といえます・・・。

  ・・本堂  

 

隣接で、橋立鍾乳洞があります。・・・鍾乳洞への道

入口に、入場料¥200 とあります。「足の悪い人はご遠慮下さい」との文字で、断念。

*案内・・

雲取山、甲武信岳、金峰山などの 秩父多摩国立公園は、秩父古生層という水成岩から出来ているそうです。 秩父古生層と呼ばれる地層中には石灰岩体があり、 秩父・奥多摩一帯には、多くの鍾乳洞が分布しています。
橋立鍾乳洞は、 山全体が石灰岩でできた武甲山の西麓にあって、 たくさんの鍾乳洞が点在する埼玉県内で唯一の観光洞となっています。

武甲山にはその他にも、 白沢第一鍾乳洞, 小桜鍾乳洞, 西尾根上部の鍾乳洞, 根古谷鍾乳洞、, 大指鍾乳洞などがありますが、非公開。 これらの鍾乳洞は、 竪穴式のものが多く、 石灰岩体が急傾斜であるという構造に起因すると考えられています。 ・・・受け売りです。


・・境内の茶屋でしょうか。境内と鍾乳洞入口が、兼用です。駐車場は無料。

アイスクリームとそばが評判です。アイスクリームのメニューは22種類・・・・・

 

住所;秩父市下影675  電話0494−24−5399

 

長泉寺 花の寺 ・・・秩父巡礼

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札所29番 長泉寺 花の寺

まず、石庭が美しい。

 

しばらくぶりの石庭です。中学の修学旅行の天龍寺以来か、その後もどこかで見たような記憶もありますが、とにかく久しぶりの石庭です。この寺は正確には、笹戸山長泉禅寺というのだそうです。

 

本堂・・

本来なら、入口の”しだれ桜”が有名だそうです。続く”木蓮”も美しいと言われています。庭園の”もみじ”も、色づきが見事だと言われているようです。今は、この寺にとっての”花枯れ”の時期、旬の時期に見たい気がします。

この寺は、”はなのてら” と呼ばれているそうです。

庭園・・   枯山水風・・奥に竹林もあります。

 

     ・・竹林の前のお堂、紅葉大権現が祀られています。

”火伏せ”の文字が見えます。秋葉神社のお寺版なのでしょうか。神仏習合の変化形かも知れません。この寺は、今の寺の前山に、懸崖造りのもとの寺があったのが、火災で焼けて、江戸時代に今の姿になったと聞きます。

 

住所;秩父市荒川上田野557 電話0494−54−1106

 

秩父 道の駅ふたつ ・・・荒川&両神温泉

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道の駅 あらかわ

「道の駅あらかわ」は奥秩父の荒川にあり自然に囲まれ、美味しいそばや四季折々の花が楽しめます。
周辺には、花ハス、水芭蕉、カタクリなどが時期には咲き、のどかな里山散策を楽しめます。
道の駅ではここでしか購入できない行者ニンニクがあり、人気。・・・これが道の駅あらかわのアピール文。

”そばがき”というものを食べたことのない人は、ここで経験するのも悪くないです。まあまあ・イケます。

道の駅あらかわは、国道140号上の道の駅。愛称は農園村役場。

道の駅の発祥の地。以前は道の駅荒川村でしたが、秩父市に合併したことから現在の名称に変更。

 ・・道の駅の食堂の方の建物。周りは果樹園に囲まれています。

 

場所;秩父市荒川日野538番地1   電話;0494-54-0022

内容;駐車場・トイレ・公衆電話、食堂、地産物販売所など

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道の駅 両神温泉 薬師の湯

豊かな自然の中で、良質な温泉で静かに、ゆっくりとくつろぐことが出来ます。日帰り旅行者など、どなたでも気軽に利用ができ、心も身体もリフレソシュ。季飾の新鮮野菜や心が伝わる手作り工芸品が人気の、農林産物直売所もあります。・・・これが、ここのアピールポイント。・・”そばうち”が体験出来るようです。

