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a day in the life ・・・大きな梨

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a day in the life ・・・・・

大きな梨です・・・

もらい物です。スーパーでは見かけたことがありません。見ても、りんごと見間違えるでしょう。正直、おいしそうに見えますか・・・・・。

ですから、いままでに、買ったことも食べたこともありません。

大きさの比較から、隣にタバコを置いて、デジカメで撮影。昔、プロカメラマンが、広告用の商品の撮影で、バックに白の模造紙を敷いていたのを思い出して、印刷用紙A4を4枚敷いて、プロ気取りで撮影しました。重量は1Kgはありそうです。

梨の名前は、TVの相棒の”かおる”くん・・・ではなくて、”かおり”と言うのだそうです。

生産は、非常に難しくて、千葉県の一部と四国の一部に限定され、少なすぎて市場ではめったに見かけることがないそうです・・・どうりで・・・。勝手に産地を想像すれば、ゆるキャラ人気抜群の”ふなっしー”の里かな・・・なんて。

1Kgの梨が、木にぶら下がっている姿を想像したら、枝が折れたしまうことが頭に浮かびました。枝が折れなくても、重さで、落ちてしまいそうですね。・・・栽培の難しさは、そこかな、と勝手に判断・・・

食べたら、甘みが強く、かなり美味しかったです・・・

a day in the life ・・・

 

 

 


秩父紀行  ・・・雑記

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・・・秩父夜祭り

とりあえず、秩父の寺を、巡礼札所の順に、34ヶ所まわりました。それはそれで打ち止め。

又の機会は、もみじの色づく頃でしょうか。境内のもみじが見てみたい寺がいくつかあります。

気になっているところ、など幾つか補足・・・

 

ようばけ・

・・・” ようばけ ”の よう は太陽の陽で間違いなさそうですが・・・ ばけ は、どうも はけ と言う言葉が地質学にあるようです。大宮第三公園の「武蔵野の地層モデル」の造地に、説明文がありました。・・川が岸辺を削りとった崖状のことをさして、水路まで含んで、” はけ ”と呼んでいたようです・・。前回の説明では、60点というところでしょうか。コメントをいただいで、すこし調べて、訂正させて戴きます。

 

椋神社・

・・・藤原秀郷の記述がありましたが、藤原秀郷は、将門の乱の沈静に京都からやって来て、沈静の後は京都に戻ったように思っていましたが、川島町金剛寺に残存する系図に、秀郷の系譜が乗っているそうです。さらに、系譜上の波多野遠当なる人物は、比企遠宗と同一人物とされています。真偽は分かりませんが、比企の地名を残した比企一族の痕跡がここにあるとすれば、いままで不明とされてきただけに、面白そうです。

 

仏像・

秩父の寺を、あれだけ周りながら、お堂の中の仏像にあまり興味を持てませんでした。外にある、羅漢や地蔵や石仏には、表情に親しみを覚えて、また門にある仁王像もかなり撮影したのですが、・・・。

・・・弥勒菩薩像。太秦の弥勒菩薩で、写真集を見た時は仏像とはこんなに表情豊かで、美しいものなのか、感動を覚えました。どうも、仏像そのものが興味がない、と言うわけでもなさそうです。太秦は、新羅系秦族の拠点で、広隆寺です。

いけないのは、どうも多面多臂が人間離れして、馴染めないのではないか、と結論しました。感動を覚えた弥勒菩薩は一面二臂で、普通の人間の姿です。

その反面、多面多臂の仏像には、どうも馴染めません。馴染めない理由は、人間離れして違和感を覚えてしまうからのようです。その中でも気になる多面多臂の仏像があります。民衆に信仰が厚かった十一面観音です

・・・十一面観音。この場合は六臂です。顔の数を数えると、11より多くなることがあります。なぜだか判りません。顔が11あり、腕が6本。宗教的意味でもなければ、まるで化け物です。白洲正子の随筆のなかで、十一面観音がたびたび取り上げられています。なぜ民衆に人気があったのか、白洲正子から探って見たいと思います。

 

修験者・

・・・秩父には、修験者や役行者の痕跡がいくつも残っています。明治に、修験道が禁止されて、普通の仏教や寺院に習俗されて、秩父の修験者はいなくなりました。法律が変わり、宗教の自由が認められても、修験道は復活しませんでした。しかし、山に生きた修験者は、里や里山の人達と無関係な生活をしたわけでもなさそうです。

山に精通した修験者は、当然山の植物にも精通します。行者ニンニクは代表格ですが、薬草をよくします。修験者の生活地に、いくつかの薬師堂を見ますが、これも修験者との関わりのようです。巡礼の後半に到ると、山にある寺に薬師堂があれば修験者がいたのではないかと思うようにもなりました。

薬と言えば、富山の薬売りが思いつきます。その富山の薬の源流は、富山側立山の修験者が作ったものという研究論文が出されています。富山の立山の修験道は、天台密教にもとずくもので、秩父の真言密教とは少し違いますが、同じく修験者の存在が薬に関与しております。修験者は、どうやら、薬草知識の”エキスパート”と見て良さそうです。

薬草と同様に、修験者は”鉱物”とか”鉱山”のエキスパートでもあったみたいです。それも、平安以前は、金ではなくて、鉄とか水銀のようです。当然、副産物として金も採れたのでしょうが。渡来人の”金上无”の職名も、金ではなく、金属と捉える方が納得出来ます。どうも、金の価値が上昇するのは、鎌倉時代以降のように見えてきます。貿易によって外国の金の需要と価値を確認し、さらに貨幣に金を使うようになってからのようです。それまでは、日本の金の使用目的は、一部の金装飾ぐらいの利用価値しかなかったようです。それより価値が高かったのは、鉄と銅と水銀だったようです。水銀は、当時”辰砂”とよばれて、赤色顔料の原料や薬剤等に使用されていたようです。今では水銀は毒性が強いことが確認されていますが、当時は不老不死の長寿の薬物とされていました。秩父の山岳は、鉱山をもとめるに、修験者達の恰好の地であったようです。

 

 

・・・椋神社の、龍勢ロケットのもとになった、鉾が飛んだ逸話、は霊験でないとしたら、火薬が想像されます。日本武尊は、景行天皇(-130)の頃とされていて、西暦100年を少し過ぎた頃、日本書紀が書かれたのは西暦600年頃、約500年の歳月の差があります。この時代は中国は、唐の時代で、ようやく唐で、火薬を狼煙として使われた、とあります。唐の時代は、日本との往来はかなりあったみたいで、唐の火薬の知識を持った人が日本書紀の編纂にも加わり、逸話を挿入したと見るのが、当たらずといえども遠からず、かと思います。

あれから、ずっと歴史を積んで、今年も、10月第二日曜日に、龍勢祭は行われます。


・・・秩父の寺を廻ると、背景地や脇に墓地を持っている寺と墓地が見当たらない寺に出会います。当初、修験者の道場として成立し、修験道の禁止の法律で寺に変わったところは、それはそれで納得出来ますが、そうでないところは何故でしょう。坊さんは聖職ですが、生身ですから”霞”を食べて生活できるとも思えません。いくら仏閣を大切に扱っても、長年では朽ちることもあるし、武田軍が火をつけたこともあるし、山崩れや水害でも損傷は受けそうです。檀家の無い寺や、少ない寺は、そこをどうしたのでしょうか。同じことは、神社でもいえます。そんなことを思いながら巡ると、時折この寺の別当畠山重忠とか、丹治某がこの神社に供田しとか、家康は数町を御朱印しとか出てきます。どうも、寺も神社も領地をもっていたようです。

例えば、札所十五番の少林寺は、秩父神社(秩父妙見社)の神宮寺であるようだ。秩父を取り巻いた時の権力者の変遷は、まず秩父平氏が妙見菩薩を信仰して建立して庇護し、後北条がこの地の領有したが、この時の庇護は資料に余りない。そして徳川になって、庇護を厚くした歴史がある。庇護の内容は、改装費の肩代わりと生活基盤に領地を与えることで、この時の領地からの年貢の徴収など差配をするのが神宮寺で、経済的サポートのみならず、神事まで関与することが多い。秩父神社の少林寺は、明治の神仏分離令で廃寺とされが、時を経て札所十五番として復活して現在に至っている。

この神宮寺と役割を同じくするのは、「別当」とか「別当寺」とか呼ばれる、地方豪族や寺で、この関係性を眺めてみると、当時の勢力図が浮かび上がってきて、興味深いのだが、長い年月で資料は散逸している場合が多い。深く調べたわけではないが、武田信玄は、寺院と豪族との関係に目をつけ、別当であった寺は、その豪族の、潜在の第二勢力として、徹底的に攻撃したようである。その為、この秩父同様に、武田が侵攻した信濃国は、多くの寺院が焼き払われて貴重な資料を焼失している。

