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春の花を、たずねながら、散策です

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    春の花を、たずねながら、散策です

土手に咲く、”菜の花”・・ではなく、”カラシナ”です。

淡い・・緑と黄色が・・・いかにも春の色です・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

右は荒川、左は入間川

 

 

  花の部分の拡大

 

これは、何の花 ・?・?・

調べて見ると・・・「マンサク」? X

 マンサクの花?ではなく三椏(みつまた)の花では・・

 と、教えて戴きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   「あせび」でしょうか・・

 

                『行邁』

                白々紅々相間つて開き

                三々五々青を踏み来たる

                戯れに胡蝶に随って遠きを知らず

                行人を驚き見て笑却して廻(かえ)る

                              ・・・・黄山谷

 

                  読み方・・・行邁(こうまい)

                白白(はくはく) 紅紅(こうこう) 相(あい)間(まじわ)って開(ひら)き。

                三三(さんさん) 五五(ごご) 青(せい)を踏(ふ)み来(きた)る。

                戯(たわむ)れに胡蝶(こちょう)に隨(したが)って 遠(とお)きを知(し)らず。

                驚(おどろ)き行人(こうじん)を見(み)て 笑却(しょうきゃく)して回(かえ)る。

 

                今日の、花をたずねての”行邁”、まさに黄山谷の詩の心境・・・・・

 


河津桜と寒緋桜 ・・・あれから11日 /end

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<定点観測> 2014/03/26 (前回3/15)

河津桜と寒緋桜 ・・・あれから11日  今回で終了です

河津桜は、葉桜に変わりつつあります。

寒緋桜は、満開のようです。

早咲きの桜は、後ろの控えた染井吉野や彼岸桜に、主役を譲る時期が来たようです。

   これも、河津桜!?

場所により、今が盛りの河津桜もあるようですが。


さて、いよいよ、真打ち登場!染井吉野・・・

3月25日・ 約一輪


3月26日 開花宣言・・・ウェザーレポートと同じ・・・

満開予想は、3月30日〜4月2日・・・  花の命は、短くて   予想の責任は気象庁!


辛夷の花・繚乱  白も 紅も ・・ 

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花開くまえ            ・・ いかにも おかしく

 

うすべに 姫辛夷・ひめこぶし        ・というのか   ・・・散歩の老夫婦に聞いて

 

       白の繚乱   空の青に映える  気品たかい 白・・・

               三好達治の詩集 『花筐』(はながたみ)より  

              ○山なみとほに

            山なみ遠(とほ)に春はきて

            こぶしの花は天上に

            雲はかなたにかへれども

            かへるべしらに越ゆる路

 

                   ・・・声出して読めば、なんと七五調 しらべ(調)もうつくし

 



野田の ”長屋門” と ”ろば”

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深井家長屋門・・・

長屋門スケッチ・・・転載

写真が深井家長屋門

名主の深井家があり、その長屋門はさいたま市指定有形文化財です。

・・・
 この長屋門は茅葺寄棟造りで、桁行21.200m、梁行5.465mあり、中央の通路部分は幅4.740mあります。この通路部分の正面は、いわゆる「立ち隠れ」がある形式で、半間下げて門構えが設けられています。なお、弘化元年(1488)の建立年を記した棟札が伝わっています。
 長屋門については、その建立年代に加えて、立ち隠れの有無、格式張った門構えか否か、扉が両開きか引分けか、門の両脇空間が閉鎖的か否か、という構造上の4点に着目することが、その成り立ちを理解する上での手助けとなります。市内の指定文化財を例にとると、「大門宿本陣表門」(県指定・元禄7年−1694)や「永田家長屋門」(市指定・江戸時代末期)は立ち隠れがあり、冠木のある門構えに両開きの扉を持ち、両脇は閉鎖的な部屋で、一部板床が張られ、番所もあります。
 一方、旧武笠家長屋門(市指定・天明3−1783)は立ち隠れがなく引き分け戸で、背両はすべて開放きれ、全面が土間となっています。前者は武家の薬医門にも通じる形態といえ、後者は門というよりも納屋といった印象を受けます。
 深井家長屋門を正面から見ると、前述のとおり立ち隠れがあり、堅固な門構えに両開きの扉を吊っています。規模が大きいこともあって、江戸時代には上野田村天領分の名主役を勤めた深井家として、必要な格式を備えた表門であるといえます。しかし、背後から見ると、ほとんどの部分が開放となっていて、かつて同家で盛んに行っていた柿渋作りをはじめとした各種の農作業にあたって、欠くことのできない作業場であったことがわかります。格式と実用性とを巧みに両立させた建築といえます。
 市内に残る長屋門のなかでも江戸時代に遡るものは少なく、さらにその多くは屋根などの外観に変更を受けています。その中で深井家長屋門は当初の姿を伝え、建立年代も判明している貴重なものです。また、近世農村の名主家屋敷における門の位置付けを伝える資料でもあります。・・・
  平成14年1月  さいたま市教育委員         ・・・ (現地掲示物より)