裏山は両神国民休養地に指定されている四阿屋山・花しょうぶ園などがあり、都会の喧騒を忘れるのに最適な空間です。

ここの特徴は、なんと言っても温泉です。・・・・・源泉は地下600mより毎分280L、泉温24.3度で湧く冷鉱泉。フッ素とメタほう酸が温泉法規定値を満たすことから温泉認定となる。 低濃度ながらPh9.2のアルカリ値由来の、ほのかなツルッと感が温泉情緒を醸す。浴場は男女各内湯1つのみのシンプルな造りで、館内には食事処や休憩所が整う。・・・温泉の基準値を備えた鉱泉で、沸かし湯のようです。

 

 ・・道の駅両神温泉の建物

 

場所;秩父郡小鹿野町両神薄2380番地  電話;0494−79−1533 (注意・火曜日休日)

内容;駐車場・トイレ・公衆電話、農産物販売所、食堂、温泉・・薬師の湯

 

 

法雲寺 庭園を見てください ・・・秩父巡礼

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法雲寺 札所30番

 

秩父札所三十番法雲寺
           指定史跡

 臨済宗建長寺派の寺院で、開創は一三世紀中頃の鎌倉時代である。 
 本尊は如意輪観世音菩薩で唐の玄宗皇帝の作と言われる。 皇帝が戦場にあって楊貴妃の冥福を祈り、観音の御心に すがる真情がうかがえて、美しく尊厳に満ちたものである。 
 堂宇は江戸初期には観音堂、本堂、二王門等を備えていた が嘉永年間(一八四九頃)火災に遭い、観音堂のみを残し悉く焼失した。 
 昔日の面影を残す観音堂と四季折々の花で彩られる浄土庭園との調和 は見事であり、訪れる人々の心を和らげてくれる。

とにかく、庭が、うつくしい。

             

    ・・置物のかえるも愛嬌・・  (Wクイックで拡大します)

秩父札所30番寺の境内は広くて綺麗な池があり、まわりにサツキ、アヤメ、ツツジ、フジなどが植えてありま。この池は心の字の形に造ってあり、心字池といいます。ここにかけられた石橋を渡ると浄土があるといいます。巡礼者の方が有難く渡っている姿を見かけます。

 

 ・・寺入り口付近  ・・裏に竹

 林が見えます  ・・観音堂  ・・千匹猿

とにかく、美しい寺です。絵馬に”楊貴妃”がプリントしてあります。庭の、”つつじ”や”さつき”の咲き乱れる頃は、さぞや!と想像します。

住所:埼玉県秩父郡荒川村白久432 電話:0494−54−0108

・・・・・・・・・・この寺とこの地方に、「平将門」伝承があります。調べたら、前章、「道の駅ふたつ」に追加しておきます。

 

 

観音院 日本一の石像の仁王尊 ・・・秩父巡礼

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札所31番 観音院

右手の山麓に仁王門が見えてくる。仁王は身の丈1丈3尺、台座まで入れると4mを超す高さを誇る荒削りの石像で、1868年長野の石工藤森吉弥一寿の作と言われます。この石像の仁王像は日本一の大きさだと言われています。・・・丈は畳に通じ、畳(タタミ)の長い方で6尺、従って全部で9尺、約270Cm、・・・

  ・・藤森吉弥は信州高遠の石工です。1868年は戊辰戦争の頃、吉弥は当代一の石工と言われていたようです。高遠は、石工達の故郷の町、”守屋貞冶”の跡を継ぎながら、出稼ぎの旅に、ここも回ったのでしょうか。 

 ・・本堂は石段の上にあります。石段下の入口付近の風景。 

秩父札所31番寺の仁王門をくぐると石段があり、観音堂までつづいています。やくよけかいだんと彫られた所からはじまります。石段の数は296段あって、般若心経276字と、普回向20字の合計の数になります。一段づつお経を唱えながら登っていくと、厄除けのご利益があるといいます。

  ・・石段、でも長いです。足が棒になります。

秩父札所31番、 鷲窟山・・しゅうくつざんと読みます。

登り切ると、観音院 聖観世音を安置する本堂に着きます。   


 

・・左手の大岩の崖に弘法大師像があります。。堂の左側岩壁から一条の滝が落ちていて、その落差は約60m、滝下の池のそばには不動明王が立っています。秩父札所31番は昔は、水量も豊富で修験者たちが滝に打たれて荒行をしたといわれ、それを証するように池の近くの断崖には体長18cmほどの爪彫り千体仏が浮き彫りされております。弘法大使が”爪”で彫った?はて・・・?