 

秩父は、地学の宝庫です。門外漢の自分ですら興味津々・・・機会があればまた・・

「ジオパーク秩父」のブログを参照下さい。以下に・・

http://www.chichibu-geo.com/midokoro/geosite.html


 

 

 

 

比企の地名の由来 と 比企一族について

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上野国佐野を拠点とした豪族、藤原秀郷の末裔が、比企に来て、比企一族を名乗ったとされる説があります。どの程度たどれるか、調べて見ます。例により、事実と事実をつなぎ合わせながらの構想のストーリーです。事実が誤認であれば、構想は虚構のストーリーとなる危うさは自覚しております。

日置とは・・・ 

比企の地名のおこり. 比企は埼玉県の中央部に位置し、山地から丘陵、そして沖積地へ と変化に富んだ地形が特徴です。平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名 として比企が登場しますが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀 ...と関係するという説が有力です。ちなみに、埼玉の比企の他に、鹿児島にも日置郡があります。

もう少し詳しく見て見ましょう。日置部は太陽祭祀を司り、暦に精通していきます。暦の精通は、当初は豊漁に通じ、農耕の発展で豊作に通じて、祭事の中心になってきます。こうなってくると、日置部は、一部をシャーマンに残し、祭事の道具の埴輪や土偶に関わる土師氏になっていきます。

こうして、「日置部は大和国家の新たな支配地へ中央から送りこまれた尖兵だったようです。彼らは武力集団であると同時に、太陽を祀る祭祀集団であり、測量をする と共に、また、製鉄や土器製作の新しい方法を身につけた技術集団で・・・日置だけを取り上げましたが、弊岐・戸岐・戸木・部木、比企などの地名も、同じ仲間と考えますと、埼玉県の比企(ひき)郡があります。・・・「これらが大和朝廷の支配圏の拡大にともなって生まれた地名である」ことは、たぶん間違いないとおもえます。

 

こうして、日置の郷に古代窯がうまれます・・・

比企地域には、西暦600年前後、6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器が生産がはじまっていた。8世紀になると、南比企丘陵−鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられていきます。

そのうち、仏教の伝来と普及によって、地方にも寺院が建立されてきます。朝鮮あたりからの仏教伝来は、宗教だけでなく文化や技術も伝来します。その中に瓦の技法も当然あったと思われます。こうして、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになりました。


瓦窯跡の誕生・・・

・・大谷古代窒  ・・赤沼古代窯

古代寺院は、比企地域とその周辺では7世紀前半に寺谷廃寺(滑川町)に現れ、その後、7世紀後半以降、馬騎の内廃寺(寄居町)、西別府廃寺(熊谷市)、勝呂廃寺(坂戸市)、小用廃寺(鳩山町)などが造営され、須恵器窯で瓦の生産が行われるようになった。そして、この時期になると、大谷瓦窯跡(東松山市)や赤沼国分寺瓦窯跡(鳩山町)が生産を開始している。

新しい仏教の普及には、瓦の屋根で作られた寺院が、宗教として必要不可欠だったのかも知れません。ですが、当時の寺院はほとんどが廃寺になってしまったようです。


大谷瓦窯跡の例・・・

昭和30年5月に2基の窯跡の発掘調査が行われ、完全な形で掘り出された1基です。 瓦窯跡は、瓦を焼いて製作した窯のことで「登り窯」とよばれる形態をもっています。また、瓦の製造は、寺院建築とともに始まったものです。 この窯跡は、地山を掘り窪めて構築したもので、前長760センチメートル、約30度の傾斜をもっています。幅60センチメートルの焚口は、瓦を立てて補強してあります。燃焼部は一段深く掘り込まれて、一つの部屋を形成しています。また、瓦を利用して13の段が形成されているなど、全体に補強工作が慎重に行われています。出土遺物は、軒丸瓦、平瓦、丸瓦、文字瓦などです。年代としては、白鳳時代と思われます。

 

また、大谷瓦窯跡の付近に、日置部一族の墓と覚しき古墳群があります。三千塚古墳群というのだそうです。

・・古墳跡

三千塚古墳群 案内板より

昭和31年2月市指定史跡 
大岡地区には、雷電山古墳を中心として、数多くの小さな古墳が群集しています。これらの多くの古墳を総称して「三千塚古墳群」と呼んでいます。 三千塚古墳群は、明治二十年〜三十年頃にそのほとんどが盗掘されてしまいました。そのときに出土した遺物は、県外に持ち出されてしまい不明ですが、一部は国立博物館に収蔵されています。三千塚古墳群からは、古墳時代後期(六〜七世紀)の古墳から発見される遺物(直刀・刀子・勾玉・菅玉など)が出土しています。 雷電山古墳は、これらの小さな古墳を見わたす丘陵の上に作られています。この古墳は、高さ八m・長さ八十mの大きさの帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)です。雷電山古墳からは、埴輪や底部穿孔土器(底に穴をあけた土器)などが発見されています。 雷電山古墳は、造られた場所や埴輪などから五世紀初頭(今から千五百年位前)に造られたものと思われます。また、雷電山古墳の周辺にある小さな古墳は、六世紀初頭から七世紀後半にかけて造られつづけた古墳であると思われます。

 

日置族は出雲臣族です。このうち紀伊・日置首は天照大神の子天穂日命の後裔で、大江・秋篠・菅原朝臣と同祖です。また、京師・日置臣は菅原朝臣を賜り、土師宿禰と同祖です。さらに日置部の伴造である幣岐君は応神天皇の子大山守命の後裔です。従って、日置族は天照大神、応神天皇の子孫ということになります。901年藤原氏によって太宰府に流された日置族(土師族)菅原道真は同族です。

 

また、この古墳群のあるところに、大雷神社というのがあります。

・・大雷神社

大雷神社由緒沿革・・・・・

 当神社は伊邪那美命の御子大雷命を奉斎し、御創建は今から壱千百十餘年前清和天皇の御代貞観元(八五九)年巳酉四月十二日と社伝に言い伝えられている。
貞観六(八六四)年辛亥七月二十二日には武蔵従五位下大雷神従五位上を授けられ、三代実録武蔵風土記等の古文献にも記載されている如く古代より有名な神社である。
古代より当地は山間の地にして水利の便非常に悪く五穀良く稔らず、大神を祭祀してより五穀豊穣が伝えられ盛夏干旱の時村民挙げて降雨の祈願をし遠近郷の農民も降雨の祈願に詣でて深く信仰された社殿は、雷電山と号する古墳の嶺を平坦にして大神を鎮座し、社殿の周囲には昔日埴輪の残片が多く古考の説に此の地は武蔵国司の墓と伝承され、付近一帯には陪臣の墓と思われる数百の古墳の群が散見せられた。
寛政十(一七九八)年壬午四月二十五日再建の社殿は村内はもとより、大神の御神徳を称せる近郷近在の人等によって上遷宮が執行された。
寛政の頃には、関東取締役人の御沙汰によって行なわれた特殊神事の奉納相撲は両関が揃い盛大に開幕され、明治以前まで続けられ大谷のぼた餅相撲と名高かった。
寛政十年から五十九年後の安政四(一八五七)年、近くの山火事により類火して本社火災の折、御神体と奉斎せる幣串自から社外に飛び去りしより神顕の広大さに村民崇敬者益々畏敬の念を深め、この幣串を今も御神体として奉斎する。
安政四年の火災後五年の歳月を経て現本殿が再建された。
昭和四十三年十月二十三日

・・・・・この神社の本分がが書かれています。穀物生産の基となる”雨ごいの祈願”です。このように、多くの神社は”水をもとめる”ところから出発しています。例えば、奥の院とか御神体山とか呼ばれるところは、水源の源流地を指しているようです。雷も雨を伴います。これこそ、太陽祭祀を司る日置部の本質のところです。


ここまで見て見ますと、日置部の日置(ヒキ)一族が、土師氏としてこの地に土着し、古代窯をもち、最初は埴輪などを焼き、やがて寺院と関わって、瓦を焼いたのだろうと確信してきます。

日置(ヒキ)の郷は、やがて比企の郷に、文字を変えます。菅原道真は、一族の希望の星でありました。菅原道真は、天神様とか天神宮とか、九州に流された怨念で、京都に雷の嵐を落とした由縁で、雷の神となって、日置一族に祀られます。すばり、菅原神社というのもあります。・・・東松山に道真に関係する神社が異様に多いのは、以上の理由によるものと思われます。比企(日置)の郷は、従って、古代窯のあった周辺が想定されます。根拠は薄いのですが、現在の比企郡より範囲が狭く、東松山と鳩山を中心にして、隣接する村あたりまでかと想像します。

 