文中に・・上野田村天領分の名主役を勤めた深井家・・とあります。

ここ、野田地区は、江戸時代天領であって、岩槻藩には属していなかったようです。さらに、この地区を貫通して、日光御成街道が通じていたようです。もっと昔は、鎌倉街道・・・

調べて見ますと、この野田地区は、”さぎやま”と呼ばれ、かつて、サギの繁殖地として国の特別天然記念物の指定を受けていた場所で、江戸時代は”御猟場”であり、歴代の将軍が狩に訪れた場所でもあったようです。恐らく、広大な自然の残る”御猟場”のため、天領として扱われたのではないかと思われます。庄屋の深井家は、将軍の目に触れる機会も多かろうと、多少無理をして、長屋門の門構えを立派にしたのだろうと・・・想像します。

将軍の狩は、既に鉄砲が普及していたにも拘わらず、古式の従い”弓”で行われたものと思われます。武家棟梁は、別名”弓とり”とも呼ばれ、古式儀礼に沿って、犬追いと弓で”狩”を行った・・・これが、体力保持と戦術の鍛錬を兼ねていた・・・武家の”棟梁”のたしなみでもあり、戦乱の時代から離れて平穏の時代になっても、継続されていたようです。

違う角度から

 

 


深井家とさぎやま公園つなぐ小径は、植木の苗場の畑が散在します。・・・ My Favorite Things ・・・

     植木の苗場の畑の一角に、放牧?繋いでありましたが・・・

 ”ろば”でしょうか・・・

 

吉野 二分・・  道すがら・

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3月28日・・・染井吉野 2分咲き                   場所:見沼用水東縁

             青空に 二分だけ吉野開いて 深呼吸

 

連翹・れんぎょう  ・というのでしょうか?

 

黄色が、満ちて…                                    たんぽぽ

 

黄色が、満ち満ちて…                                    菜の花

 

 

白の洪水… 一昨日は、まばらだったのに …          雪柳・ゆきやなぎ

 

同じ道を、おなじように辿れども、  ………      昨日の道に昨日は無し

明日の道も  ……  今日は、残っていないのだろう。

大門付近 ・・地名の裏を覗くと

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大門付近 ・・地名の裏を覗くと

浦和の美園と言うところに、大門という場所がある。
前々から、奇妙に思っていたのだが、大門と言うからには・・・かなり大きな門があり、門の奥には、その門に相応する建造物があったのではないかと・・・それが見えないのだ。
実は、大門を通る機会は、昔からかなり多いが、その都度抱いた疑問である。

又地名についても、多少違和感がある。その違和感をたぐってみると、・・・最近どんどん存在感を増して、全国区になっている”埼玉スタジアム”がある。・・そう、サッカーの殿堂。そのサッカー場に隣接する当該駅が、”浦和美園駅"・・ 地籍は、さいたま市緑区大門なのに、・・美園・・なのだ。

 

           

まず、”美園”について解剖してみますと・・・
戦後10年ぐらい経った頃・昭和31年に、明治から続いた三村が合併。大門村・野田村・戸塚村の三村合併で、新たに美園村が誕生した。それから6年経った昭和36年、今度は美園村が、浦和市と川口市に、分割されて編入された。美園の北部は浦和市に、美園の南部は川口市に分割・編入合併されたのである。この美園の北部は、旧名の大門と野田に戻り浦和市に、次いでさいたま市となり現在に続いています。美園の南部も、旧名の戸塚に戻り川口市になった、と言うことです。
違和感は・・合併で、消滅したはずの”美園”が時々出現することです。なるほど、"美園"の地名は好感があり、地元では棄てがたいのかも知れません。

さて、大門ですが・・・
ここは、江戸時代に、日光御成道が開道され、江戸から三つ目の宿場町とされました。
日光御成道は、本郷追分で中山道を分岐し、岩槻を経由して、幸手宿で日光街道(本道)と合流する、脇街道です。大門宿が、三つ目としたのは、宿場の岩淵と川口は、まとめて一つで、鳩ヶ谷、大門、岩槻と続きます。徒歩の行程ですから、普通に岩槻が一泊目の距離で、鳩ヶ谷や大門は休憩の場所と思っていいと思います。
もっと昔は、鎌倉街道中道で、上野国(群馬県)に繋がっていたと言われていますが・・ 国道122号線を北に辿ると、利根川を越したところが”大泉”で、群馬に繋がっています。122号が、鎌倉街道中道と重なっているかどうか、先の方は確認していません。