この寺にも、芭蕉は訪れたようです。本堂の横手を裏に抜けて登ると、さらに裏山に出ます。行程15-20分とありますが、熊に”注意”の文字も見えます。庫裏の脇の崖は、露頭です。第三紀古代層の砂岩や礫岩が露頭しています。秩父の露頭からは、至る所で海の生物の化石が出て、昔この地が、海だったことを証してくれます。上に登ると、東西の奥の院です。奥の院の名前は、本当は神社に使うのが多いのですが・・・。西奥の院は崩落の危険で立ち入り禁止。東奥の院は、芭蕉の句が書かれた香塚や本堂があります。天狗堂もあるそうです。・・・すると、ここも修験者の修行地とか?・・・・熊出没?・少し怖いので、登るのは割愛。

 

秩父札所31番観音院のやや道下に、水子地蔵の紫雲山地蔵寺があります。 

観音堂と地蔵寺の関係は不明。

  ・・赤の”に赤い前掛け”と風車の色彩はは強烈な印象、それと”水子地蔵”の数に圧倒されますが、華やかの中の寂静の異空間を感じます。・・哀悼


住所: 埼玉県秩父郡小鹿野町飯田2210
電話:0494-75-3300


法性寺 苔寺そして・・奥の院 ・・・秩父巡礼

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秩父に苔寺・・・ パワースポット・・

法性寺 札所32番

秋海棠(『東国花の寺』指定)・しゅうかいどう、と読むのでしょうか。・・花の浄土・・

・・この寺の、9月の花、秋海棠 ・道の両脇に・

 山門
 宝永七(1710)年建立  三間×二間半の八脚門。欅材を主にした二階建ての鐘楼門

             ・・
 
 仁王像 正徳二(1712)年作 江戸の仏師、石見作。 現在仁王像は、修復さてれいます。

      本堂 納経所・兼

       ・・観音堂・・宝永四(1707)年建立

 岩盤の上に建つ、総欅材の三間四方舞台造り。
 森閑とした木立に寂然として建ち、その姿は『優美で鳳凰が舞い降りるが如し』と讃えられています。 
 平成十三(2001)年に大改修がなされ、貴重な建物が後世に引き継がれています。

奥の院がこの寺の特徴です・・・

 観音堂の裏には砂岩に幾多の穴があります。
 これは、太古秩父まで海が広がっていた頃にできた浸食のあとだと言われています。

・・観音堂への参道の途中に、奥の院への分岐・・・岩と岩との間を抜けて、いざ奥の院へ・・・

行程は、約1時間の完全な山登りです・・・難所もあるそうです。奥の院へ行くのは断念。以下は調べて、要点のみ・・・

 観音堂前の岩穴をくぐり抜け、険阻な山道を登ると奥の院になります。

  ・・岩をくり抜いた穴に足をかけ、鎖を伝わって、岩山を登るそうです。間違えば滑落の危険・・・山の上は、こんな岩盤が至る所にあるそうです。一番は、”船の形の岩”だそうです・・・