大谷・・・東松山市

日置の痕跡が残る大谷は、古代窒、大雷神社、古墳跡、天神社、そして後で説明する宗悟寺などが集積する地域です。火を使う古代窒があるので、火伏せの信仰もないかと探したら、近くに秋葉神社もありました。さすがに秋葉神社まで比企と関係あるとも思えませんが・・。この大谷は、森林公園の東側の真隣です。

 

比企一族が出現するのは、その後のことです。従って、比企一族が、比企の土地名をつけたのではありません。

・・藤原秀郷

 

上野佐野あたりを拠点とする藤原秀郷は、「平将門の乱」の残党を征伐しました。その褒美として、時の朝廷は、秀郷に、比企の郷の領地を与えました。秀郷は、子孫を比企の郷の派遣して領主にします。比企を領有した秀郷の子孫が、比企氏を名乗りました。

比企一族の当主である掃部允助宗の正式な名称は、名付けのルールに従えば、比企掃部允藤原朝臣助宗と言うことになる。この類型をもとめれば、 源義家(八幡太郎)の二男義国は下野国足利庄(栃木県足利市)にあって足利氏を称していましたが、義国の長男義重は足利庄を出て上野国新田庄を継ぎました。この義重の正式名称は、新田源朝臣義重です。新田の後に官名が入る場合もあります。分割相続した場合は、相続した土地名を冠につけます。この足利氏は、後に足利尊氏に繋がり、新田氏は新田義貞に繋がります。

 

異説・・・1 今井信雄著『鎌倉武士物語』の比企一族の項に於ける、その出自に関しては興味深いことが書かれている。比企氏が勃興した比企郡は鉄が多く産出する場所であり、比企氏は製鉄業を扱う氏族ではなかったかというのである。 ・・・鍛冶神たる天目一箇命の一族である。天目一箇命は日本全国各地に国造を残したことで知られる、この内、武蔵国では武蔵国造を輩出した。武蔵国造からは承平の乱で武蔵武芝が出て活躍し、その末裔には武蔵七党の一つである野与党、安達・足立氏等があり、知々夫国造一族(秩父・千葉一族)と頻繁に婚姻関係を結び、中世期には一体化した・・・上記の比企尼の長女・丹後局が安達盛長に嫁いでいるということである・・そして、安達・足立一族も又、その出自を、比企氏同様に魚名流藤原氏と仮冒しているのである・・・これ等のことを総合すると、比企氏は、武蔵国造の末裔で、安達・足立一族と同族とみるのが妥当だと思われる・・   ・・・・・日置氏が製鉄業を扱う氏族のは、少し無理があるように思います。秩父の方では、砂鉄の産出を確認していますが、製鉄に関する遺跡は確認できておりません。秩父の鉱山を推論の根拠に据えた、武蔵丘陵や比企の郷への短略的な結論だと思いますが、如何でしょうか。秩父を含めて、この地方の豪族が婚姻関係を深めて、同族化しているのは事実でしょうが・・・。    異説・・・2 「阿保朝臣系図」に拠って、比企氏の系図の概略を説明すると、次のとおり・・・  武蔵の比企氏の起源は、延暦期に阿保朝臣人上が武蔵に国司として赴任したことに起る。人上はもと阿保君といい、次に建部朝臣姓を賜り、延暦三年には阿保朝臣姓を賜り、・・大学頭に任じている。・・続日本紀に・・武蔵介従五位上の建部朝臣人上が見え、東大寺文書・・にも従五位上行介阿保朝臣人上が見えるから、武蔵介になったことは信頼してよい。その子の大国が武蔵に土着して比企郡司大領になったといい、その子の芳公、以下は宗人、只上、中宗と続いて歴代が比企郡ないし賀美郡の郡司をつとめ、中宗は武蔵介源経基に従って武蔵武芝を伐ったときに軍功があったという。中宗以降も比企郡領を世襲しつつ源家に仕え、その八世孫に掃部允宗員がおり、その子が掃部允遠宗であって、この妻が比企尼で、これが藤四郎能員の養母とされる。   ・・・・・阿保氏が武蔵国の地方長官を歴任したのは判るが、比企氏との繋がりが不明で、八世孫に掃部允宗員あたりに比企氏との婚姻がなされて同族化した可能性はあるのかもしれないが・・・たしか、川島金剛寺に残存する比企家系図に、波多野遠宗=比企掃部允とあった、と思うので、全く無関係というのではなさそうだが・・・どうもストーリーが繋がらない。   この、異説1と異説2をみると、朝廷から派遣された氏族が、この地に土着して比企をおこし、さらに連続して、比企一族になったような説明です。この連続性には無理があるので、ところどころこじつけのような表現が出てきて違和感を感じます。そうでなくて、比企の名を残した日置族と比企の名をもった武家の一族は不連続で、別物です。そうしないと、無理矢理のこじつけの物語が挟み込まれてしまいます。


・・比企能員

この比企一族の館は、宗悟寺の東側の城ヶ谷(じょうがやつ)にあったといわれておりますが特定されていないそうです。資料も残されていない、伝承のようです。比企掃部允助宗は、伊豆に流された頼朝の平家側の監視人です。比丘尼は助宗の妻ですが、助宗が死んだ後、比丘尼を名乗り、頼朝の乳母となり、頼朝を育てました。結婚当初、比企尼は城ヶ谷の館で過ごした事があるのかものかも知れません。比企能員は養子なので、比企の郷とは関係ありません。

比企一族の伝承は、むしろ比企の乱以後の、生き延びて逃れた一族のことがほとんどです。比企の乱の経緯については、吾妻鏡などで顕かにされて、解説も多いのでそちらを参考下さい。比企の乱の時、鎌倉にある比企一族は、悉く北条時政の支持勢力に殺されてしまったというのが、定説ですが、この比企の郷には、わずかに逃れて残存したという説が、まことしやかに残されています。


宗悟寺

・・宗悟寺

その一つ、源頼家の側女、若狭の局は比企の郷に逃れ来て、隠れ住んだと言います。残ったわずかの一族の係累が若狭を守り、沈静化の後再び、比企一族を名乗り、継承して存続したと言います。この伝承は、比企郡、東松山市大谷で当地は扇ヶ谷(おおぎがやつ)といい、宗悟寺(そうごじ)というお寺で、この寺は若狭が夫頼家の供養のために建立した寿昌寺を、天正年間に旗本森川氏が、この地に移して中興したそうです。また宗悟寺の北西にある比丘尼山(びくにやま)は比企尼や若狭が草庵を結んだところだという伝承があります。

この地は、比企一族の居館のあった本拠地である可能性は高いが、若狭の隠棲の場所は作り話のように思えます。

なお昔、扇ヶ谷(おおぎがやつ)が大谷に変わったのは理解出来ますが、扇谷上杉との関係は不明です。


金剛寺と正法寺

・・金剛寺 ・・正法寺

その二つ、比企の乱が起きた時、頼家の側女の若狭の局は身ごもっておりました。それも臨月近く。しかし、北条時政の兵に、若狭は殺されます。比企能員の家臣は、隙を待って、とっさに死んだ若狭の腹を割って遺子を取り出し、比企に逃げて正法寺観音堂の別当に預けます。この正法寺観音堂の別当は、川島町にある金剛寺です。腹を割って等、かなり生々しい逸話で、どうかと思いますが、殺される前に生み落としたのかも知れません。後に、なぜか敵側であるはずの北条政子が正法寺を庇護し、菩提寺にしたことが、縁起書の案内に記載されていることを思えば、こちらの話は、現実味を帯びてきます。この金剛寺には、比企一族の系譜があり、藤原秀郷の子孫の系図を示していると言われております。

*金剛寺・・川島町。旧道、白鳥の飛来地の越辺川入口に食品と衣料のスーパーが並ぶところの裏あたり、R254との中間ぐらい。

*正法寺・・名刹、物見山下、大東文化大となり。懸崖仏で有名な巌殿観音。


その三つ、武蔵国の日置族の比丘尼の長女丹後局に子がありました。その子は、比企の乱で逃れて、薩摩に行きます。その子は、後に島津忠久と名乗り、薩摩の領主になりました。・・・これも説としては、存在しますが証拠とする資料は見つからないそうです。

 

・・・未完 








 

 

 

 

都幾川堤防に・・・曼珠沙華が咲く

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県道74号岩殿観音・南戸守線・・・川島町長楽・・付近

 

     ・・・土手に咲く 曼珠沙華

 

もう、そんな時期になりました。都幾川の川風も幾分涼しく感じます。” 暑さ、寒さも、彼岸まで ”・・・この言葉はさすがです・

 

 

曼珠沙華が道筋を飾る散歩道 ・・・見沼田圃にて

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ここの曼珠沙華は、高麗の巾着田より一週間ぐらい遅く咲く。今は咲き始めの頃・・・。