大門の地名の由来は、どうも、お寺の山門に由来するようです。・・・寺の名は、”大興寺”。

           

                     こちらは、現在の”山門”・・・築年も、比較的新しそうです・・・

                               

               参道は、桜並木になっています。枝が落とされて、むき出しに、桜の花がまばら・・

【大興寺】
天正19年(1591年)に寺領30石が徳川家康より寄進された真言宗の古刹。中興開山は永義で、永禄2年(1559年)没。
本尊は不動明王立像。本堂前の建屋には阿弥陀三尊板石塔婆が金泥が塗られており、南北朝時代の作りで市指定有形文化財となっている。昭和51年に新築し寺観は一新。

              寺領30石と言えば、かなりの拝領になります。

              参考:大宮氷川神社100石、秩父神社57石・・・

そう考えると、大興寺は、かなりの大きさの寺院ではなかったか、と想像できます。が、しかし、いまは、普通のお寺です…

          大きなお寺の、大きな山門… が、この地の由来

                しかし、昔の話で、今は存在してないようです


          改装前の、山門の写真を見つけました・・借掲示

          

           天水 ? に、三つ葉葵の紋…

 

                                     庚申塔   閻魔様に、下に猿が三匹…

          

                          聖徳太○ …四文字目が読めません

 

ここは、大門宿だったので、近くに、萱葺きの本陣の表門(長屋門)もあります。

          

                本陣の門・別角度、本陣の○○家・現在

 

                       道路の斜向かいあったという、脇本陣が見当たりません。

              写真で見た限りでは、本陣同様、萱葺き屋根で、古色蒼然として、趣があったのですが・・・

                                  どうしたのでしょうか。

 

 

                         大門村の鎮守様・・・大門神社

          

          

    

           

          精緻な龍の彫刻です。甚五郎の作…の噂もありますが、秩父神社で見たのとは、どうも違う様で…

新宿御苑の小彼岸桜

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桜の名所・新宿御苑・・・

                     御苑の小彼岸桜を見に来ました ・・満開・・

 玉藻池・内藤家庭園

 

          新宿御苑は、桜の博物公園のようで・・桜の種類はかなり多いようです・・・

          大寒桜、カンヒ桜、ママベニ枝垂れ、枝垂れ桜、修善寺寒桜、、兼六園キサクラ、イヌ桜、シロタエ桜、エド彼岸桜

          バイゴジジュズカケ桜、高遠小彼岸桜、横浜ヒサクラ、ヨウコウ桜、大島桜、寒桜、ヒマラヤヒサクラ、山桜、・・・

          正直、どれがどれだか分かりません・・・カンヒ桜はかなり色の濃い、山桜系は白っぽい、寒桜系はやや濃いめ、とか

          

          

          

           花見客は、多いです

      

          

           木瓜と桜 赤とピンク

          

          久しぶりの新宿御苑です。久しぶりの程度は・・・45年ぶりぐらい。昔は・・代々木から歩いて、千駄木門から・・

          新宿門や大木戸門は、よく知りませんでした。     ・・・というより、あまりに久しいので”お上りさん”状態です。

          

          今日は、新宿門より入場・・・    入場料は45年ぐらい前も¥200だったような気が・・・

           Admission ticket ・ Please scan here

 

         満開の桜は、特に桜の色が、ピンクで、柔らかくて・・・それが優しく思えて、優しくなって、
         ・・うろうろ うろうろ ・・と、一時間ぐらい・うろうろ・して 帰りました。

 

          帰りは、御苑から新宿駅の方へ、歩きました。

                昔、新宿へ出ると、おなかがすいた時は、

                たまに、「アカシア」の”ロールキャベツ”か中村屋の”カレー”を食べたことを、
                      思い出しました・・・ アルタ裏の 「アカシア」へ ・・と

                それで、東口・アルタ前にいくと、こんな新聞を、手配られました………

                      「号外」・・ ? ではなく、 ・・ 「特報」・・ です…
               ”タモリ”の ”笑っていいとも” の、最終日 ・・・  これは記念になりますす ・

       

                  

 

             

 

 

桜の花見 ・・見沼自然公園と用水縁道付近

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                               見沼自然公園と見沼用水縁沿道の桜・・・満開

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                       ○ ねがはくは 花のもとにて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ  ・・西行               

             桜の花びらの短命は、古来より、人命の儚さと重ね合わせて、日本人の生き様についても、
                 特別な美意識を醸成してきた。人生の散り際(終わり方)の美学とでもいうのか・・・
                     桜の花を見ると、華やかな表舞台とその裏に潜む死の影を、”ふと”、見つけ感じる。
                         西行の、この和歌の花が、如月の花を示しても、読み人は、梅ではなく桜と読み取ってしまう。

          

                                            公園内の山桜?