*大日如来
 宝暦二(1752)年 西村和泉守作
 舟の艫にあたる岩に突き立った岩を鎖を伝って登ると、二畳程の所に大日如来がお祀りされているそうです。

奥の院は奇岩,怪石の多いところで,竜虎岩,天狗岩,船の形に似た奥の院があるそうです。さすが秩父は、地質学の宝庫。

奥の院(お船観音)・・

観音・・ 奥の院は、船の形をした長さ200m、高さ80mの巨岩からなり、俗に『般若のお船』と称され、 ここからの眺望は秩父札所随一だそうです。聖観世音菩薩(お船観音)、 舟の舳先にあたるところにお祀りされています。本堂から往復約1時間。
*奥の院まで登拝できない方は、本堂前から遥拝できます。・・・建立はかなり新しそうです。苔の寺には、少し似合わない。

・・・眼下に秩父の山々が広がり、御仏に抱かれたパワースポットです。


住所: 埼玉県秩父郡小鹿野町般若2661
電話: 0494-75-3200

 

菊水寺 「子返し」の戒め ・・・秩父巡礼

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菊水寺 札所33番

 菊水寺は、「菊水の井」があったことが寺の名前の由来と言われています。

 「正大悲閣」の額を掲げた入母屋造りの本堂を持つ札所。赤平川のほとりにあり、寺の庭に菊水の井」という名井があったことから寺名になったと言う。本尊聖観世音は一木造り一材ほどの立像で藤原時代の作。 江戸時代に盛んであった「間引き」を戒めた子返しの額もある。別に本尊を模した聖観世音の立像があり、室町時代の作といわれる。 

壁面高く、名高い「子がえしの絵図」が掛かっています。秩父聖人と言われる井上如常が奉納したものであります。如常はこの絵の中で、嬰児殺しの悲惨な風習を戒めて、わが子を圧殺するなど極悪非道の所業だと母親をはげしく責めています

 

 ・・入口付近  ・・庭園と本堂 ・・石碑

長享の番付には、17番菊水寺小坂下(こざかけ)とあります。昔、たぶん室町時代あたりは、巡礼の一番は、今の秩父駅周辺なので、ここは道半ばにありました。古番付けは、地元の人の巡礼順序なんでしょうね。江戸時代に、江戸からの巡礼が増えて、今の順序になったと聞きます。

永禄十二(1569)年の信玄攻めで観音堂を焼かれたが、本尊は長福庵に難を避けた、とあります。 信玄は、十石峠を佐久方面からやって来たようです。十石とは、山間で米のとれない秩父に運ぶ米の量からの名付けと聞きますが、米の代わりに、信玄がやって来て、寺も焼いてしまった、と言うことです。

本堂前に芭蕉句碑があります。寛保年間に建てられたもので、県内最古であります。

  ・・芭蕉の句碑、菊塚

・・・下記の句が彫られているそうですが、擦れて読めません。別所から調べて見ました。

    寒菊や こぬかのかかる 臼の端      ・・芭蕉

 

境内に、もう一つ・・・

  ・・これも句碑ですが、芭蕉とは無関係。黒田杏子の句だそうです。

 ・・・・・黒田 杏子( ももこ)、日本の俳人、俳誌「藍生」主宰。


住所:秩父市吉田町桜井1104

電話:0494−77−0233

 

水潜寺 水くぐりの岩戸が・ ・・・秩父巡礼

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札所34番 水潜寺

俳人・金子兜太の句碑があります。

      曼珠沙華 どれも腹だし 秩父の子  ・・兜太

金子兜太は、秩父育ちのようです。 

**金子兜太・・秩父近くの小川町で生まれ、4歳まで上海で過ごし、小中を皆野町で過ごしたそうです。中学は旧制熊谷中学(現・熊谷高校)、野上から熊谷まで秩父線で通ったのだろうと思います。後、旧制水戸高、東京帝大経済を出て日銀に就職。高校時代から俳句は作っていたそうです。小林一茶や種田山頭火を研究し、作風は前衛的と言われています。

そういえば、秩父巡礼の寺に、時々投句箱を見かけています。

本堂・・

本堂右手の方に石の絶壁があり、その下に、自然にできた岩屋があります。ここには清水が湧いております。観音詣りが終ったら、この中をくぐって身を浄め、俗世間にもどる習わしがありました。これから水潜り寺が水潜寺となりました。・・・水潜寺の由来