埼玉で有名な曼珠沙華は、巾着田の河原と幸手の権現堂堤・・・。ともに群生が有名で、地面を覆い隠すばかりと咲き揃う。・・・しかしここは、散歩を楽しませるが如く、延々と桜の並木に沿って、咲き並んでいます。


見沼自然公園あたりから、総寺院・国生寺あたりまで・・・見沼用水東縁水路に沿って

           

・・・歩く道すがらの撮影ですが、順序は不順です。最盛期は、もっと花がぎっしり・・・


・・・見沼用水東縁水路、 遊歩道路は水路沿いですが、一部は車の通行は不可、他は、農耕道路と兼用なので車が通れます。

*見沼用水東縁水路・・・上尾市瓦葺から大宮・浦和・川口を経て都足立区まで続く用水路・

見沼用水路に沿った遊歩道は、規則正しく、約10m間隔で桜並木が、それはそれは延々と続き、春の桜の頃は壮大な眺めです。空から眺めたら、嘸かし桜の川のような帯なんでしょうね・・・。その桜並木に沿って、秋の彼岸の頃、彼岸花・曼珠沙華が咲き始めます。桜と同様に、見沼用水路に沿った道に、延々と咲いて道を飾ります。どこまで続くのか、、歩き疲れて確かめたことはありません。

犬を連れた散歩のひと、カメラを持った散策の人、水筒を片手に歩く人・・・三々五々の散歩道でもあります。

曼珠沙華の咲く散歩道を、勝手に・・・・・

「はらみつの道」と名付けてみました。呼称を他人に強要するつもりはありません。

・・サンスクリットの”pāramitā ”、漢語の”波羅蜜”に準えました。彼岸の意味のようですが、軽く、”季節の・・”と思っていただけるといいです。曼珠沙華の咲いている時限定です。

 


  ・・・土手の斜面にも・


ここの曼珠沙華は赤ばかり、・・白い曼珠沙華には、悪を離す、という言い伝えがあるそうです。山口百恵の歌では、・・・まんじゅうしゃか、と歌っていたと思います。作詞の阿木燿子の読み方のようです。好きな歌ですが、確かめてみて下さい・↓

http://www.youtube.com/watch?v=wrymFRFWAWo


そうだ、今日は”りす” に会いに行こう!

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大宮駅での待ち合わせは、左右の改札口の中央にある、金属のモニュメント、「豆の木」ということになっている。

・・この金属の”つる”が・・豆の木

だが、一昔前は、駅での待ち合わせには、駅階段・東口・を下りきったところの広場に佇む”りす”の像の前が利用された。しかしメジャーではなく、知らない人も多い。

・・りすの像・「子リスのトト」ちゃん

この”子リスのトトちゃん”は今から50数年前に、市制50周年を記念して、大宮のアイドルマスコットとして、制定されたらしい。それは、大宮出身のアニメ作家の絵から選定されたようだ。

・・雰囲気は、子供アニメのようだが、そして作者も、自分には分からない。どうも、大宮の、象徴的マスコットは、”りす”ということになるようだ。そういえば、プロサッカーチームの「大宮アルディージャ」は、「Ardilla]=りす、からの命名という。

 

そんなこんなで、・・・

・・「市民の森・見沼グリーンセンター」にやってきた。入口にある、レリーフの板碑は、色んな果物と野菜が彫られている。覗き窓?に鎮座するのは、青いリンゴ?。

反対側を見渡すと、見沼たんぼ風景と風車・・・

遠くに見える電車は、東武野田線・・・

園内は、公園です・・・

・・入口から、芝生の原の方角の風景・・

・・熱帯植物園、ですが、自分には”生暖かく”て苦手。

・・ここに、りすの家、があります。入場料は、確か、無料ですが、本日休館の文字が見えます。・・・残念

りすの飼育所のりす・・・

    

・・全長20Cmぐらい、手のひらに乗りそうです。シマリスです。

 

 

 

 

 

虹を見ました

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 ・・虹を見ました。・・・少し前のことです。

場所は、通船堀公園・・・公園らしくありません。芝川と見沼用水西縁線が合流する辺り、川口なのか浦和なのか、どちらか分かりません。大きく弧を描いて、地上に落ちています。久しぶりの虹です。

 

    ・・      虹立ちて 忽ち君の 在る如し  

            虹消えて 忽ち君の 無き如し    ・・高浜虚子

           ・虹を吐て ひらかんとする 牡丹かな   ・・蕪村

雨の中の秋桜が・・

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雨の中の秋桜が・・

 コスモスは秋桜とかくようだ。医者で俳人の、水原秋桜子は、よほどコスモスにこだわりがあったのだろうか、号に秋桜を選んでいる。しかし、詠んだ句は意外に少なく、数句にとどまっている。

よれよりも、”さだまさし”の歌の ”秋桜” が、なぜか馴染みます。・・作詞作曲。

・・・・・山口百恵の ・「秋桜」 ・・・CMはスキップできます・・

              秋桜 山口百恵 - YouTube

    さだまさし  ・「秋桜」 ・・・CMはスキップできます・・

              秋桜 - YouTube   

秋桜に対するイメージは、この歌から変わったような気がする。それまでは、秋桜には深い思い入れも、意味付けも、考えたこともなかった。いまは、秋桜を見ると、歌の情景が、浮かんできたしまうようになった。

・・・・・こんなのは、自分だけだろうか、こすもす は " コスモス ”ではなくて ”秋桜” の方がいい。

自分には、秋桜は”群落”でなくてもいい。むしろ、路傍に咲いた、雑草の中に、まばらに列をなした秋桜の方に愛着を感じる。そこに涼しげな風が吹いて、ようやく暑い夏の終わりを、かすかに目と肌で感じる・・・

「コスモス街道」の名がついた道は多いが、記憶に残っているのは、

             ○佐久街道 と ○館山に行く道

涼しくなった風が、秋桜を揺らしながら、旅を誘う・・・・・

 

      

 

秋桜をみた帰り、O沼テニス公園の自転車置き場の木立が紅葉していた。芝生に落ちた朽ち葉と紅葉が光って、自棄になったように、きれいに見える。・・・・・   もうすぐ、紅葉の季節  ・・・・・

 

 

 

 

 


紅葉・まで、あとすこし・・

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先日、法事で、信州飯田に行ってきました。

いつもは、車で行くのですが、今回は高速バスです。バスの車窓からは、あいにくの雨で山の紅葉が見えません。やがて止んだ雨の後、飯田の町の街路樹は、やや色づいております。

        ・・街路樹の紅葉のはじめ・・・

 

気温に差があるのでしょう、さいたまの自宅周辺とは少し違うみたいです。

帰って、TVを見ていると、JR東海の「南禅寺の紅葉」のCMをやっています・・・・・。相変わらずに、”三都物語"というのでしょうか・・・。BGMも、変わらずに、アレンジ編曲の「My Favorite Things」です。

・・・南禅寺の紅葉(転用) 聞いていたら、本物を聞きたくなりました・・・

マイ・フェイバリット・シングス- ジョン・コルトレーン - YouTube

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歌詞(原文)と下手な訳

1番

Raindrops on roses and whiskers on kittens
Bright copper kettles and warm woolen mittens
Brown paper packages tied up with strings
These are a few of my favorite things

バラに降りかかる雨 子猫のひげ
ピカピカに光る銅のやかん あったかそうなウールのミトン
ひもをかけた茶色の小包
これらは私のお気に入り

2番
Cream colored ponies and crisp apple streusels
Doorbells and sleigh bells and schnitzel with noodles
Wild geese that fly with the moon on their wings
These are a few of my favorite things

クリーム色のポニー 歯触りのいいリンゴのシュトロイゼル
ドアの鈴 そりの鈴 ヌードルつきの子牛肉のカツレツ
月夜に翼を広げて羽ばたく雁の群れ
これらは私のお気に入り

Girls in white dresses with blue satin sashes
Snowflakes that stay on my nose and eyelashes
Silver white winters that melt into springs
These are a few of my favorite things

白いドレスに青いサテンのサッシュを身を纏った女の子
鼻やまつ毛に残った雪片
春になりかけて溶けだした銀白の冬
これらは私のお気に入り

When the dog bites
When the bee stings
When I'm feeling sad
I simply remember my favorite things
And then I don't feel so bad

犬に噛まれたとき
ハチに刺されたとき
悲しい気分になったとき
ひたすら、好きなもののことを思い浮かべる
そうしたら、悲しさが遠のいて、気分が晴れてくる

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アルトサックスもテナーサックスも好きですが、この曲の場合、耳慣れないソプラノサックスです。どうでもいいことですが、僕の場合、ソプラノサックスとの音質の差が分かりません・・・・・