                      

                            

                                         公園内の、紅木蓮?

                      

 

                                          公園内の、姫辛夷

                      

 

 

 

 


花の丘 ・・春の花 

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               花の丘 ・・ 正式名称 大宮花の丘農林公苑

                                   さいたま市西区新井124                    

                             チューリップは、どのくらい咲いたのだろうか・・・

                    

                                 花の丘公苑・・案内図  なぜか”苑”の方の文字

                          

             

                           苑の全体像 ・・・広大につき、端の方まで見渡せません

          

                                        枝垂れ桜は、満開・・・

                     

 

                                   今日は、チューリップを見に来ました

          

 

                           チューリップ畑は、苑内に数カ所 ・・・花の咲いていない畑もあります

                     

                                 黄色とのコントラストは、まさに春・・です

                     

 

                            芝桜 だと思います ・・・秩父・羊山公園のと比べて相当早い!

                                         

                               

 

                               ムルチコーレ ・という花だそうです  ・花の名札有り 

                     

 

                            ネモフィラ ・という花だそうです  ・花の名札がありました

                     

 

                           場所は、聖学院大学の近く、17号と上尾道路の中間ぐらい・・・

                      上尾道路は、17号バイパスで、将来圏央道桶川インターに通じる予定、とか・・

                                  花が、いっぱいの、いい公園です。

 

 

 大宮第二公園 池付近の桜 散りはじめ・・・

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                                  大宮の桜の花見で有名なところは、・・・
                      大宮公園、第二公園、びん沼川沿、花の丘公苑、見沼自然公園・・・でしょうか
                         大宮公園は、桜が大木化して、花の位置が上がりすぎて、・・・

                    それと氷川の杜はカラスのねぐらになっていて、時々弁当など襲撃してきます。


                       今回は、第二公園の池付近・・・ここは池の周辺と、見沼用水と芝川と

                                  ・・・桜並木が重層して、かなり壮観です。  

  

                   

 

                   

 

                   

 

                   

                      もう、散り始めています・・ 通路は・・霜降りの状態に・・桜の敷詰めです。

 

大宮 風渡野の宮 を探って・・・

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                        風渡野近くの綾瀬川・田園風景・・・    

                                     

大宮の綾瀬川沿いに、風渡野という風雅な地名の所がある。とりわけ、いつも風が吹いている様子もない。大宮という土地柄から、急速な住宅造成が多いが,どちらかと言えば、やや遅れて、田園風景が残存している地区でもある。隣接は、綾瀬川を挟んで岩槻の立地位置。
この風渡野を含んだ地方は、かって七つ郷と呼ばれた。七つ郷、すなわち七里は、風渡野村、門前村、東宮下村、新堤村 、膝子村 、猿ヶ谷戸村 (蓮沼)、大谷村の旧七村が付けた村名だが、今は存在しない。大宮と岩槻に電車が敷設された時、大和田と岩槻の間が長いので間に駅が出来、"加倉”と名付けられた。やがて、加倉は、岩槻に属する地名のため、地元の要望で、駅名は”七里”に改められた。・・・東武野田線、七里駅。
七里に隣接して、宮ケ谷塔の地名の地区もある。

ここで興味を引くのは、門前村、東宮下村、宮ケ谷塔の名前である。
どうやら、かっては、七里地区は、”宮(=神社)”を中心にして、門前の名前を残すぐらいの規模の”宮(=神社)”が存在していたことが、浮かび上がってくる。この宮が、大宮氷川神社や中山神社では、距離感が不自然である。

                                      風渡野の天神社

                

宮ヶ谷塔の由来は、谷戸の中に、宮があったことから名付けられたと思われる。・・谷戸とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形である。また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。谷、谷津、谷地、谷那などとも呼ばれることもある。・・・風渡野天神社の 南北方向は ずーっと 台地の上で平らですが 東方向はすぐに綾瀬川沿いの低地へと急に下ります 西方向は なだらかな斜面。
宮の東側に位置するのは、門前、東宮下。


                

               天神社の由緒・・クイックで拡大                  参道からの宮風景   

                         

