写・京の地図 平安京
京の葬送の地
最近、明の「西行」を読み、また峯八幡の由来で「新羅三郎源義光」を調べて、鳥部野と新羅神社が頭に残っており気にかかっていた。
ある時、京の地図を見ていた。なんとわなしに、‘ボー’と地図を眺めるのはかなり好きである。調べようと思ったわけではない。ただ、鳥部野と新羅神社の位置を確認したかっただけである。
鳥部野は京の葬送の地である。鎌倉、室町の戦乱を思い浮かべて、単純にその頃からの葬送の地であると思い込んでいた。思い込みも激しいが、だが違った。もっと前、平安京の頃かららしい。
京都には、葬送の地は三カ所あるという。
鳥部野(鳥辺野・とりべの)
化野(あだしの)
蓮台野(紫野・れんだいの)
*化野など、地元の人か京都の歴史に詳しい人でしか、読み方を知らない。
鳥部野は、京都東山に位置し、清水寺の背景の山野。
化野は西山・・、蓮台野は北山・・
今でこそ、墓地の体裁を整えているが、鎌倉期までは戦乱の死者や窮乏の餓死者が京中の街角に溢れ、屍が通行のじゃまになるからと捨て置かれた場所なのだ。屍は土を被せるでもなく山積みに置かれ、土に還るのを待つのみ・、肉食・雑食の鳥たちの啄みの対象でもあった。風葬のことである。
写・清水の舞台
清水の舞台は、屍を谷へ投げ込む場所であった。その谷は鳥部野である。時が経ち、清水の舞台は”投げ落とす”から”飛び降りる”という表現に変わった。
その頃、天台宗や真言宗に弔いの思いはあったが教義はなかった。
・・・ 救い難い世相を救済する、は ・・まず埋葬から始まる。衆の安心は、来世は極楽であると言うこと。念仏をひたすら唱えれば、衆すべからく極楽に行ける、と ・・・
化野の入口に念仏寺がある。京都嵯峨野に当たる。法然が念仏道場としたのが発祥である。
京の不思議
京の地図を見ていると不思議なことに気がつく。
写・左京区右京区・京の図
右が左で、左が右なのだ。
地図は、上を北に置くのが約束。
京の中心から右側が左京(区)、左側が右京(区)。逆さまなのだ。
そもそも、平安京を作った人は誰であろうか?その人は、なにを考えていたのだろうか。
平安京は、中国の、唐の都市を模して造られたことで知られる。してみれば唐人が設計したとする可能性が高い。中華思想は中国が中心だとする考え方である。そうすると玄関口は日本海になる。
日本海側から京都を見れば、右は右、左は左 ・・・と言うことになる。
写・日本海流・半島
古来からの渡来人の日本へのルートは、島伝いに九州へ来るルートと、半島から島伝いに出雲へ来るルートと半島から海流を利用して出雲から若狭までの海岸線にたどり着くルートが考えられる。大量の日本への渡来は、技術文化の伝達のためなどは圧倒的に少なく、主に勢力争いの果て敗残した氏族が、生命の危機を覚えて、丸ごと日本に逃避したと見ることが合理的だ。その場合、最後のルート、海流を利用したと見ることが一番正確だろう。
兎に角、文明・文化の玄関口は日本海側であることは間違いない。平安京時代以後、京都北に位置する小浜あたりが一番適しているとおもえる。
新羅善神堂(新羅神社)
新羅三郎源義光が元服の儀式を行った新羅神社は、滋賀・大津の三井寺の中にあった。新羅神社は”新羅善神堂”という。
三井寺
・・・ 天台寺宗総本山三井寺(園城寺):所在地: 滋賀県大津市園城寺町246
写・新羅神社
写・三井寺(園城寺)
新羅神社は、そんなに珍しいものではないが、京都に求めると、やや困難である。それも、神社と言うより三井寺の一社格・仏閣としてあるので、人を惑わす。
これは、神仏習合のなせる所なのだが、なぜに廃仏毀釈を生き延びたのか、その経緯に詳しくない。建築様式的には流造の神社本殿。何故にこのように複雑かは不明。
三井寺の由来を見て見ると、源氏の源流が少しだけ垣間見えてくる。