John Coltrane の大好きな友人が、彼の死を悼んで「コルトレーンに捧げる挽歌」という詩を書いていたのを思い出します。学生時代の話で、学生アパートの隣室の友人です。その友人・・”じゅん”にも会いたいなあ・・・

「そうだ京都にいこう・・」とまでは思いませんが、夏場に巡回した秩父の寺院の庭園に、紅葉時期に又来てみたいところが何カ所があります。Coltraneの「My Favorite Things]のCDをかけた車に乗って、もう少ししたら、出かけてみようか・・と思っています。

 

 

柿の実のなる秋

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柿の実のなる秋

近くの公園の近く・・・柿の木の葉が色づいていました。

      

柿の実の色を、オレンジと言うか?どうか知りませんが、撓わに実っています。
秋の風物詩に、”すすき”と”柿”は欠かせません。特に柿の色づきは、涼しくなった秋風の中で、何故か心を温めてくれるような気分にしてくれます。

                

                    「柿喰えば鐘が鳴るなり法隆寺」・子規、

と言う句がありますが、子規の随筆「くだもの」の中で、あの鐘の音は、実は東大寺の鐘であることを明かしている。


・・・奈良の宿で、出して貰った柿を食している時、東大寺の鐘が鳴ったそうで、その場で、句の発想が暖められたが、俳句の絵画的な背景には、法隆寺が似合うと思い、翌日に法隆寺を訪ねる予定であった。翌日はあいにくの雨で、結局、法隆寺には行かずに空想で、あの句ができあがった・・・のだそうだ。

子規は、無類の柿好きであったらしい。その中でも、樽柿を好んだという。柿は、甘柿と渋柿に分類され、その渋柿には幾つかの「渋抜き」の方法がある。樽柿は、その中で、酒をまぶして渋を抜く方法。昔、少し酒の残った酒樽に、渋柿をいれて10日間ぐらいすると、酒のアルコールで渋が抜けたということから、樽柿の名がついたという。がしかし、・・・自分はいまだ食したことはない。

信濃の南信地方に、最近急速に”ブランド”化した”市田柿”という干し柿がある。こちらは乾して渋を抜く方法だが、寒暖の差が激しいところで工夫をすると、干し柿の周りに白い粉が吹き出して、和菓子のようになる。・・・これが、市田柿。これを世に送り出したのは、地元の農家ではなく、東京から田舎暮らしに憧れて南信州に帰農したエンジニアらしい。

先日、法事で飯田に行った時、バスの車窓から見た風景は、昔と変わっていた。

林檎の果樹園だったところが、柿の果樹園になっていた。・・・昔は、ほとんどの農家に、2,3本の柿の木があったが、果樹園にはなっていなかった・・・

三波石渓谷の秋・・・

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金讃神社に行った時、寄ってみた。

金讃神社は、埼玉県児玉郡にあり、直ぐ隣が群馬県鬼石町。鬼石町には、有名な冬桜の”桜山公園”があるが、一度来たことがあるので、もう開花時期を過ぎて、冬桜が咲いていることは知っていたが、”三波石渓谷”の方に行ってみた。

・・・下久保ダム このダムだ出来たことにより、ダム湖・神流湖が誕生した。下から見上げると流石に迫力あります。

また、このダムの建設により、一時的に、三波川は干上がり、無水川となって、渓谷の奇岩など川沿いに散在する、有名な三波石が黒ずんで、石と渓谷の風景を破壊したが、水量を調整いしながらの放流は、渓谷美と三波石を復活させた。

                    

                    

この緑がかった石は三波石と呼ばれ、いまや天然記念物に指定される。従って、現在は採掘が、規制で不可能と思われるが、かっては”庭石”として最高級の取り扱いがされていたらしい。下世話な想像だが、写真の上の石など、O千万円の価値がありそう・・・鬼石町は、町の名前も奇妙だが、庭石の石屋さんがいたるところにある。

・・・ 鬼石」の語源はアイヌ語の「オニウシ」(樹木の生い茂ったところ)に由来する説もあるが、不明である。

渓谷の秋・・紅葉が始まっています・・・

  

              *そうせきばし

             

*そうせきばし・・・漱石枕流・・流れに枕する理由は雑言を聴いた耳を洗うため、石に嗽ぐ理由は悪口を言った口を洗うため・・から拾って命名。河原に突き出たゴロゴロした岩を”歯”に見立てたのでしょうか・・・夏目漱石とは関係なさそうです

 三波石渓谷の紅葉は、始まったばかりのようです。秋の深まりとともに、紅葉の色を濃くして、エメラルドの川の色と対比して、コントラストの美は、目を楽しませれくれそうです。

三波石の三波の名は、どうやら渓谷美だけのものだけではなさそうです。どうも、日本構造線の外側に全国に変成岩帯として分布しており、固有名詞ではなく普通名詞になっているようです。地殻変動・・造山活動に連動して出来た地帯で、この地層から、多くの”化石”が発見されています。

*三波川変成岩帯は中央構造線のは外帯に接する変成岩帯である。日本最大の広域変成帯とされ、低温高圧型の変成岩が分布する。名称はここの場所名から取られた。利根川流域の御荷鉾山鉾山の北麓を源流とする三波川産出の結晶片岩を三波川結晶片岩と呼んだことに由来する。分布は関東山地から諏訪湖・上伊那を経て天竜川中流域、紀伊半島、四国から九州の佐賀関まで1000Kmに及ぶ。生成はジュラ期から白亜紀後期までとされることから、化石の含有が多いことでも有名。・・・

かつて、御荷鉾山系のスーパー林道に憧れて、林道ドライブを計画したことがあったが、いまだに果たしてない。ここは、林道の草分け的な存在だった。・・・四駆の流行始めの頃の話で、もう昔話・・・

そういえば、この近くから恐竜の骨が発見されて、「恐竜センター」もこの付近でした・・・

 

金鑚神社 ・・砂鉄の神社か 武蔵二宮 

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金鑚神社 あるいは金佐奈神社ともいう

  


金鑚神社・・かなさなじんじゃ・・は、式内社、武蔵国二宮(五宮説有り)。式内社とは『延喜式神名帳』に記載されている神社をいい、『延喜式』の時代・延長五年(927)に記載されている。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。官幣中社は国家の保護を受けた神社で、明治になって改めて、近代社格制度で確認登録される。


金鑚とは・・
1火打石・火鑚金が御霊代となっているから、2金鑚とは、砂鉄を意味し、神流川で良質な砂鉄がとれ鉄の材料になった。砂鉄の採集地を鉄穴(かんな)というが、神流川は金鑚神社の近くを流れている。銅もとれたらしく祭神は金山彦であるともいう。
「金鑚」の語源・・・砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」に求められ、神流川周辺で、刀などの原料となる良好な砂鉄が得られた為と考えられている。また、御嶽山から鉄が産出されたという伝承もある。『神川町誌』に記述される一説として、砂鉄の採集地である「鉄穴(かんな)」を意味するものという説もある。これは金鑚神社の西方に神流川が北流している事による説である。語源については諸説あるが、古代に製鉄と関わりがあったとする点は一貫している。・・・現在も神流川は砂鉄が多い。また砂鉄は鉱山を必要としないので、その遺跡を求めることは難しい。又たたら(小規模製鉄所)の発見もされていない。児玉党の児玉は、「鋼の塊」を意味すると言う説もある。だが、どれも決定的証拠にはなり得ず、「噂」の域を超えない。

 
・・・・・社伝によると景行天皇の四十一年(111)、日本武尊が東征に出かけるとき、叔母の倭姫命から草薙剣をもらい、その時一緒に貰った火鑚金(火打石)を御霊代として、御室ヶ嶽(御室山)に天照大神と素盞嗚命を祀ったのが創祀とあるが・・・??。その後、欽明天皇二年(541)に日本武尊を合祀・・・??。延暦二十年(801)に、坂上田村麿が蝦夷平定を祈願し、?永承六年(1051)には源義家が蝦夷平定を祈願、?なぜか東国平定のために皆が立ち寄ったことになる。・・・果たしてどこまでが本当か?