                        ご神木由緒・・クイックで拡大             ご神木

さて、風渡野の名前の由来だが、どうも”風に纏わる風雅な地名"というわけでもなさそうである。この地の”谷戸”の地形が、女性部分の”ほと”に似ているところから名付けられ、少し変形したというのが、定説のようで、つまり風雅な文字は後付け。・・・神社を尊敬するかっての世界観は、生命を謳歌する思想が流れていて、かなり”おおらか”で明るかったようである。そこには、子孫繁栄とか生命力に関しては、未来への強い信仰があるようで、仏教の”輪廻”の世界観とは違って、力強い。こういった、開けっぴろげで明るい世界観、生活感は、嫌いではない。


                                   もう一つの宮・・宮ヶ谷塔の氷川神社

                   

風渡野に隣接して、宮ヶ谷塔地区がある。ここにも”宮”がある。宮ヶ谷塔の氷川神社という。天神社との距離は、約500mぐらい。この宮ヶ谷塔の氷川神社も、付近の信仰を一身に集めた”宮”の可能性もある。さて・・・と比べてみると、規模と氏子の数に大きな差がありそうな・・・、奉納の石碑、石柱、幟旗、灯籠・・数が違いすぎて、門前を持つ宮は、どうも”風渡野天神社”と比定するに至る。

七里・風渡野地区の中心の”宮”は、どうやら”風渡野天神社”、昔はもっと大きな規模を持っていた・・・と結論してみたが、証左は乏しくて、確証を得ない。果たしてどうであろうか。

木曽呂と安行 ・・地名の裏を覗くと

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木曽呂は、木曽呂であって安行ではなさそうである。しかし地続きで、”植木の郷”安行の隣に位置する。

      


見沼の悪水・芝川は台地の間を貫流し上尾、大宮、浦和を流れ、川口を流下する。その台地が舌状に東から延びている場所が木曽呂。反対側の西から舌状に伸びている場所が大牧。東の木曽呂と西の大牧の付島間は、僅か八丁、・・ここに芝川を堰き止めて、広大な溜め井がつくられた。この溜め井の沼湖は、日光の中禅寺湖よりやや大きく、諏訪湖よりやや小さい。芝川の堰き止めを、八丁堤という。
寛永六年(1629)、伊奈忠治の仕事である。
八丁堤によって出来た溜め井は、川口を手始めとする足立郡の下流地域・221ヶ村に調整された水流を流し、新田と美田を作り上げ、幕府の収入を飛躍的に増加させた。
一方、溜め井になって見沼の沼を増大させた湖水は、沿岸に多大の被害を出し始めた。
享保7年(1722)に将軍の吉宗の命により、井沢弥惣兵衛は見沼の灌漑を手がける。下流への灌漑用水の供給と見沼の新田開発である。これは、八丁堤を決壊して水を抜き、新たに見沼用水路を開鑿して水を供給するという事業である。成し遂げた井沢弥惣兵衛は、見沼をも新田に変えたのである。

さて、川口市に属する木曽呂だが、奇妙な名前である。木曽と関係があるかと思って、御嶽神社を探してみたが、どこにも見つけられない。どうも、”崖”や”傾斜地”を表す”きそ”から出来た地名らしい。呂は”背骨”の意味を持つ。この「崖+背骨」の地形名が始めに出来て、木曽呂の文字が宛がわれた・・・恐らくこんな所だろう。

地続きの安行の地名も妙である。しかし、こちらの方は、比較的明確に歴史に刻まれている。
戦国時代、岩槻城主太田資頼の家臣に、中田安斉入道安行がおり、この地を治めていたという。この安行(やすゆき)の名前から、安行の地名が付いたという。

              金剛寺・中田安斉入道安行の開基 ・・殿山城跡?


殿山城、たぶん陣屋の規模で、安行吉原、字立ノ崎。築城年は室町期で、主な城主は、吉岡将監・・・中田安斉入道安行の子だという。
歴史・・『新編武蔵風土記稿』には吉岡将監の陣屋と伝えている。吉岡将監は安行村の村名になった中田安斎入道安行の子であり、親子で岩附城主太田資頼(太田道灌孫)に仕えていたとされる。安行は明応五年(1496)に金剛寺を開基し、天文二年(1533)没。
なお、吉岡氏は現在も植木農家として存続し、吉岡氏が開基となった金剛寺も存続しており、安行の歴史を伝えている。

朝日神社   ・・・参詣記

                   朝日神社    


朝日の字を分解すると、十月十日が見える。○○年十月十日、近在の氏神が合祀されて、朝日神社になったという。・・・なんとも安易な神社名。

                                   


別名を木曽呂の氷川神社ともいう。しかし、祀ってある祭神の中に「須佐之男命」や「奇稲田姫命」が見えない。大宮氷川神社の改装の時、古き建材を譲られて、神社を建立した歴史があるという。無関係とまではいえないし、仮冒とまでいわないが、氷川神社とは別流と見ていいのでは、と思う。