あの窪みが、岩戸でしょうか。裏山へは「立ち入り禁止」の看板と綱張り・・・崩落の危険があるのでしょうか。

 

 ・・寺案内板 ・・入口付近 

開山は旅の僧という。飢饉のあった天長元年(824)、旅の僧が「まず観音を信ぜよ。我ここに西国をかたどり阿弥陀を置き、板東をかたどり薬師を置く。この観音と合わせて百番の霊場として、我が笈摺をここに納む」と里人に告げたという。そして「樹甘露法雨」の札を立てたところ、雨が降ったという。ご本尊は「千手観音」。阿弥陀如来・薬師如来あわせて伝教大師作という。・・・そうすると旅の僧は、伝教大師となるのでしょうか。

・・・・・百番の霊場とあります。四国の霊場を除いて、西国33霊場、板東33霊場、秩父33霊場、合計99霊場を”+1”して100霊場にした、と記憶しています。既述、真福寺の項、札所2番・・・なお、昔、秩父巡礼が三十三札所巡りの時、ここ真福寺は巡礼の寺に選ばれていなかった。追加された寺である。何故に三十四のなったのかは、関東巡礼で、西国三十三、板東三十三、秩父三十三の合計九十九より、百国巡りの方が、ありがたさが増すということで、一寺追加されたそうである・・・が詳らかではない・・参照。それも江戸時代に、と覚えていますが、そうなると、顕かに矛盾です。・・秩父古番付けでも33霊場。どちらが正しいのでしょうか。秩父巡礼の歴史を辿ると、江戸時代に”+1”して100霊場になった、と言う方が説得力がありますが、秩父の郷土史家に判断を任せます。

*笈摺・おいずり・・・巡礼などが着物の上に羽織る袖のない薄い衣。笈で背の擦れるのを防ぐための衣という。

             ・・巡礼の姿絵

この姿は、修験者に似ているように思えます。手にした杖が錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる金属製の杖で、袈裟と、篠懸(すずかけ) であれば、可能性が高いと思われます。

*なお、巡礼の服装に拘る人は、秩父の札所一番・十三番・十八番で買うことが出来ます。


 ・・本堂までの石段参道坂道風景・・・

 ・・石段脇の石仏、新しい・・・

 

・・施無畏(セムイ)・・仏語。仏・菩薩が衆生の恐れの心を救済すること。

その下に、「天女の舞」の彫刻が一対あります。天井絵も絢爛。

 ・・右 ・・左  ・・天井絵

 

これで、秩父34札所巡礼は終わりになります。江戸時代には、巡礼完結の後は、多くは信濃善光寺に、たまに甲斐善光寺に、終了報告を兼ねて、参詣に行くのだそうです。どうするか”つれあい”に聞いてみます。

 

住所:秩父市皆野町日野沢3522

電話:0494−62−3999

 

 

秩父華厳の滝 涼をもとめて ・・・秩父風景

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秩父華厳の滝・・

                ・・下流から遠望

水潜寺 札所34番から1.3Km、車で5分以内で行けそうなので、寄ってみました。

美しい滝です。日光の華厳の滝に準えたところを見ると、どこか似ているのでしょう。が、規模は比べようもなく小さいです。名滝人気ランキングで10位となっています。9位に群馬の”吹割の滝”があります。

滝の入口に、バス停があります。皆野駅からバスが運行している様子です。

ここへの道順に、”満願の湯”があり、水潜寺、秩父華厳の滝と続きます。温泉をからめた行楽も悪くないと思います。

名称:秩父華厳の滝 (チチブケゴンノタキ)、規模 :落差13m所在地;秩父市皆野町上日野沢 MAP 電話;お問合わせ、0494-62-1462

 

 

 

椋神社と龍勢会館とようばけ ・・・ロケットは神事だろうか

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椋神社と龍勢会館

菊水寺を出て、水潜寺に行く途中に、椋神社と龍勢会館はあります。菊水寺の近くには赤平川が流れていて、化石の露頭の”ようばけ”も近くです。”ようばけ”の後は、水潜寺に行く前に、椋神社と龍勢会館に寄ります。