別当寺・・旧別当寺で現在は独立している。大光普照寺 - 通称「金鑚元三大師」


中世には武蔵七党の児玉党の氏神として崇敬され、阿保氏が当社近くの御嶽山に御嶽城を築いた時、多宝塔を寄進して氏神とした。多宝塔は現存しているのでこれは確かである。なお御嶽山は御室山に隣接し、天然記念物の鏡岩がある。

 ・・鏡岩


なお、最近の説に、御嶽山と御室山の両方を金鑚神社の御神体山としているのを多く読むが、これは誤りで、御神体山はあくまで御室山のみである。ちなみに御室は霊廟所を意味し、大陸系の風習であることから、ここに渡来人(・朝鮮系)の豪族の墓があったのだろう。

            ・・・これは、中門。中門の裏は山であり本殿はない。奥が御室山・・御神体山


特徴・・
神社の原型を示す。本殿を設けないで、御神体を”山”・・「御室山」とする。この類型は、諏訪神社(長野)と大神神社(奈良)の三社が代表。極めつけは、信濃安曇野の穂高神社で、奥の院の御神体は穂高岳で、山脈を御神体として雄大である。他に原型とされるのは、岩や滝など自然のものを御神体とする神社も多い・・那智神社(ここの御神体は滝)など。これらの神社は、古代祭祀の面影を残し、古くより崇敬を受けた。


多宝塔(重要文化財)・・・

・・・阿保氏からの寄進。(阿保氏・武蔵七党)


境内

・・・境内から拝殿を臨む

 

       ・ 行春や 鳥啼魚 の目は泪 ・       ・芭蕉

          ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ

 

・芭蕉の句が刻まれている。芭蕉が奥の細道への旅たちで江戸を離れる際に作ったとされる有名な句である。

でも、なんでここにあるのかが分からない。たしか、千住辺りが出発点だった気がするが・・・

ここから、延々と鏡岩に向かって500Mの道沿いに、句碑が並ぶ・・・壮観なり

 

華奴蘇奴国 中心地説・・・『魏志倭人伝』の記述、倭人の国の一つである「華奴蘇奴(かぬそぬ)国」の中心地とする説(山田説)がある。この説によれば、華奴蘇奴は、金鑚神社を中心とした国であったとする。その説を裏付けるかのように、児玉郡は埼玉県内でも最古級の古墳があり、説に見合うだけの歴史があるようだ。

追記・・・

「たたら」跡地の探索

「たたら」跡地の探索は、今となっては困難を極める。製鉄の方法で、「たたら」の製法が使われなくなって久しい。
その、可能性を探る方法としては、「たたら」製鉄方法の流れから、確認しなければならない。その方法に見合うところが、この北埼玉の地方にあるのかどうか・・・。
まず、「たたら」の製鉄所が多く確認される、島根南部地方から、「たたら」を学ぶ。
・・・島根県南部の中国山地は、風化花崗岩地帯という土質のため、良質な砂鉄が多く産出された。それを原料に、古くから「たたら」と呼ばれる製鉄が盛んに行なわれてきた。
まず、砂鉄含有の多い土質を掘り出し、流れのある川に入れる。比重の重い砂鉄は、近くに沈み、他の土砂は流される。・・・基本的に砂金も同様な採取方法・・・
つぎに、山腹に横穴を掘り、粘土製の炉のなかへ、原料である砂鉄と燃料である木炭を交互に装入し、砂鉄を溶かして鉄の塊を得る。これが「たたら」の製鉄法です。作業は3〜4昼夜にわたって行われ、最終日には炉を壊して炉の底で成長した約4tにもなる鉄の塊「ケラ」を取り出します。
たたらの操業は、「たたら師」と呼ばれる職能集団によって行われました。たたらの技師長であり砂鉄を装入する「村下」がすべての責任を持ち、村下の指示によって砂鉄を装入し木炭を管理する「炭坂=裏村下」、木炭を装入する「炭焚」、ふいごを踏んで風を炉に送る「番子」が一体となって作業をしました。
良質の鉄を得るためには指示をくだす村下の役割が重要であり、炉から吹き上がる炎の色を読むという一子相伝の技術が必要でした。たたら製鉄は、炎との格闘であリー歩間違えれば炉の爆発もある危険なものでした。
鉄穴流し・・・たたら製鉄の原料となる砂鉄の採取方法。斐伊川・飯梨川上流域の奥出雲地方から鳥取県日野川流域にかけては、良質の真砂砂鉄が分布していた。花崗岩の風化土を切り崩し、流水を利用した比重選鉱法であるこの採取法は、土砂から砂鉄を選別する優れた方法だったが、下流域に大量の土砂と汚濁水を流下させるなどの悪影響を及ぽした。いつからか下流域の農家との取りきめで、この作業は秋の彼岸から春の彼岸の間のみ行なわれるようになった。・・・島根・出雲の「たたら」の歴史より
この「たたら」の歴史に沿って、「たたら」跡を探索するとすれば、まず、砂鉄が含まれる風化花崗岩地帯という土質かそれに類する土質が必要になる。これが、この地方にあるのかどうか、・・・。そして、粘土製の製鉄炉が可能となる横穴、大きさは、たたら師5-10人ほどが作業できる広さの横穴と言うことになる。そして、この横穴の近在に、流れのある川(沢)と砂鉄含有の土質の堀跡が条件になる。「ふいご」などの製鉄の道具でもあれば、決定的に思える。さらにさらに、この鋼鉄を受け継いで発展した職業群落、「刀鍛冶」や「農具鍛冶」でもあれば、有力な傍証ともなるのだが、・・・

残念ながら、金讃神社にも付近にも、これらの痕跡は見つけられなかった。もしかして、「ある」のに見つけられなかったのか、「あった」のに風化して痕跡をなくしたのか、分からない。昔の知識人が、言葉に注目して想像をたくましくして、無理矢理に金讃と砂鉄を結びつけてしまった可能性もある。

昔々、「卑弥呼」の時代に、この児玉郡は金讃神社を中心に、国家をなして栄えていたという説がある。部族の力は武力の力でもあり、武力の力の優位性は鉄製造の技術に裏打ちされて可能であったと思う。その意味で、この北埼玉の砂鉄の跡を探してみました。

 

住所;埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮750

鷲神社と植木のさと・・・

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・・鷲神社、由緒板

神社の名前は、妙ではあるが、由来は一般的な縁起のようだ。古い神社は、どうも源某の名前が好きなようで、大概ここらの地の神社は、京都や奈良の朝廷に従わない東北の豪族をやっつけに東征し、途中の地で戦勝祈願した場所が、神社として設立され残っている。戦国時代も、地方の豪族が隣接と戦う前に、古の法にのっとり、その神社に戦勝祈願している。

鷲・・という、他ではあまり類を見ないが、大鷲神社とすれば例は多い、規模の小型の由縁か。

・・鷲神社奥の院

 

この地は、周囲より標高をもつ台地で、職業は農家に分類されるようだが、いささか風景を異にする。野田、代山辺りから安行、峯八幡辺りまでは、日本では有数の植木の育成供給地である。下の写真は、その植木の苗畑の様であるが、ここの季節の色は趣がある。特に、秋と春は、付近の私道とも覚しき迷路のような細道を散策するのが楽しい。目的の神社や仏閣を地図で探し当て、訪ねても、一発で目的地に到った試しがないが、ここの季節の色は、疲労感などを感じさせない。

・・庭の植木の苗木

・・同上・そのまま庭に・・・

東武野田線の大宮駅の次の次の駅が大宮公園駅で、公園と反対側に盆栽町がある。ここは昔盆栽村と呼ばれていた。関東大震災の時、東京の小石川付近の植木職人や盆栽業者が集団移住して形成された集落という。のちに地元の盆栽好きもここに住居を求めて移住し、今や世界的に有名な盆栽の町になったという。しかし、現在、ここは造園業・植木業・園芸農家が存在しないことも特色である。

勝手な想像であるが、関東大震災で東京を離れた植木業、造園業の商売を重視した人達は、もっと広域に、植木苗場が豊富に作付けできる、さいたま市緑区や川口市安行などへ分流して、ここに一大植物園の植木の苗場をつくったのではないかと思っている。先日、群馬の御荷鉾山系の端の三波河原の三波石という庭石の産地を見て、今日ここに、植木を見て、日本の庭園を思ってみたが・・・実は、マンション住まいで・・・叶わぬ夢・・・

 

場所;鷲神社・・埼玉県さいたま市緑区南部領辻

 

天空の寺の秋・・・

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天空の寺は、世俗から隠れるようにの人里から離れて、山の奥の斜面に、へばりつくように建てられていた。

 ・・山門

秩父の山奥の、またその奥に、天狗が住むといわれた秘境があった。

さて、その場所は、三峰神社に近く、標高も同等と思われる。甲斐・秩父往還(R140)を、道の駅・大滝温泉の手前の大血川渓流(釣り場)の方へ左に遡上することやく5Kmの山中・・・。

鎌倉時代末期から南北朝時代にむかう動乱の時代、当山開山仏国国師は後嵯峨天皇の第三皇子として京の都に生をうけられた。当時の京の都は鎌倉幕府の無力化とともに朝廷を巻き込んだ政権争いがにわかに激しさを増してきている時代であった。・・建武の新政の争い、後醍醐天皇・足利高氏・新田義貞VS北条得宗家の戦いのこと・・、そうした争いを避けるかのように16歳の時仏門に入った国師は、遥か東国に修行の地を求め鎌倉建長寺にはいる。その後さらなる悟りの道を求めて獣も寄り付かぬといわれたこの渓谷にたどりついた。

こうのような経緯を読むと、この寺の宗派は「臨済宗・建長寺派」となるが、ことはそんなに単純ではない。仏国国師の生き様を見ると、教典からかけ離れて、禅宗の自然同化の思想を持っていたようだ。山岳宗教の山伏とも関係を持っていたらしい。この独自性は、やがて、この寺が、東国の女高野山と言われるように、戦火に落ちた女人達を匿うようになる。

・・・・・ちなみに、臨済宗は武士の仏教宗派といわれ、室町期までは臨済宗・建長寺派(鎌倉)は南朝派、臨済宗・妙心寺派(京都)は北朝派に分類されたが、長い年月が両派を混濁化し、その後は新しい南北朝と無関係な宗徒を持つようになり、今では分類が出来なくなっている。足利尊氏も、宗教には寛大で、両派を差別して取り扱うことがなく、南朝側の仏閣への圧力はなかったようだ・・・・・


  ・・山門を守る阿吽の像

*口を開いている方が阿像、口を閉じている方が吽像、・・・

   ・・仏閣 懸崖造りの方は宿坊?