 大宮宿 ・・・木曾街道 六十九次

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                                大宮宿           ・・・木曾街道   六十九次

              

中山道・大宮宿の版画絵を見ています。

富士山があり、桜が咲いています。右の土手の台地は・・大宮台地でしょうか。左の端に青面金剛像の彫られた庚申塔が見えます。

桜咲く早春の風景のようです。

江戸日本橋から京へは、東海道53次と中山道69次の道がありました。四宿一泊の原則に従えば、東海道で京に上れば十三日、中山道を選べば十七日、さらに霧ヶ峰の大門峠や木曽路は、箱根越えよりも難儀の多い旅だったと思われます。旅程も、四日余計に掛かります。

それよりも、今では”中山道”が一般的であるのに、木曾街道の名称が使われています。江戸時代は、”木曾街道”の方が普通だったようです。この部分は、少し斬新に思えます。

木曾街道の大宮付近は、江戸の初期には、氷川神社の参道を兼ねており、”恐れ多いこと”と参道と分離して、中山道が整備されました。この中山道整備の奉行は、伊奈忠治(=関東郡代)で、中山道開道後に、参道脇の本陣、脇本陣、旅籠を街道へ移しました。その時の関東郡代の陣屋は、記録では小菅陣屋とあります。・・・赤山陣屋ではないんですね。

 

                                     浦和宿

             

浦和宿の風景は、煙たなびく山が描かれております。”浅間山”のようです。木曾街道・・木曽路は”支蘇路”と書かれています。他の画の中には、岐阻街道とも書かれていて、色んな当て字見えます。

                                                                    ・・中山道六十九次・絵・・・渓斎英泉・安藤広重

 

緑の桜が咲きました

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                                    緑の桜が咲きました     

 

                             御衣黄・・ギョイコウ  緑の桜   クイックで写真が拡大します

                       

                       

                        黄色の文字はあるが、緑の桜で珍しい。名前の由来は、貴族の服の色から、とか・・

 

                       ・・・名前が分かりません・・

                       地面に這いつくばるように咲いています。薄いブルーの花。花の大きさは3cmぐらい。

                       

                       

 

                                山吹・・・・・

                            

                      

                      ここは武蔵国・・・山吹は、太田道灌に纏わる和歌の逸話が、武蔵国の教養とか・・・

                         ○ 七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき   

                          山吹の郷は 奥武蔵の越生とも、江戸の山吹(新宿区山吹町)とも、・・・

 

八重桜の咲く頃・・

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                                         八重桜・・満開

                      

                       小円内は桜の花びら クイックで拡大

                        

                  

                       円形トリミングは、PhotoScapeで加工、先輩にソフトの存在を教わりました。

         ・・・・・・・・・・

                古き友人の、facebookから転載・・ 時々安否確認で見ています。  季節の花に、添え書きがありました

                          

                                    春三月縊り残され花に舞う

                   東京は三月だが、北陸は四月ですね。^_^;通勤路の川岸も今や満開です ・・ H.M.

                        ・・・通勤途中の浅野川の沿岸に咲くソメイヨシノのようです。

                       でも句が・・・確か大杉栄の・・・似合わないような気がしますが・・・

                               多少・・なにかあったのかと気になります・・

 

 

                               

                        ハナミズキがほころびそう。気持ちが季節に追いつくのは容易ではない。

                                   一つづつ花の夜明けの花水木

                                       という句があります。・・・ N.I.

 

                      ・・・気持ちの整理が付いてきたのでしょう・・・でも完全にというのでもない・・・

                      一つづつの夜明け・・・彼の気持ちの代弁。 さて、ぼつぼつなにか書いてみたら・・・

 


つつじ・・咲き始め  in 物見山&巌殿

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                           つつじ・・咲き始め  in 物見山&巌殿

                   

                   

                   

                               つつじ咲く小径 そしてつつじトンネル・・・

                   

                   

                   

                   

 

                                      つつじの花を、フォ−カス        

             

                      

                     

                     いつの間にか・・巌殿・物見山は、”つつじ”の名所になっています

                       見頃の時期は、ゴ−ルデンウィークのころ・・かと思います

                       山の北面?を覆い尽くすつつじの群生は、それは華やか!

