定林寺 札所十七番
はて?寺の脇の方に、巡礼とはあまり似合わない若者が屯しています。大学性でしょうか、高校生でしょうか・・それも四五人ではありません、もっと・・。
とにかく、ざっと一回り・・・
この寺の由来は、むかし壬生の殿様が居て、あることで殿様を諫めた林某という部下の武士を、諫めたことに腹を立てた殿様が追放してしまいます。追放された林某は、失意のもとにこの地に来て、付近住民のの信頼と尊敬を勝ち得ます。後年ここを訪れた壬生の殿様は、林の生涯を聞き、悔いて弔いのために寺を建立しました。・・・林某は林定元、この寺は林寺、のちに定林寺と名付けられました。壬生の殿様の名前は、壬生良門というのだそうです。
壬生良門・・・は、確か平将門の子孫説があります。・・・12世紀《今昔物語集》。ここにも、平将門に繋がる痕跡がありました。
後日記・追加
・・・平将門に関わりのある寺と聞けば、俄然興味が湧いてくる。つい真偽を、さらに詳しい史実を知りたくなる。いつもの悪い癖だが、どうも性分で・・・
この寺は、室町時代 札所一番ともいわれ、霊場にふさわしい大規模な伽藍であったらしい。
由来では、伝説があり、壬生良門(将門の遺児)が狩りに来て近くの寺で雨宿りした。利口そうな坊主がいたので名を尋ねると以前忠言に立腹して追放した林太郎定元の遺子(後の林源太良元)なので驚いたという。良門は怒りっぽい性格だったので前非を悔い、定元を弔う ...定林寺は平将門の子孫・壬生良門の忠臣林太郎定元の墓があることから定林寺と名づけられた。
さて、真偽を確かめるには、まずもって、壬生良門という人が実在したのか、から始めなくてはならない。
今昔物語集』巻14第10
「(陸奥国の壬生良門)弓矢を以て朝暮の翫として人を罰し、畜生を殺すを以て業とす。夏は河に行て魚を捕り、秋は山に交はりて鹿を狩る」とあります。人としては、相当野蛮で残酷なことを平気でやるようです。ただ、陸奥国が疑わしいように思えます。
壬生で記憶にあるのは、京都と宇都宮近く、秩父とはあまりに遠い。どうもしっくりこない。宇都宮近くには、興を感じる町名、「雀宮」とか「おもちゃの町」があるが、そこが確か壬生だったように思います。でも遠い・・・,京都壬生ではさらに遠い・・・
また、深谷市本田(旧大里郡川本町鹿島)の【古墳群の被葬者考】の碑文に次の様なくだりがあります。・・古代男衾郡の中心地であり、『続日本紀』に出てくる武蔵国分寺の七重塔を再建した壬生吉志福正(みぶきしふくしょう)一族の本拠地であった可能性が。
◆壬生吉志一族とは・朝鮮からの渡来系の氏族で、福岡から大阪へと移り、聖徳太子の四天王寺建立を助けるなど太子の側近として高い地位を得ていた。六世紀末に横淳屯倉(よこぬのみやけ)、今の吉見町の辺りに移住して、東北に勢力を伸ばしたという・・
こちらの方が、信頼性が高そうです。秩父とも近いので、狩りにも来そうだし、林定元が隠棲もしそうです。では、壬生氏のことを、さらに追いかけてみます。
・・「壬生」は皇子の養育にあたる職掌を持ち、「吉志」は朝鮮の王を表わすコシキが語源とされている。「吉志氏」は半島からの渡来人で難波で発展し、武蔵には六世紀の頃 屯倉(皇室領)が設置されてからその管理者として移住し土着とたといわれる。考えられる説としいて「畠山重忠」(畠山氏族)もまた、この「壬生吉志氏」の後裔ではないかと考えられる。・・・「歴史と人と」 埼玉万華鏡・ 著者 柳田敏司・・
ここには、壬生氏は新羅系渡来人の王家の出身で、天皇家の皇子の養育にも携わり、後に武蔵の皇室領に移住してきて土着したとあります。さらに板東平家の畠山家の領地と重なるところから、畠山重忠は、壬生吉志の後裔ではないか、としています。
・・壬生吉志の吉志(きし)は官位を表して、名前ではないそうです。
そうした下地を踏まえると、平良文が将門と同盟であったことを考えると、平将門が転戦あるいは逃避の時、深谷の壬生家に寄生して、その時子供が出来たことは状況的にはあり得ることです。当時も今も、平将門は関東近辺では人気があります。関東の地元豪族は、将門の中央政府への反旗に賛同し、来訪を喜んだと言われています。勿論、中央政府と利害関係のある豪族は、政府の指示に従いました。時の中央政府は、藤原一門でした。
伝承では、平将門の子孫・壬生良門とか、平将門の子の壬生良門とかになっています。伝承以外では、情況証拠だけです。でも、信頼してもよさそうな気がします。
また、新羅系渡来人が出てきました。この渡来人の壬生家は瓦をつくる技術があったという伝承があります。・・調べてないので、定かとしません。
寺の周りに赤い幟旗(のぼりばた)、「十一面観音」の文字が見えます。銅鐘には、意味ありげな文字が鐘のまわりにぎっしり・・・それよりも驚きは、さきの若者の他にも、寺の敷地内、敷地外に若者が、散策でしょうか、探索でしょうか、うろうろ・・・と、二十人ぐらい・・若者の屯の場所には、絵馬納所がありました。絵馬にはいろいろ書かれていますが裏面は若い女の子の絵柄です。それも「アニメ風」・・・
・・・以下は、帰宅して調べた事柄です。
実はこの寺は、ある「アニメ」に登場する実在の寺だそうです。ファンからは聖地になっています。
・・アニメのタイトル・・見た人は7割以上が感動で涙をながす、と言われています。うそみたいですが、事実らしいです。タイトルが長いので、略して「あのはな」とも呼ぶそうです。
このアニメに、頻繁に登場する寺、「定林寺・札所十七番」 ・・が、この寺です。見た目は平凡な寺ですが・・
この橋も頻繁に登場します。旧秩父大橋です。美しい橋です。荒川に懸かり、R299の国道が走ります。・・・・・その他、秩父神社や龍勢会館や西武秩父駅や秩父の街風景が登場します。
この夏、”あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない”の劇場版の映画公開がされるそうです。・・・8月31日全国ロードショウ公開・と表示があります。・・・西武鉄道は、社運をかけて?このアニメの宣伝をするようです。
住所;秩父市桜木町21−3