 ・・林道に寺の入口がある。ここから下ること30M・・寺の裏口に通じる。

 ・・大陽寺?と読める

大陽寺は、どうも太陽寺ではなさそうだ。日の光は、太くはなくて、大きいのだ。由来板を読むと、昔は、袋養寺と言っていたらしく、いつの間にか大陽寺になったらしい。読み方は同じようだが、昔の袋養寺の方が、歴史を考えると味があるように思えるのだが・・・・・。

    

輪廻・・今回の訪問は、実はこの額の輪廻の”昔文字”に興味を覚えたことも関係している。輪廻の世界観は、仏教の世界観だが、最近少しづつ、現世とか来世とか輪廻とか、神社の世界観と仏教の世界観を比較しながら、歴史を眺めるようになってきている。

・・・・・東京に、ある異質の神社があり、ある時、なんでこの神社は、”死者の霊を祀っているのだろうか”と疑問に思って以来のこと・・・、本来の神社とは違うのではないだろうか、と思い続けているのが原点にあるようです。権六が、何故に創建を思い立ったのか?・・その思いも、二重三重に歪んで、今に到ったのではないかと・・心にあります。*権六=村田権六(大村益次郎)

 ・・参道の脇の滝。日向山山頂近くに寺があるが、水源がどうなっているのか・・不思議。大血川の源流。

 

  ・・甲斐往還(R140)の大陽寺へに入口辺りの、荒川の紅葉・・ここから、大血川に沿って上流へ・・

 ・・大血川・・昔、平将門が乱に敗れた時、その妻である桔梗が供を連れてここに逃げたが、追っ手に囲まれて、全員が自決した。その時の大量に流れた血が川を染めて、その逸話から、この川が大血川と名がついたという。・・・その由縁があって、大陽寺(帒養寺)は戦乱の女性の落ち人を匿うようになった・・とか?

 

紅葉が飾る山容のむこうに、三峰神社があるはず・・・ここからも、山道が続いて神社に行けますが、今日は中津峡にいきます。紅葉を見てきます。

   ・・大陽寺から周囲の山容・・紅葉で色づいて

   ・・大陽寺付近の紅葉

 

場所;秩父市大滝459 電話0494-54-0296 

 

 

 

 

秩父の秋 ・・・中津峡の紅葉

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中津峡・・・

・・おそらく、中津峡の中で一番の、紅葉の名所なのであろう・・・

持桶トンネルの手前、「持桶女郎もみじ」の看板もある。・・女郎・・の間が開いていて、”女と男”と解釈するのだという、逸話もあると言うが、この先の鉱山が栄えた頃、鉱夫が千軒長屋に溢れており、彼等を商売の対象としたような所ともみえるのだが・・・、とにかく、「もみじ」は艶やかである。カメラを手に持つ輩の数も、ここが一番多い。

すでに、秋・たけなわ・のようで・・・

                

中津峡は、秩父市、奥秩父北東部に位置する渓谷。紅葉は秩父を代表する。中津峡は、荒川源流のひとつ、中津川上流の渓谷のことを指す。ほんの少し先は、分水嶺となり、神流川上流となり、利根川水系となる。・・・三国峠、十文字峠、十石峠・・直ぐ先が県境になっているのだ。

甲斐・秩父往還(R140)を、大滝温泉(道の駅)を過ぎて直ぐ、三峰神社方面と中津峡・雁坂トンネル方面の分岐を右・中津峡方面に行きます。滝沢ダムのループ橋を過ぎると、県道R210に右折します。ここからが中津渓谷が始まります。

・・ループ橋

    

渓谷に沿った、紅葉です・・・

 途中に、茶屋があり、”猪の剥製”が置いてありました。

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こちらの紅葉は、来る時寄った御嶽神社(飯能)の紅葉です。

門前の紅葉は、色づいていましたが、鳥居奥の、神社のもみじは、まだ緑でした。・・・もみじの紅葉まで、あと二週間ぐらいという所でしょうか。・・・もみじの紅葉に限れば、平林寺と御嶽神社が、色目と本数で、圧巻。時期には、ライトアップもあるようです。

 

 

 


高麗の神社 ・・・”いにしえを”を訪ねて

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秋の晴れた日に、思い立って、狛犬を見ようと思って、高麗の里の神社に行った。

この神社は、全国の狛犬の”故郷”、高麗神社である。狛犬は、高麗犬とも書かれる、、神社の”眷属”である。

 

この高麗犬というのは、犬の姿としては、いたって妙である・・・・・

高麗神社の、この高麗犬の像は、新しい。恐らくは、前に存在していた像が、朽ちて破損した後に惜しんで再建したのであろうが、全国に残存している高麗犬の容姿から想像すれば、先代を忠実に再現したであろうことが、容易に想像される。だけど・・・はたして、現実に、こんな犬が存在するのであろうか?・・・この疑問と想像が、悠久のロマンへの入口になっている・・・

・・・高麗神社(日高市) 全国の高麗神社の総本社といわれる。

・*高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光です。この一族は、最盛期は5世紀の「広開土王」、「長寿王」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。・・・『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。・・・

この由来書を信じれば、元中国北東部に勢力を拡大した高句麗の一族(民族)は、ユーラシア大陸を、西に東に闊歩した遊牧民であることが説明されています。この高麗族は、新羅系渡来人が割と容易に日本人と同化したのに対し、独自性を保持しながら、大陸や朝鮮の古式文化を伝承していたことが垣間見られます。

この頃の日本の文化レベルは、大陸系・朝鮮系の文化に比べ、未開といえるほど低かったと言われています。せいぜい、土器や矢尻や住居や祭祀の文化はたかが知れています。大陸系の、鉄製造や農耕や宗教など、諸々の文化のレベルは、数段も高かっただろう、と言われています。朝鮮から日本への渡航は、今でも難民が漂着することでも分かるように、陸を離れて海流に乗るまでと、日本に近づいた時上陸するまでが、人力を労するぐらいで、容易で、この頃渡来人は続々と日本にやってきて帰化や同化します。その頃、国という概念は曖昧です。従って国境という概念も存在しません。彼等が日本の政府に帰属して貢献したという資料も、数え切れないぐらいのようです。朝鮮・大陸に残った一族に、他族に攻められる危機や内乱の危機の情報が伝わると、政府に帰属した帰化人は、政府を動かして、朝鮮まで応援に駆けつけたりもしています・・・例、白村江の戦い・・・。

さて、高麗犬ですが、中国東北部にも朝鮮半島にも、この容姿の犬どころか動物まで、確認出来ていません。高麗族が遊牧民族の時、西征した時に見たか、あるいは交易で、西方の情報が入り込んだ時にその姿を認識したか、というストーリーが成り立ちます。

高麗犬の容姿は、どう見ても、”ライオン”に見えてしまうのですが、百獣の王が眷属だなんて・・・悠久のロマンを感じて、つくづく高麗犬を眺めています。

 

高麗神社の紅葉・・・クイックすると画面が大きくなります。

    

 

高麗神社の社家・・・高麗王若光の子孫が代々住んだという・・・

・・屋根に草が生えていました  ・・トーテンポール・道祖神とも識別標とも・・

 

  

高麗神社の社家の脇にある高麗家の家系図。家系図の隣に山道があります。「私道に付き、立ち入り禁止」の看板。この隣の山は、この神社の神体山ではないかと想像します。 神社の高麗犬の脇にも、山道の入口があります。ここを登り切ると、小さな鳥居と祠がありました。高麗神社の元の位置は山の中腹・・・とありました。ここが元々の高麗神社の位置?と比定しました。山道の途中の七福神の石像?・・かなり、愛らしい。この小神社の奥に、やはり、高麗一族(郎党)の墓がありました。奥津城というのでしょうか・・・