                 見下ろせば、古刹・巌殿観音の正法寺が・・・しかし見えません・・樹木が隠しています

                                    ・・・・・・・・・・・

                                     そして・・・

                                    巌殿へ参詣・・・

              

                          山門の仁王像

 

                            本堂の左手に、祠がありました。そして、石灯籠・・

            本堂 左の祠・・・

           ↑クイックで拡大

          石灯籠 ・・・正徳二辰年十月十日 信州松本城主 従五以下出羽守○○○○ 下の方が読めません 

          ↑クイックで拡大        調べると、正徳年間の松本城主は、水野忠直と判明しました。

                       でも、なぜ松本城主の水野忠直が、この寺に石灯籠を寄進したのか、意味がわかりません。
                     この地も、この付近も水野家が所領した事実はありません。水野家は、家康の母・於大の方の生家。
                          忠直は、幕府の命令で、江戸近郊の治水の事業をおこなったことがあるようです。

                                      想像を逞しくすれば・・・巌殿の山が崩れて、その修理に携わったとか
                              そこがこの付近かも知れませんが・・それ以上深くは調べません

庚申塔の記

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                                   庚申塔の記 ・・青面金剛

                                        むかし、婆様に
          「人間は生まれながらに胎内に、悪い虫が三匹おってナー、そいつが寝てる時に体から抜け出して、悪さをすることがあるンジャ」 
                                     ・・・と聞いたことがある。

                       高遠・藤沢の庚申塔 青面金剛像

最近では、総持院に桐の花を見に行った時、境内で、青面金剛像を見かけた。また、時々田舎道を歩いていると、文字だけの”庚申塔”や”明王を彫った青面金剛像を見かけることがある。数年前、信州高遠の藤沢と言うところを歩いていた時、道のところどころに、凝った彫りの庚申塔や石に文字だけを粗く彫っただけの、すさまじい数の庚申塔を見かけたことがある。その時は、”さすが、石工の街”という感想であったが、考えてみると、かって民衆に深く土着した信仰であった様な気がする。この「庚申信仰」とは、一体どんなものなのか・・興味が湧く。

                         

                                
・・・
現在に伝わる庚申信仰とは、中国道教の説く「三尸(さんし)説」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である・・三尸とは、道教に由来するとされる人間の体内にいる虫。三虫ともいう。・・さらに、上尸・中尸・下尸の三種類で、上尸の虫は道士の姿、中尸の虫は獣の姿、下尸の虫は牛の頭に人の足の姿をしている。大きさはどれも2寸で、人間が生れ落ちるときから体内にいるとされる。・・これでは、何のことか分からない。

                     総持院・青面金剛像
                                                更に調べると・・・
庚申信仰の行為は、六十日に一度の庚申の日に眠ると三尸が体から抜け出し、天帝にその人間の罪悪を告げ、その人間の命を縮めるとされることから、庚申の夜は眠らずに過ごすようになった。一人では夜を過ごすことは難しいことから、地域で庚申講とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待ちが行われるようになった。・・庚申待ちは平安貴族の間に始まり、近世に入っては、近隣の庚申講の人々が集まって夜通し酒宴を行うという風習が民間にも広まった。

                                     大興寺

                          以上を、婆様の言葉と重ねて照らし合わせると、少しだけ理解出来るようになった。

『柏崎物語』によると織田信長を始め、柴田勝家ら重臣二十余人が揃って庚申の酒席を行ったとある。さらに度々途中で厠に立った明智光秀を鎗を持って追いかけ、「いかにきんかん頭、なぜ中座したか」と責めたともあるという。・・ 宗教を信じないような振る舞いの信長が、庚申信仰は信じていた・・と。
『入唐求法巡礼行』承和五年(838)11月26日の条に・・〈夜、人みな睡らず。本国正月庚中の夜と同じ〉とあり、おそらく8世紀末には「守庚申(しゅこうしん)」と呼ばれる行事が始まっていたと思われる。すなわち守庚申とは、庚申の夜には謹慎して眠らずに過ごすという行いである、とあります。

                                 高遠藤沢の青面金剛像

                                            歴史の流れを見て見ると・・・
庚申待が一般に広まったのがいつ頃か・・、15世紀の後半になると、守庚申の際の勤行や功徳を説いた『庚申縁起』が僧侶の手で作られ、庚申信仰は仏教と結びついたようです。仏教と結びついた信仰では、行いを共にする「庚申講」が組織され、講の成果として「庚申塔」の前身にあたる「庚申板碑」が造立され出した。
また「日吉山王信仰」とも習合することにより、室町時代の後期から建立が始まる「庚申塔」や「碑」には、「申待」と記したり、山王の神使である猿を描くものが著しくなる。
このように、本来の庚申信仰は、神仏習合の流れの中で、猿を共通項にした新たな信仰へと変化しているようです。やがては宮中でも、庚申の本尊を祀るという形へと変化が見られるようになった。・・仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸時代は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期となった。
しかし、大正時代以降は急速にその信仰が失われた。