          ・・椋(ムク)神社

椋(ムク)神社の成立とその後の出来事を、”由来書”を読みながら追っかけていくと、かなり面白い事実と出会います。

まず、由来書・・椋神社

日本武尊東夷ノ逆徒ヲ征伐トシテ・・此所二著御アリ。・・軍神事勝長狭神(即猿田彦大神ナリ)二神慮ヲ請ヒテ之二進ト欲シ、暫ク此所二停止シ鉾ヲ杖トシテ相休焉コ時アリ・・・光ヲ放ツ。其光耀ノ飛止ル所、・・井邊ノ椋本二現出スル也。示日吾則猿田彦大神ナリ。,・・日本武尊喜日是則大神庇護ヲ垂ルナリ。故二之ヲ謝テ神祠ヲ造立シ永ク鎭座ト爲サシムル焉。則チ井椋宮是也。・・亦当社ノ西二當り櫻ノ大樹アリ、之ヲ奥ノ院ト云。井椋塚アリ。・・亦日本武尊鉾ヲ以テ神体ト爲シ猿田彦大神ヲ祠り給フナリ。・・から

意訳から・・・日本武尊が東北に東征する途中で、この地に着き、猿田彦の神への必勝祈願をし、鉾を杖として休息した。すると、鉾が光り出して飛び出して着地した。その着地の地点が井戸のあたりの椋本という場所だった。この出来事は猿田彦大神の仕業と思われた。日本武尊が東征に勝利したのは、猿田彦大神のお陰と思い、感謝してここに神社を建立した。名前は井椋宮という。ここから西に桜の大木があるが、そこを”奥の院”という。井椋塚もある。・・・この神社は、日本武尊の鉾を神体とし、猿田彦大神を祠るものとする。

神社のご神体と神名は理解出来たが、神社名が、まだ繋がらない。

別書に、景行天皇の時、日本武尊東夷征伐のとき、伊久良に御鉾を立て猿田彦大神を祀ったという。更に別書に、江戸時代は「井椋大明神」「井椋五社明神」とあり、椋(ムク)神社という同名社が秩父郡市内に5社を数え、井椋(いくら)五所大明神と号しており「いくらじんじゃ」が本来の呼称である、とある。・・これで謎が解けた。

どうも、椋(ムク)神社の呼称は、地元の簡略した通称で、江戸末期から明治にかけて定着したものと推定される。この地の名は、伊久良とか井椋とか書かれ、読みは”いくら”であるようだ。文字からは、この地が穀倉地域を想像させる。

   神社の眷属は山犬(狼)・・  本殿の方にも狛犬の眷属があるが・・・

社伝に曰く・・・

朱雀天皇天慶5年藤原秀郷当社に春日四所の神を合祀す。日本武尊5代の裔丹治家義5代の孫武信神領数十町を寄附す是を供田と云う。即ち六段田是なり

其後、畠山重忠太刀一口を獻ず。今遺存して神宝となす。

・・・・・藤原秀郷の名前が出てきました。別名俵藤太です。幼名は”まさかり担いだ金太郎”です。

俵藤太による平将門討伐のおり、俵藤太が当社に詣で、祈願したことにより将門一門を討つことがかない、俵藤太によって春日四神を合祭され井椋五社明神と称されるようになったという・・・

八幡宮、老朽化の保護で建屋の中に安置されている。由来書の中の軍神の意味からすると、こちらが本来の様な気がするのだが・・・

それにしても、猿田彦といい、八幡といい、軍神となれば、渡来人の秦氏の関連を思い浮かべてしまう。

       ・・八幡宮の彫刻

 