 

神社探索の後、聖天院に向かいます。歩いて5分ぐらい・・・

・・・聖天院全景・・・正式名称高麗山聖天院勝楽寺

     

高麗王若光の廟所・・小さな建物の中に石積みの塔が安置されています・・・

高麗王若光の生没年は不詳とされていますが、続日本紀に、706年、若光に「正五位」の官位が贈与されていることが記載されています。飛鳥時代のようです。

この頃の墓の様子は、大型古墳時代が、莫大な経費問題の反省で、簡単な円古墳時代に移った時代とされています。また古墳という墓の文化は、大陸からの流入と言うこともあり、古式に従えば、神体山の中腹に穴を掘り、埋葬して小山を盛り上げて、高貴な人には目印の石を置いたという習わしがあるようです。そう考えると、・・・この霊廟の下が小山の塚であり墓であるのか、後ろの山の中腹にあった目印の石積みの塔を移設したのか、が考えられます。墓石が登場するのは、もっと後期からのようです。

大陸の古墳は、中国辺りでは土盛りの古墳が普通であり、西方の砂漠地方では石積み墳が普通で、「ピラミッド」は石積み墳のバァリエーションのようです。

聖天院の紅葉・・・羊も門を守りますが、意味が解けませんでした・・・クイックで画面が大きくなります

         

聖天院は最近改築されたばかりで、大変美しい、手入れの行き届いた寺でありました。ただ参詣には拝観料が必要です。改装費が足りなかったのかも知れません。

   ・・高麗川の秋の風景。

 

慈光寺 ・・・秋 紅葉

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都幾川の慈光寺・・・秋 慈光寺の紅葉

 

葉書の語源・・・”たらよう”という、めずらしい木、葉の裏に文字が書けます・・・                          

      ・・多羅葉の木

★葉の裏 に傷を付けると黒く変色する不思議な植物がタラヨウです。「葉書の木」のニックネームで知られています。左の写真の葉っぱの字はマジックインクで書いたのではありません。

先の尖った物で、書いただけです。書いた跡はペンで書いたように見事に黒くなり、はっきりと字が読めます。宛先の住所を書いて切手を貼ればそのまま葉書になります。こんな葉っぱが採れる木が近くにあれば、メモ用紙 代わりにもなりそうです。昔は子供が字や絵を描いて遊んだことも多かったようです。字を書いた後の葉は、そのうちに枯れて茶色くなってきますが、それでも、かなり長期間にわたって、字はしっかりと読める状態で残ります(写真上段左)・・・転記

・・・まあ、しかし、これはどうもこじつけのようで、葉書は、「端書」が語源のように思えます。

実験で、実際に”たらよう”に文字を書いて、切手(規格外¥120?)を貼って投函したら、届いたそうです。でも、、自然のものですから、熱に弱そうだし、郵便屋さんも困りそうなので、実行禁止!で。

この木は、慈光寺の山門を潜った脇にあります。

慈光寺・・・由来書

・・・九十六世信海が書きました寺伝『都幾山慈光寺実録』によりますと、天武天皇の二年(六七三年)癸酉、僧慈訓が当山に登り慈光老翁の委嘱を受け、千手観音堂を建て、観音霊場として開基しました。 その頃、役小角が伊豆の国に配流となり、関東を歴遊して当山に至り、西蔵坊を設け修験道場としました。奈良時代になりまして、唐より波濤を越えて来朝しました鑑真和上の高弟、釈道忠によって、慈光寺は創建されました。道忠は、仏法を広めるため東国を巡錫しましたが、徳望篤く利生に努めましたので、民衆より広恵菩薩と敬称されました。道忠は、当山に仏像を建て、一尺六丈の釈迦如来像を安置し、一山学生修学の大講堂としました。・・・

かなりの名刹のようです。天台宗とありますから”密教”との関係も深く、山伏の寺でもあるようです。従って、修行道場とか学林とかの、お坊さんを育てるお寺であったようです。かっては、修行僧が寝起きする宿坊が周囲に乱立していたと言われています。宿坊は、寺院自体と違って造りが悪く、ほとんどが残存していないようですが、

 寺を取り巻く紅葉が、慈光寺を飾ります・・・

   

・・本堂 ・・周囲の遠景・・    クイックで画面を拡大できます


場所;比企郡ときがわ町大字西平386


堂平天文台  秋のグリーンライン in 奥武蔵

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都幾川の慈光寺の秋を堪能した後、時間に余裕があったので「グリーンライン」の白石峠まで登ってみた。堂平天文台が目的である。

奥武蔵には舗装された林道が、峠と峠を繋いで走っている。この峠と峠をつなぐ林道は、通称「グリーンライン」とよばれ、所々に関東平野を見下ろすビューポイントを持っている。関八州の見張り台もこのライン上に存在する。・・・過去のブログより・・

白石峠から、堂平天文台までが、やく2Kmの登坂行程。ここからの見晴らしは、秀逸・・・”関東一”という人もいるが、当方は、そんなに色々の”ビューポイント”を知っているわけではない。

・・誰かがつくった”関東一の展望”の看板

 

周囲を見渡せば、秩父の山は勿論、浅間、八ヶ岳、富士山も見渡せる・・・・・さすが関東一・・かどうかは分かりませんが、見晴らしは抜群で、感動ものです。

展望台近くのロッジ周辺の紅葉の模様・・・ロッジは宿泊も可能のようで、ペアが申し込んでいました・・・

   

  

 

ここに、グリーンラインの、もう一つの顔が浮かび上がります・・・・・

・・ここは、パラグライダーの聖地でもあるようです・・・

下の写真は、パラグライダーの、”飛翔”の地ならびに訓練の場所でもあります。

  

たまたま、偶然ですが、人が鳥になった場面に遭遇しました・・・

 

自分は、高度恐怖症ですが、かなり”うらやましく”思いました。・・・見物人が40人ぐらい、そのうちの7割が”モトライダーのようです。

夏場には、このグリーンラインは、自転車族の聖地かと思っていましたが、オートバイ族の聖地でもあるようです。冷気を帯びた高原の風が、彼等を誘うのでしょうか・・・・・

 

 

もみじの色彩 ・・・御嶽神社(東郷神社)

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 御嶽神社 紅葉           ・・・”もみじまつり”のポスター、”いざ秋さんぽ”

さすがに、埼玉一と言われるだけあって、もみじの本数に圧倒される。赤と黄の紅葉のコントラストは絶妙・・平林寺は、手入れされた紅葉の美があるが、ここのは自然の織りなす色彩の芸術・・・

惜しむらくは、撮影者のカメラの腕?!・・・”伝えきれない” ・・・

 

   

   

     

     

 役行者の像 ・・・     

清貫一誠霊神 信州木曾御嶽山の行者として、その生涯を捧げた清貫一誠霊神。

日に三度の水垢離をとり神に仕え、衆生済度に全身全霊を傾けました。秩父御嶽神社を創設。後に東郷公園整備。今も公園の入り口に凛として立たれ、人の辿るべき道筋を示しています。

11月26日・・・御嶽神社  もみじに燃ゆる・・・木曽御嶽山を分霊して1895(明治28)年に開かれた神社。創立は比較的新しいです。

住 所 :飯能市坂石580

コミネモミジの紅葉が空に広がる ・・西善寺

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 西善寺 秩父札所八番 ・・・

境内には樹齢約600年のコミネモミジ(カエデ)、埼玉県指定天然記念物の巨木があります。樹下のベンチに腰を下ろせば、静寂の中、苔むした庭に風がそよぎ心穏やかな癒しの空間、まさに600年の生命力を感じるパワースポット・・・寺の案内より

 もみじではなく、楓の一種のようです。その為、紅葉の葉に水分がないようです。落葉すると、地面に絨毯状に敷き詰められたようにならずに、風で飛んで行ってしまいます。小ぶりの楓は、モミジに見まがうようで、その為に、コミネモミジと名称したようです。色は、赤と黄色の中間ぐらい・・・

それにしても、大木です。この種の大木も珍しい。大木は、銀杏や杉に多いのですが、松の大木は余り見かけません。松は油分が多く、火事に弱そうで、反面杉や銀杏は、水分が多く火事に強い・・・大木になるには、そのそうな性質が絡んでいるのかも知れません。そうすると・・・コミネカエデの大木はかなり運のよい、貴重なものなのかも知れません・・・

  

 

 

 

 

強制ではないが、紅葉の時期、この寺は、拝観料が200円必要です。

住所:秩父市横瀬町根古谷598 TEL:0494-23-3413

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