                                    大興寺

庚申塔の中の、青面金剛は、日本仏教における信仰対象の1つ。青面金剛明王とも呼ばれる。・・インド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊像である。庚申講の本尊として知られ、三尸を押さえる神とされる。

                            遊馬・高城寺

庚申の申は、かのえさる・・猿に通じ、庚申信仰は”猿”が庚申の使いとされ、庚申塔には猿が描かれるようになり、三猿を見かけるようになった。また、猿は猿田彦の神道にも通じて、猿田彦を祀る神社も、庚申信仰の対象になった。           ・・ それにしても、神仏習合は、道教も習合していたのか!

枝垂れ桜 散る頃

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                                       枝垂れ桜 散る頃 ・・・                       

                 これより後・・散る頃

                    

                              ○喜多院に 羅漢ら酒呑みて 桜散る     ・・庄

牡丹の寺  ・・総持院

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                     牡丹の寺・総持院


             牡丹園に咲く、つぼみも多い・・・・

              まだ季節に早いのか、疎ら・・・・    

                −−−−−−−−−−−−−−−−−−

                総持院 別名牡丹寺
                住所:さいたま市緑区南部領辻2944
                宗派:真言宗智山派、山号: 阿日山宝袋寺

                −−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

                

                

                 これは、シャクナゲ!?

                

                                    ・・山門は、鐘楼門 鐘が見えます・

 

                                ○風月の 財も離よ 深見艸   ・・芭蕉

                 この場合の”財”は、財産ではなく、才能や才覚のことと読めるが、世渡りの才覚としたい。
                       ”艸”は草のことだが、山に似ているところから、さしずめ山草のことか。
                            そういえば、牡丹は、薬草とも聞いたことがあるが、・・・

                          この句を詠むと、つい思うのは、小笠原長棟と中島明延。
             長棟は、武田信玄と対峙した時、さっさと嫡子長時に家督を譲り、寺に隠棲して、白牡丹を育てたという。
        長棟の重臣、中島明延も、時を遅らせて、武士を止めて小笠原家を去り、京都で、将軍や公家らと”茶”を楽しんだという。
                              ・・・京都呉服屋の豪商・茶屋四郎次郎家の祖。
                    二人とも、風流の道を選んだというが、本音は信玄が怖かったのではないか、と・・・ 
         長棟が、育てた白牡丹は、子の長時が府中(=松本)を去る時、武田に荒らされるのを恐れて、ある寺に隠したという。

                          今は松本城に戻っているというが、もう咲いているのだろうか。

 

雪壁の回廊

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                  あるプログを見ていたら、日本ロマンチック街道と草津が出ていた。そして、もうすぐゴールデンウィークである。

                             ・・・・・ その頃・・強烈な印象の風景がある。それを思い出した。
                   幼少を山国で育った自分が、始めて”海”を見た時の、あの衝撃の、感動を伴った、あの感じである・・・。
                                    あの時は、確か蒲郡の海だったと記憶する。
             草津まで、日本ロマンチック街道に含まれるみたいだが、草津から志賀高原を通り中野まで抜けるルートを”志賀・草津林道という。
                                   最近は林道の名称が外れたのかも知れない。
               映画で「私をスキーに連れて行って」が人気で、同名の”ユーミン"の歌が流行った頃、この道路は”ロケ地"になったという。
                                         謂わば”ツアースキーのメッカ”。


                        

                             草津から渋峠の手前あたりだったと思うが、”雪壁の回廊”はあった。
         このルートは、雪が積もっていなくても絶景で、白根山辺りから毒性ガスが発生し、硫黄の臭いが充満して、その為か木立が余りない。
                      目線には、遮る障壁がほぼ無く、目に入るのは青い空と稜線と、眼下に山を見るのみである。
                           この様な山岳ルートを”スカイライン"というのか、とかってに定義している。
                 それが、”雪壁の回廊”の時期は、両脇の雪壁の”白”と行く先の回廊の上の”青"さ・・・これは感動ものである。
                            今期は、雪が多かったので、雪の壁も相当高いのではないかとも思う。
                       このルートは冬期通行止めになっているが、例年ゴールデンウィーク前に開通している筈。
             この様な雪壁の回廊は、立山のアルペンルートや金精峠付近でもあるらしいが、アルペンルートは規模が大きいが、少し遠い。
                       金精道路は、雪壁の厚さが薄いそうで、ドライブの経験はあるがこの季節はよく知らない。
                               無性に行きたくなっているが、車を使う用事があり、どうなるか・・・

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