その後の歴史・・

元亀年中武田信玄秩父氏と戦い社頭を焼く神殿古器神宝旧記悉く皆焼失す。

天正3年鉢形城主秩父新太郎氏邦神殿を再建す同氏獻上する処の祭具木魚二本今猶存在す。

・・・・・秩父新太郎氏邦は北条氏邦のこと、鉢形城主

・攸 芦田伊勢守 藤原守房、芦田若狭守 藤原守光、芦田長門守 藤原重斉 干時宝永五壬子天二月吉日

・・・・・芦田と藤原の名を多く見ます。神社を支えた別当でしょうか。かっては官製神社の名残かも知れません。

遠くに、櫓が見えます。龍勢というロケットの発射台です。昔の逸話と今のロケットの組み合わせです。コントラストの妙を覚えます。龍勢は”神事”でしょうか・・・

                 ・・説明板

 

ここは、明治に起こった”秩父困民党の乱”の集結地です。

          ・・”秩父困民党の乱”の集結地 案内柱と案内板

詳しくは、こちらを参照下さい・・・「比企の丘から」より 

http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/9fb424cf9ffafe0aede64130ece2c874

さらに興味のある方は、『秩父困民党群像』井出孫六をお奨めします。

 

龍勢会館

ここは道の駅です。駐車スペースはあまり大きくはありません。農産物直売所や食堂も兼ね備えています。が、どこか他の道の駅と雰囲気がことなります。

       ・・このアニメの名所でもあるようです。客層も若者が目立つようです。

この「道の駅」の一角に井上伝蔵の住居跡があります。建て替えされたもので、困民党時代のものではありません。井上伝蔵の伝記的な単行本は読んだ記憶があります。この本をもとに?、映画が作られました。タイトルは”草の乱”です。

 ”草の乱”・・・・・

    草の乱・・井上伝蔵の住居  ・・草の乱、ポスター

井上伝蔵 下吉田村(現吉田町)出身。

草の乱・あらすじ・・・・・地域の名望家として広く養蚕農民を助け、絹布の問屋商人として「丸井の旦那」の愛称をもつ。人望が厚いばかりでなく、当時全国的に流行していた自由民権運動に触発されて自由党に入党し、東京の党本部と秩父の入党者とのパイプ役となる。明治17年に至ってデフレ政策が秩父の農民の生活を圧迫し、ついに蜂起するに至っては困民党軍の会計長として幹部に迎えられ活躍する。事件後、幹部が次々と捕縛・自首する中で伝蔵は実家の近所の土蔵に2年間隠れ住み、そののち北海道に移住。伊藤房次郎と名を変えて妻子をもうけ、1918(大正7)年のその死の直前、家族に自分の正体を明かし、来歴を隠さず語った事で世の中に衝撃が走る・・・

生糸の商家「丸井商店」を営む井上伝蔵、農民の高岸善吉、落合寅市、坂本宗作などが不当な高利の取り締まりを求めて役所などへ誓願運動を始めた。各地で集会を開き、賛同者を募り、さらに加藤織平を副総理、大宮郷の顔役の田代栄助を総理として迎え入れ「困民党」を組織した。そして、警察署への誓願や高利貸しとの交渉をねばり強く行うが、ことごとくはねつけられる。そのうちに高利貸しが裁判官に賄賂を贈っていることが明るみに出て、丸井商店の土蔵に集まった困民党幹部たちは「もはや願いをかなえるには政府を打倒するしかない」と、命をかけた武装蜂起を決意する−

 

ようばけ

*”ようばけ”・・・・・面白い名前です。最初は、妖怪お化け、かなと軽く思っていましたが、”陽の当たる岸壁”の意味のようです。川岸が赤平川の浸食で削り取られて、剥げてしまった跡地、”剥げ”が”ばけ”に変化した、と考えると”ようばけ”の意味が納得できます。・・・当たっているのかどうでしょうか・・

地表が剥げて見えるのが”ようばけ”です。古代地層が露出している”さま”を露頭と言います。ここの化石は貝殻など海の生物、この山間の里は大昔海だった・・・           

 

       赤平川とようばけ・・・

おがの化石館・・・休日に行ってしまいました。残念

 






 

 

 

 


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