天空の寺は、世俗から隠れるようにの人里から離れて、山の奥の斜面に、へばりつくように建てられていた。
・・山門
秩父の山奥の、またその奥に、天狗が住むといわれた秘境があった。
さて、その場所は、三峰神社に近く、標高も同等と思われる。甲斐・秩父往還(R140)を、道の駅・大滝温泉の手前の大血川渓流(釣り場)の方へ左に遡上することやく5Kmの山中・・・。
鎌倉時代末期から南北朝時代にむかう動乱の時代、当山開山仏国国師は後嵯峨天皇の第三皇子として京の都に生をうけられた。当時の京の都は鎌倉幕府の無力化とともに朝廷を巻き込んだ政権争いがにわかに激しさを増してきている時代であった。・・建武の新政の争い、後醍醐天皇・足利高氏・新田義貞VS北条得宗家の戦いのこと・・、そうした争いを避けるかのように16歳の時仏門に入った国師は、遥か東国に修行の地を求め鎌倉建長寺にはいる。その後さらなる悟りの道を求めて獣も寄り付かぬといわれたこの渓谷にたどりついた。
こうのような経緯を読むと、この寺の宗派は「臨済宗・建長寺派」となるが、ことはそんなに単純ではない。仏国国師の生き様を見ると、教典からかけ離れて、禅宗の自然同化の思想を持っていたようだ。山岳宗教の山伏とも関係を持っていたらしい。この独自性は、やがて、この寺が、東国の女高野山と言われるように、戦火に落ちた女人達を匿うようになる。
・・・・・ちなみに、臨済宗は武士の仏教宗派といわれ、室町期までは臨済宗・建長寺派(鎌倉)は南朝派、臨済宗・妙心寺派(京都)は北朝派に分類されたが、長い年月が両派を混濁化し、その後は新しい南北朝と無関係な宗徒を持つようになり、今では分類が出来なくなっている。足利尊氏も、宗教には寛大で、両派を差別して取り扱うことがなく、南朝側の仏閣への圧力はなかったようだ・・・・・
・・山門を守る阿吽の像
*口を開いている方が阿像、口を閉じている方が吽像、・・・
・・仏閣 懸崖造りの方は宿坊?
・・林道に寺の入口がある。ここから下ること30M・・寺の裏口に通じる。
・・大陽寺?と読める
大陽寺は、どうも太陽寺ではなさそうだ。日の光は、太くはなくて、大きいのだ。由来板を読むと、昔は、袋養寺と言っていたらしく、いつの間にか大陽寺になったらしい。読み方は同じようだが、昔の袋養寺の方が、歴史を考えると味があるように思えるのだが・・・・・。
輪廻・・今回の訪問は、実はこの額の輪廻の”昔文字”に興味を覚えたことも関係している。輪廻の世界観は、仏教の世界観だが、最近少しづつ、現世とか来世とか輪廻とか、神社の世界観と仏教の世界観を比較しながら、歴史を眺めるようになってきている。
・・・・・東京に、ある異質の神社があり、ある時、なんでこの神社は、”死者の霊を祀っているのだろうか”と疑問に思って以来のこと・・・、本来の神社とは違うのではないだろうか、と思い続けているのが原点にあるようです。権六が、何故に創建を思い立ったのか?・・その思いも、二重三重に歪んで、今に到ったのではないかと・・心にあります。*権六=村田権六(大村益次郎)
・・参道の脇の滝。日向山山頂近くに寺があるが、水源がどうなっているのか・・不思議。大血川の源流。
・・甲斐往還(R140)の大陽寺へに入口辺りの、荒川の紅葉・・ここから、大血川に沿って上流へ・・
・・大血川・・昔、平将門が乱に敗れた時、その妻である桔梗が供を連れてここに逃げたが、追っ手に囲まれて、全員が自決した。その時の大量に流れた血が川を染めて、その逸話から、この川が大血川と名がついたという。・・・その由縁があって、大陽寺(帒養寺)は戦乱の女性の落ち人を匿うようになった・・とか?
紅葉が飾る山容のむこうに、三峰神社があるはず・・・ここからも、山道が続いて神社に行けますが、今日は中津峡にいきます。紅葉を見てきます。
・・大陽寺から周囲の山容・・紅葉で色づいて
場所;秩父市大滝459 電話0494-54-0296